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2022年01月14日02:03

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中世史私論 その3 建武新政の人事 前篇

 建武の新政では堰(せき)を切ったように天皇主導の「新政」がおしすすめられてゆきました。空前の苦難のすえの政権奪還であれば、気負わぬほうが不自然でしょう。
 まずは人事です。勲功第一の足利高氏が鎮守府将軍、ついで左兵衛督(さひょうえのかみ)に、弟足利直義が左馬衛督(さひょうえのかみ)に補任(ぶにん)されました。他方、幕府と緊密な関係を保って権勢をふるってきた西園寺公宗(さいおんじきんむね)は解官(げかん)されました(八月選任)。さきの統幕計画に加わって各所に配流されていた尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)らには召喚状が発せられました、
 問題は護良親王(もりよししんのう)でした。天台座主尊法親王(てんだいざすそんうんほうしんのう)という立場から還俗して力戦、情勢の転換を導きだした点では、高氏とならぶ第一の勲功といわなければならず、本人も強く征夷大将軍をのぞみました。しかしこれについては父後醍醐と、すでに大きく考えがちがっていました。「公家一統(くげいっとう)」の世となったからには、征夷大将軍はおくべきではないというのが後醍醐の政権構想でした。だからこそ、天皇は六波羅攻略後いちはやく幕府の後継者のようにふるまっていた高氏にも、鎮守府将軍という称号しか与えなかったのです。
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