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2022年01月14日01:29

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サムソン・クツワダ

 元大相撲力士。元プロレスラー。190センチ、121キロの巨漢。本名、轡田友継。昭和42年に大相撲の朝日山部屋(四股名は二瀬海(ふたせうみ)、最高位は幕下23枚目)から日本プロレスに入門、ジャイアント馬場の付き人となりました。やがて馬場が全日本プロレスを創立するとこれに従いました。
 日本陣営が手薄だった全日本設立当初は馬場のパートナーに抜擢され、メインエベントにも頻繁に登場。これは新日本プロレスの初期に猪木が木戸修をパートナーにしていたのと同じです。海外遠征をしていない若手がメインに登場したのも同様でした。
 馬場にはジャンボ鶴田・クツワダ・ロッキー羽田の三人をエースとする「三田(さんでん)構想」というのがあったのだとか。

 1971年(昭和51年)の韓国遠征時にはマスクをかぶってタイガーマスクに変身しました。これは佐山サトルよりもはるかに先のことです。現地では大人気を得ました。大木金太郎に破れるまでは全戦全勝。

 やがて全日本時代、遠征先のオーストラリアではヒロ・トージョーを名乗り旧日本軍軍人ギミックで大ブレイク。悪の首領、ビッグ・バッド・ジョンの手先としてここでも大ブレイク。ワルドー・フォン・エリックとタッグを組んでいました。次のオーストラリア遠征ではヒト・トージョーと名乗った高千穂明久(のちのグレート・カブキ)とのタッグでも悪党人気を博しました。この二人のコンビは全日本プロレスでも「オーストラリア・遠征コンビ」として中堅戦線で活躍、アジアタッグ選手権を獲得しました。ジャンボ鶴田の台頭もあり、当初の三田構想は後退。、クツワダのぱっとしないファイトぶりもあって、ずるずると番手は落ちてゆきました。

 やがてクツワダはとんでもない方向に動きました。新団体の設立です。これにはジャンボ鶴田も加わりました。クツワダの甥がホームページを出していましたが、それによるとクツワダは馬場と猪木に挑戦し、ガチで二人を倒して引退させ、汚れ役は自分が引き受けて鶴田をエースにしようとしたのです。クツワダがそんなことに動いた原因は、日本テレビとの契約で豪華な外国人選手を大量に揃えなければならず、外国人選手に高額のギャラは支払ってはいましたが、日本人選手のギャラまでは上げる余裕はなく、そのことで不満を持つ日本人選手も少なくなかったからです。しかしこの計画は馬場の知るところとなり、クツワダは解雇されてしまいました。鶴田以外の日本人選手がついていかなかったことも要因の一つです。馬場は鶴田は処分せず、離反されないように二人のグッズを扱う会社を設立しました。この事件はながらく世間の知るところではありませんでしたが、グレート・カブキが雑誌のインタビューで明らかにしました。団体のバックには笹川良一もついていたとか。

 その後、仕事をみつけ、プロレス界との接点を絶っていたいたクツワダですが、2003年10月26日、全日本プロレスの日本武道館大会において、社長就任2年目を迎えた武藤敬司にリング上で花束を贈呈。公の場に久々に姿を見せました。
 2004年10月12日、急性骨髄性白血病のため死去。57歳没。
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