12/14(火)
今回は、11/3(火・祝)、12/5(日)の横浜ライドの第2章である。第1章では、ユーラシア文化館で開催中の企画展から「オホーツク文化」を、山手西洋館で開催されている世界のクリスマス2021の展示企画からスウェーデンについて紹介させていただいた。今回はイタリア統一160年の歴史の最終3回目である。その他山手西洋館内でのクリスマスの飾りつけや、お菓子メーカー不二家のペコちゃん、夜景の写真もご覧になっていただきたい。
第1章を記載した日記
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981076404&owner_id=32437106
見本の写真
左側 ブラフ18番館でのイタリアのクリスマスの飾りつけ
右側 12/5 アニヴェルセルみなとみらいからの夜景 時刻午後4時48分
第2章 山手西洋館巡り(続)イタリア統一160年の歴史(3)19世紀 夜景撮影
目次
1 イタリア統一160年の歴史(3)19世紀
�―�国入り乱れるイタリア半島
�▲淵櫂譽�ンの支配下
�L噂阿遼�起が起こる
�ぅ汽襯如璽縫祺�国の首相カヴールが統一の担い手になる
�ヌ餌欧諒�断の始まりを振り返る 西ローマ帝国の終わり
2 山手西洋館のクリスマス展示
3 夜景撮影 北仲ノット アヴェニセル横浜みなとみらい
� )銘腑離奪�46階展望台
�◆.▲縫凜Д襯札覯I佑澆覆箸澆蕕�
1 イタリア統一160年の歴史(3)19世紀
今回特集するのはイタリア共和国である。2021年は、奇しくも統一160年を迎えた節目の年だった。
過去に西ローマ帝国滅亡、首都ローマの歴史を取り上げた。今回は19世紀の初めからリソルジメントと呼ばれる統一運動までの歴史を紐解いていく。
第1回目 2021年7月7日付 EFA EURO2020企画(6)
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第2回目 2021年10月31日付 首都ローマの歴史を振り返る
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980736367&owner_id=32437106
� ―�国入り乱れるイタリア半島
現在のイタリア共和国は、11世紀ごろ、北部、中部、南部と主に3つに別れていた。北部は、神聖ローマ帝国を構成し、ヴェネチア、ジェノヴァを含め、港町として発展する。
中部は、長くローマ教皇が、主導権を握る。イタリア北部を組み込む神聖ローマ帝国の皇帝の間では「叙任権闘争」が起こった。西暦1077年に、神聖ローマ帝国のハインリッヒ4世がローマ教皇に屈服したカノッサの屈辱を通して、教皇が優位に立っていたことは確かである。教皇は聖地エルサレム奪還を掲げて十字軍を派遣する。14世紀頃に十字軍の終焉と共に権威を失い、フランス王から教皇の座を追われるなど、困難が続いた。
南部は、東ローマ帝国(ビサンツ帝国)の領土だったものの、北方からノルマン人、南方からはイスラム勢力に脅かされる。西暦1133年には、ノルマン人のルッジェーロ2世が、シチリア王国を建国した。
アルプス山脈の南側から地中海に長靴のように細長く伸びる地形上、フランス王国や神聖ローマ帝国、イスラム系などが、利害関係を巡って衝突した。諸国入り乱れ、一つにまとまらなかった。統一の契機は、1700年から1713年にわたったスペイン継承戦争に始まる。きっかけは、スペインハプスブルク家のカルロス2世が、跡継ぎがいないまま、死を迎えたことにある。母方がハプスブルク家のフランス王ルイ14世は、孫のアンジュー公フィリップを後継者に任命した。対してオーストリア=ハプスブルク家のレオポルド1世も母方が、カルロス2世の父フェリペ4世の妹だった。跡継ぎを巡って、フランスとオーストリアが激しく争った。
写真 掲載元 世界史の窓 スペイン継承戦争より
1713年のユトレヒト条約にて、両国は和解した。フランスのブルボン家がスペインの王室を継ぐことになったものの、領土問題ではオーストリア=ハプスブルク家の取り分が多かった。すでに戦争の渦中に当たる1707年に、オーストリアはロンバルディアを手に入れていた。1714年のラシュタット条約により、スペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラント・ミラノ・ナポリ王国・サルデーニャを獲得した。イタリア半島は、民衆の意向に関係なく、分割されたのである。
このスペイン継承戦争は、140年以上後の統一の足がかりにもなっていた。鍵を握るのは、オーストリア王国に協力したサヴォイア公国である。ユトレヒト条約でシチリア王国を獲得した。公国から王国へ格上げされたことを機に、オーストリアとの同盟締結のために、1720年にシチリアを譲渡し(形式的な王位は維持した)た。代償としてサルデーニャを獲得する。後のイタリア統一の中心となるサルデーニャ王国(首都はピエモンテのトリノ)が成立した。
80年余り事態は沈静化したものの、フランス革命後に現れたナポレオンによって大きく揺るがされる。
�◆.淵櫂譽�ンの支配下
1796年から1797年にナポレオンがイタリア遠征を行い、オーストリア・サルデーニャ連合軍を撃破し、カンポ=フォルミオの和約を締結する。イタリア半島をフランスの属国化に成功した。
写真 掲載元 note ナポレオンの皇帝即位が与えたもの
https://note.com/falconfjt/n/n4351c2eb7538
北イタリアのロンバルディア、モデーナ、教皇領とヴェネツィアの一部を合わせて、チザルピナ共和国(ラテン語で「アルプスの手前のガリア」の意味。ロンバルディア地方をさす)を樹立、首都はミラノにする。1797年にジェノヴァ共和国を占領してリグリア共和国とした。1798年にはローマに侵攻し、教皇ピウス6世を威嚇して退位させたことにより、共和国に変わった。翌1799年にピウス9世との和解により、再びローマは教皇領に戻ったのである。1798年にナポレオンは、地中海を越えてエジプト遠征に出ると、イタリア半島は領主同士が争い、不安定な情勢に変わった。
エジプト遠征にて、7月にアレクサンドリアを占領し、カイロに入城した。8月にナイル河口のアブキール湾内に停泊中のネルソン提督が率いるイギリス海軍との戦いで敗れる。総裁政府の危機に対応するため急遽パリに戻り、1799年に「ブリュメール18日のクーデタ」で実権を握り、第一統領となった。一般的に1795年11月2日に発足した総裁政府をナポレオンが倒したことにより、フランス革命は終ったといわれている。フランスで統領政府を樹立すると、西暦1800年に再びイタリアに侵攻し、領土奪還を試みるオーストリア軍をマレンゴの戦いで撃退した。西暦1801年のリュネヴィルの和約で、オーストリア軍を完全に撤退させる。シチリア島とサルデーニャ島をのぞき、イタリアはフランスの支配下に入った。
ナポリに関しては、1806年の占領により、兄ジョゼフを国王に据えた。翌1807年にスペインを支配下に置くと、統治方法が変わった。兄をスペイン国王とし、妹の夫ミュラにナポリ王の称号を与えたのである。
ナポレオンは、ヨーロッパの国々を勢力圏に置き、一つにする考えを持っていた。戦勝続きのナポレオンに対して、イギリス、ロシア、スウェーデン、オーストリアの連合軍が一つにまとまり、同盟を形成する。1813年10月16日から19日にザクセン領ライプチヒにて、19万のナポレオン軍は、総勢36万になる対仏同盟軍の前に屈し、エルバ島の領主として追放された。
1814年から15年にかけて、ナポレオンが去った後のヨーロッパの体制を決めるべく、オーストリアの外相メッテルニッヒ主導で、ウィーン会議が開かれた。1789年のフランス革命前の状態に戻され、イタリア半島の主導権はオーストリアが握った。サルデーニャ王国は、エマヌオーレ1世が主権を維持したまま、サルデーニャ島を併合し、都をピエモンテ州のトリノに置いた。王政復古の観点からジェノヴァとミラノの両共和国は認められなかった。ミラノは、ミラノ公国を含めてロンバルト=ベネト公国の一部になった。イタリア国民の意見は、会議に反映されなかったのである。ナポリはスペイン=ブルボン家が収め、シチリア王国を影響下に置く。
掲載元 note 史料でよむ世界史 11.2.5 イタリアの統一より
https://note.com/sekaishi/n/n36c844064bc1
�� 民衆の蜂起が起こる
王政復古に不満を持つ国民は、ヨーロッパ各地で抗議した。1820年、オーストリアの支配下から脱却を掲げるカルボナリと呼ばれる結社が結成され、同年7月にナポリで蜂起を起こす。続いて翌1821年3月にピエモンテでも抵抗運動が始まった。1821年5月25日に外務大臣から宰相に就任したメッテルニヒが率いるオーストリア軍により、鎮圧された。打倒王政を掲げる市民の運動は一端収まったものの、再起を喫して、立ち上がる。1830年7月フランス国内で、ブルボン家最後の王シャルル10世に対する市民の反対運動により、絶対主義体制が倒れた。いわゆる「7月革命」である。1831年2月、イタリアにも自由主義運動が波及し、第1次フランス革命にも加わったブォナローティ(生誕1761年-1837年没)を中心に中部のパルマ、モデナ、ボローニャで蜂起が起こった。大規模なイタリア反乱は、オーストリア軍によって抑えつけられた。民主化を求める市民は、権力には屈しない。辛うじて捕縛から逃れた反乱の立役者の一人マッツィーニは、パリに亡命し、建て直しを図る。民衆を一つにまとめるべく、組織化の必要性を説いた。民主化を求める有志が集い、1831年12月に青年イタリアが結成される。1833年から34年には、サルデーニャ王国内のサヴォイアとジェノバで共和制を掲げて、軍隊に立ち向かったものの、失敗してしまう。マッツィーニは、次にスイスへ亡命し、反撃の機会をうかがった。ヨーロッパ各地の民主化運動の流れに乗り、ついに決断を下す。1848年2月革命により、普通選挙権を放棄したオルレアン公出身のフランス王ルイ・フィリップに対して、市民が反旗をひるがえすと、ヨーロッパ各地で民衆の蜂起が起こった。当時フランスでは、一定額の納税者のみ選挙権が与えられていた。1848年2月22日に、労働者がセーヌ川を渡り、議会に押しかけ、権利を主張した。国王ルイ・フィリップは、急場しのぎとして、首相のギゾーーを解任した。新たに任命した首相ルイ・マシュー・モレーも同じく保守派の人物である。国民は納得できず、抗議を続ける。24日には軍事衝突にまで発展した。国王ルイ・フィリップは、かつて首相を務めたアドルフ・ティエールに解決を求めた。ティエールは、流血沙汰にならないように慎重を喫し、一端軍を撤退させて、パリを再奪取する案を出す。ルイ・フィリップは、ティエールの助言には従うことなく、身の安全から、退位を決断した。フランスは、新たに第2共和制へと移行する。
写真 掲載元 Twitteアドレス
https://twitter.com/joe___yabuki/status/1008270275450949632?lang=de
1848年10月にローマ教皇ピウス9世は、市民に包囲され、一時軟禁状態になった。辛うじて包囲網を掻い潜り、現ラッツィオ州ガエーダに逃れた。1849年2月9日、青年イタリアにより、ローマは共和制に変わった。主導者マッツィーニは、アウレリオ・サッフィ、カルロ・アルメッリーニノと共に三頭執政官に就任したのである。結果的に同1849年7月3日に、ルイ・フィリップの後を次いで、フランスの実験を握ったナポレオン三世の軍隊によって、共和国は潰された。翌1850年に教皇はローマに戻った。
イタリア半島内では、1848年1月にシチリア王国の首都パレルモで市民の暴動が発生した。国王は民主的な憲法の復活を容認する。トスカーナ公国、サルデーニャ王国、教皇国家でも憲法が再度採用された。北部のミラノとヴェネツィアでは市民が、オーストリア軍に歯向かい、民主化を宣言する。これまでどおりオーストリアは、軍を投入して鎮圧を図る。民衆側は、サルデーニャ王国のカルロ=アルベルトの後ろ盾を得て、交戦した。サルデーニャ王国の支援を受けたとはいえ、共和派は必ずしも歓迎したわけではなかった。支援を拒む勢力との間で意見が食い違い、一枚岩になれなかったのである。結果的に民主化運動は、オーストリア軍のラデツキー将軍に抑えこまれた。
�ぅ汽襯如璽縫祺�国の首相カヴールから軍人ガリバルディへ
軍隊と市民の争いは,19世紀半ばに新たな局面を迎える。イタリア半島の統一の担い手となるのは、サルデーニャ王国の首相カヴールだった。1853年から1856年にわたったクリミア戦争において、ロシア帝国と交戦するオスマン帝国を支援するイギリスとフランスに加担した。フランスとの関係を強化し、同盟を締結する。
1858年に、サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が、フランス王ナポレオン3世との間でプロンビエール密約を結んだ。王の支持により、首相カヴールは1859年4月29日に、オーストリア軍に抑圧されたイタリア市民の開放を目的に、第1次独立戦争を起こす。フランス軍のナポレオン3世の協力を得て、オーストリア軍と戦い、優勢に立った。ナポレオン3世が、オーストリア軍と講和にこぎつけた事により、狙っていた全ての領土獲得には失敗し、ロンヴァルディアのみを併合した。
イタリア民族統一を急ぎたいカヴールは、1860年にサヴォイアとニースをフランスに割譲する代わりに、教皇領を残し、中部イタリアを手に入れた。
残るは、南部のシチリア島とナポリ王国である。ウィーン議定書(1814年から15年にわたったウィーン会議においての取り決め)において、1816年からナポリ王スペイン=ブルボン朝フェルディナント1世が、シチリアを併合し、両シチリア王国となった。歴史を巻戻すと、西暦1130年にノルマン人のルッジェーロ2世により、シチリア島とイタリア南部を併合したことに始まる。当時の名称はシチリア王国、後世の歴史家は、イタリア南部も領域に入っていたことから「両シチリア王国」とよぶ。西暦1442年から1458年、後のスペイン王国を建国するアラゴン家のアルフォンソ4世が、シチリア王国とナポリ王国を併合し、正式名称「両シチリア王国」とした。
ナポリは、古くからフランスとスペインを中心に諸国が争った領土である。カヴールは、攻略に向けて練り直す。手柄を上げたのは軍人ガリバルディだった。彼は、両シチリア王国のメッシーナとパレルモでの反乱に乗じて、王政打破を掲げる1000人の義勇軍を即座に集めた。千人隊(または赤シャツ隊)を結成し、5月13日にカタラフィーミ(現在シチリア州トラーパニ県)で敵軍を撃退し、5月27日に首都パレルモに入城する。現時住民を味方につけたことにより、犠牲を最小限に抑えながら、領土を手に入れた。ナポリ軍とイギリス軍に海から町を包囲され、一端計画は頓挫したものの、6週間後には遠征を再開する。島の最西端のメッシーナに到達すると、海峡を渡り、9月7日に目的地ナポリにたどり着いた。
写真 掲載元 旅行のとも Zen Tech
https://www.travel-zentech.jp/world/map/italy/Messina.htm
ブルボン家のフランチェスコ2世には身柄を保証する代わりに、退位を迫った。遠征によりガリバルディ側についた軍勢は2万5000、対してナポリの王党側の兵は、さらに上回っていたと推測される。
10月1日から2日、ガリバルディが率いる義勇軍を支援した首相カブールが責任者となるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世軍と、ナポリ軍が戦った。
イタリア統一を主導したガリバルディと首相カヴールは険悪な仲だった。首相の特権としてカヴールは、フランスと軍事的協力関係を築くため、1858年7月21日にプロンビエールの密約により、ニースを割譲していた。軍人ガリバルディは、ニースの出身だったのである。イタリア人が住む町をフランスに売った男として、嫌悪感を抱いていた。イタリア半島統一が現実味を帯びると、個人的な感情を捨てて、獲得した両シチリア王国を、イタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に謙譲した。
必 ニースは、現在フランス南東部アルプ=マリティーム県に属する。第2次世界大戦で、ムッソリーニ首相の下、失地回復のターゲットになり、イタリア軍の進駐を受けた。イタリアの敗北により、連合国軍から解放され、フランス共和国のいち都市として歩む。
1861年3月に、首相カヴールの下、制限つき選挙が行われ、ローマ教皇領とべネトを残して、イタリア半島はサルデーニャ王国により統一した。歴史上では、イタリア建国の年として扱われている。首都はサルデーニャ王国時代と変わらず、トリノである。カルロ=アルベルト(エマヌオーレ2世の父)が制定した憲法の採用も確認された。マッツィーニ、ガリバルディ、カヴールは、イタリア統一の三傑として名を馳せた。
写真=コトバンク リソルジメント(統一運動)より 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
ローマとベネットは未回収のイタリアとして残る。水郷の町ベネチアが属するべネトの併合は、1771年にドイツ帝国の建国を果たしたプロイセンの首相ビスマルクの力を借りて行われた。1866年に普墺戦争/プロイセン=オーストリア戦争で、プロイセン軍を支援し、オーストリア軍を打ち倒した。オーストリア軍が撤退したことにより、ヴェネチアはイタリアの物となる。
最後にローマ教皇領は、1870年に普仏戦争/プロイセン=フランス戦争が転機となる。ナポレオン3世が撤退し、翌1871年に王政が倒れた。ローマ教皇領は1870年にイタリアが併合し、翌1871年にトリノから首都機能を移転させた。権威のあるローマ教皇は、イタリア王国に屈することなく、サンピエトロ大聖堂で抵抗を続ける。1929年に時のムッソリーニ政権が、教皇ピウス11世と和解し、「ラテラノ(建物名)条約」を結び、和解に至った。以降、教皇領は、バチカン市国として残る。
�ヌ餌欧諒�断の始まりを振り返る 西ローマ帝国の終わり
イタリアは、古代ローマ時代、西暦395年にテオドシウス帝が、領土を東と西に分割して息子達に与えて以降、民族が分断されたといえる。東の方はビサン帝国として1000年余り残る一方、西の方は帝位についたホノリウスの横暴な振る舞いにより、滅亡の道を歩む。西暦410年にヴァンダル族のアラリック1世によりローマ略奪事件が起きて、皇帝の権威は失墜した。
写真=ビサンツ皇帝表 ビサンツ帝国史 ウィキ
https://w.atwiki.jp/byzantine/pages/10.html
西暦419年から西暦455年まで皇帝の座に就いたヴァレンティヌス3世の時代、執政権は異民族に握られていた。そもそもヴァレンティアヌス3世は、東方のテオドシウス2世が、西方帝のヨハンネスを引きずり降ろすために打ち立てたのである。テオドシウス2世は、ヴァレンティアヌス3世を東方の副帝に昇格させ、ゲルマン人の将軍アスパルに西ローマ帝のヨハンネスの討伐を命じる。西暦425年10月に西の高官を排除した後、西帝に幼い6歳のヴァレンティアヌス3世が即位した。当初ヴァレンティアヌス3世の母親が執政権を担っていたものの、西暦433年には蛮族のフラウィウス・アエティウスに変わった。西方の衰退は際立っていた。439年にはアフリカ州がヴァンダル族によって征服され、西暦446年にはブリタンニアを放棄する。イスパニアとガリアの大部分を失い、国土は縮小の一途を辿った。蛮族に逆らえず、統治能力は著しく欠いていた。西暦455年に36歳で命を落としている。西ローマの皇帝の座は、西暦476年にゲルマン人傭兵オドアケルによって廃位させられた。
地続きのヨーロッパ大陸において、部族同士が争いあい、小さな国々に分かれるようになる。イタリア半島は、長い間地方にとどまり、一つにまとまらなかったのである。1939年から1945年にわたった第2次世界大戦の敗戦を受けて、共和制に移行した。古代ローマ時代の遺産を利用して、観光資源大国として注目を浴びる。21世紀の今、イタリア国民は、仕事もほどほどに、バカンスを楽しみながら、自由を謳歌している。
参考文献 世界史の窓
・イタリア統一、
・ガリバルディ、
・ウィキペディア ヴァレンティアヌス3世
2 山手西洋館のクリスマス展示
さてここからは山手西洋館のクリスマスの展示物の紹介に写る。
リンク ブラフ18番館
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/details/182021.php
原則室内での撮影は禁止である。各館の庭から窓越し撮影は可能だった。
エリスマン邸のチェコのクリスマス
イタリア山庭園内の外交官の家 日本のクリスマス
同じ庭園内のブラフ18番館のイタリアのクリスマス 窓の外から撮影
一室
もう一つの部屋
3. 夜景撮影 北仲ノット アヴェニセル横浜みなとみらい
� )銘腑離奪�46階展望台
リンク はまこれ横浜より
https://hamakore.yokohama/the-tower-yokohama-kitanaka-night-report/
日中横浜みなとみらい地区の公共施設巡りを行った後、夜景撮影を行う。初めに11月3日(火・祝)に訪れた北仲ノット地上46階の無料展望室からの夜景写真から掲載する。この日のベストタイムは午後5時3分から午後5時13分である。展望室には、住民や宿泊客に対応する2人の女性がフロントスタッフとして勤務していた。同じ階には、トレーニング施設と共に、一般利用客も使用できるカフェが併設されている。地上69階の有料展望台ランドマークタワーよりも高さでは負けるとはいえ、無料で気軽に利用できるメリットがある。視界は、東西南北に開けていた。
11/3(火・祝)
午後5時 南側の野毛山方面の景色 起伏のある丘に住宅地が並ぶ
午後5時3分 西側のランドマークタワーと桜木町駅
午後5時6分、北側の窓からワールドポーターズ、アヴェニセル横浜みなとみらいを狙う
午後5時6分 東側の山下公園 横浜スタジアム 港の見える丘公園側を撮影
午後5時8分 2分前に撮影した北側の窓から1枚、手前には、都市型ロープウェイ「エアキャビン」が写っている。
午後5時12分 9分前の構図 西側のランドマークタワーと桜木町
高層ビルの展望室から俯瞰すると、目印となる地上駅や施設など建物同士の距離感が分かりやすい。トワイライトタイムの10分間で、刻々と暗くなるに従い、地上からは灯りが灯りだす。移り変わりの激しい景色を撮影する醍醐味が感じられた。
�◆〃觝Ъ鮎譽▲縫凜Д襯札襪澆覆箸澆蕕�
リンク 夜景INFOより
https://www.nightview.info/yakei/detail/anniversaire/
続いて12月5日(日)に撮影した結婚式場アニヴェルセル横浜みなとみらい付近からの夜景である。あいにく雲が発達し、日差が遮られた。夜景ベストタイムは午後4時43分から午後4時53分である。
運河と式場のテラスを隔てる通り沿いから撮影した。
午後4時45分
午後4時47分
続いて式場を撮影
午後4時49分
午後4時55分
午後4時55分
地上からの目線では、ランドマークタワーとJR桜木町駅の間に帆船日本丸が丁度挟まっていた。都市型ロープウェイのエアキャビンは、日暮れ時にライトアップされる。
光量の多さと共に雰囲気も優れる横浜みなとみらい地区は、関東屈指の夜景スポットといえる。日中は公共施設を巡り、日本に門わず、外国の文化を学ぶことができた。最後にトワイライト夜景撮影をすると、存分にみなとみらいの特徴を掴むことができる。
旅をするうえで、視野を広げることにより、町についての理解は大きく変わった。1859年に開港して以降、ショッピング街を初め、タワーマンションが林立するみなとみらいは、若者の町として発展を続けている。
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