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2021年07月07日23:36

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UEFA EURO2020企画(6)イタリア統一160年(1)西ローマ帝国の滅亡について EURO2020準決勝 イタリア 対 スペイン戦レポート

 7/7(水)
2019年夏、欧州サッカーのプレシーズンに来日したバルセロナのデンベレとグリーズマンが、日本人を侮辱する発言を記録した私的な動画が、ネットに出回った。2年後の2021年7月に明るみに出ると、人種差別発言を行ったと、視聴者から否定的な声がのぼった。グリーズマンは、バルセロナのスポンサーを勤める楽天の三木谷会長に個別に謝罪をした。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=138&from=diary&id=6582511

 今回取り上げるのは、イタリア代表である。準決勝のスペイン戦のレポートともに、同国の歴史を紹介する。前4章から成る

       第1章 イタリア古代ローマ帝国の始まり

イタリアの国家としては、今年は成立160年の節目の年を迎えた。紀元前の古代ローマ帝国を振り返ると、皇帝継承問題や異民族の侵攻により、不安定な時代が続いていた。国の経済を支えたのは、奴隷制だったといわれている。農場や鉱山労働者を含む肉体労働ばかりか、医師や会計士など、知的作業にも従事していた。今なお歴史遺産として残る石とレンガが積み上げられた円形のコロセウムには、当時としては異例の5万人を収容することが可能だった。グラディアトルと呼ばれる剣奴が、素手、もしくは剣を使って戦った。多くの市民から見世物にされた剣奴達は、自らの立場に危機感を抱く。時には後に絶滅したバーバリーライオンとも剣一つでの勝負を行っていた。現在のスポーツ選手のように、体力の衰えによる「引退」の花道を飾れるのはごくわずかの勇者に限る。大抵は戦いで瀕死の重傷を負うか、または命を落とす運命にあう。

写真=第3次奴隷戦争といえるスパルタクスの乱の進路 掲載元 古代ローマ ライブラリー https://anc-rome.info/spartacus/
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剣奴として無敵の強さを誇ったスパルタクスが、ひそかに動き出した。仲間と協力し合い、剣奴としての立場からの解放を訴えて、反乱を起こしたのである。紀元前73年から71年の2年に渡るスパルタクスの乱により、ローマの町は大きく荒れた。70人の剣奴から12万の軍勢に膨れ上がり、ローマ帝国内の町から略奪を働く。当時の指揮官クラッススが、各町に配置された8個の軍団を束ねて、派遣し、鎮圧にあたった。奴隷が増えるにつれて、度々反乱による、混乱に陥っていた。

西欧史に大きな影響を与えたローマ帝国は、紀元前27年から紀元前24年まで在位したアウグストゥスの戴冠によって、帝国が誕生する。暗殺された養父カエサルの意志を次ぐアウグストゥスは、紀元前43年にアントニウス、レピドゥスと共に、第2次三頭政治を開始する。第1次三頭政治は、紀元前60年にカエサル、クラッスス、ポンペイウスの密約によって行われていた。第2次において、レピドゥスが自ら政治の座を降りて、アントニウスとの権力争いにおいて紀元前31年アクティウム(ギリシャ半島西岸にある岬の名前)の海戦を行った。アントニウスは、エジプトの女王クレオパトラと連合艦隊を結成していた。勝者となったアウグストゥスが初代皇帝として、エジプトを支配下に置いた。

 文化と繁栄をもたらしたローマ帝国は、紀元後96年から紀元後180年までの間五賢帝の時代が最も安定していたといえる。即位順に第12代ネルファ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスである。

 トラヤヌス(紀元後98年から117年)の時代が、古代ローマ帝国内において、最も領土拡大に成功していた。栄光と繁栄は長くは続かなかった。西暦235年から西暦284年の間の軍人皇帝時代に内部混乱をきたしたのである。背景には国の統治機構である元老院が沢山の皇帝を推したことにある。西暦236年から西暦268年までの52年間で、14人の皇帝候補が上がった。各地域の実力者も皇帝と僭称することにより、実質的に権威が低下していた。領土拡張に伴い、統治システムが働かなくなりつつあった。古来共和制の始まりにより、帝国内において国家の最高指導者が軍事司令官となり、2人の執政官が役目を担った。1人の執政官が戦場に赴くと、もう1人が残り、執務を担っていた。任期はわずか1年にとどまった。アウグストゥスが戴冠した帝政以降も、同じシステムが働いていた。実際アウグストゥスは軍采に乏しかったものの、娘婿として引き入れたアグリッパに任せていたのである。領土拡大に伴い、北方のゲルマン系や西方のイスラム勢力から脅かされると、従来の国家指導者と軍事司令官が兼ねる態勢は脆弱さを露呈する。終身制の皇帝は、自ら退くことはない。暗殺やクーデターなどで廃位させる他ない。戦場に赴いた皇帝兼軍司令官が命を落とすと、後継者選びさえ間々ならなかった。現に世襲制ではなかったのである。西暦68年から70年、192年から197年の2回に渡って、後継者を巡る内戦が起こっていた。

 写真=トラヤヌス帝時代の領土 掲載元 世界の歴史マップ https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%8C%E3%82%B9/
 
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 帝国の政治体制を変えたのは、ディオクレティアヌス(在位284年から305年)である。軍人皇帝時代に終止符を打ち、元老院の権限を弱め、専制政治を開始した。武官と分官(行政官)を切り離し、皇帝=軍人時代にも幕を下した。属州を100程度まで再分割し、各州の総督の権限を著しく弱める。皇帝が、官僚を通じて、地方を支配した構造を「ドミナートゥス」という。各属州では、軍制と民制を分けたことにより、帝国からの分離を避けることに成功した。民衆に対しては、自らユーピテルの子であると宣言し、皇帝と共にローマの神々の崇拝を義務付ける。統制がとれた社会を築くために、改革を惜しまない。西暦303年に、軍人を中心にひそかにキリスト教徒が広まっていたことを危惧し、大規模な迫害を行った。数千人のキリスト教徒信者が処刑されたとも歴史書に記されている。報復措置として、キリスト教徒による2度に渡って宮廷を放火される事件が起こった。専制主義により、キリスト教徒を含め、多数の総督は憎悪の念を抱いた。総督の力を弱めた分、反乱を起こす力はなかった。皇帝は健康不安を理由に西暦305年に退位し、アドリア海を望むサロナに自らの名をとった宮殿を建設して、隠遁生活を送った。生前退位は古代ローマ史において、例をみない。

 続くコンスタンティヌス1世(在位306年から337年)は、内乱を収めるべく、西暦313年にミラノ勅令を発し、キリスト教を容認した。西暦380年、テオドシウス1世時代にキリスト教が国教とされた。

       第2章 西ローマ帝国の滅亡

 ローマ帝国は、キリスト教国家として歩むものの、後継者問題により、東西に分かれることになる。西暦395年にテオドシウスの死去に伴い、二人の息子により、分割された。長男アルカディウスは東ローマ帝国に、次男ホノリウスが西ローマ帝国の皇帝として即位する。西ローマ帝国のホノリウスは、民衆からの支持を得られず、アフリカ北部の領土で起こったギルドーの乱を初め、次々と蜂起が起こった。西暦409年、元老院からもホノリウスは、皇帝の資格を剥奪された。彼は、対立候補だったコンスタンティヌス三世と共に共同統治し、ブリタニアン(現在のグレートブリテン島南部)の南部の支配権を放棄する。西暦402年に、メディオラヌムに置かれていた宮廷は、西ゴート族の侵攻から逃れるべく、ラヴェンナに移転した。ホノリウスは、移転先でこもりっきりの生活を送っていたのである。

 写真=東西分裂時の図 掲載元 人は一人じゃ生きていけない−物語世界史−
https://33635090.at.webry.info/201301/article_1.html
 
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 ホノリウスを支えたのは、摂政のスティリコだった。西ゴート族やヴァンダル族、共にゲルマン民族の侵攻により、西ローマ帝国は危機にさらされていた。スティリコは、娘二人を嫁としてホノリウスに差出、関係性を強化する。西暦408年転機が訪れた。東方正帝アルカディウスの死去に伴い、ホノリウスは統一を図ったのである。摂政スティリコは、テオドシウス2世を副帝から皇帝へ昇格させることをホノリウスに提案し、自ら使者として赴いた。宮廷では、代わりにオリンピュスが摂政に就き、ホノリウスを支える。ホノリウス自身も義父スティリコよりも、自らの考えに近いオリンピュスに信頼を置くようになった。ホノリウスは、不在のスティリコを締め出し、皇帝自ら摂政として振舞う決断を下したのである。ラヴェンナに帰国したスティリコは、将軍ヘラクリアヌスに捕らえられ、西暦408年8月22日に処刑された。同年スティリコの息子も同じく処刑されている。スティリコを排除して地位を高めたオリンピュスだが、周囲の仲間から見放され、報復をくらった。西暦412年、スティリコを慕う将軍コンスタンティウス三世により、処刑された。将軍ヘラクレスは、同年反乱軍を率いたものの、コンスタンティウス三世軍に破れ、翌年オリンピュスと同じ運命にあう。もはや皇帝ホノリウスは、内乱を収めることは出来なかった。

 西暦410年、西ゴート族のアラリック1世により、「ローマ略奪」と呼ばれる出来事が起こった。皇帝ホノリウスの下で、フォエデラティ(主にゲルマン系の異民族)として、ローマ帝国内で住居を構えた蛮族は、危機感を持っていた。ホノリウスは、摂政オリンピュスと共に、蛮族の中で歯向かうものには容赦なく、妻子共公開処刑を下していた。テオドシウス1世の姪で養女でもあったスティリコの妻セレナも処刑している。

 抑圧された市民の救世主として現れたのは、西ゴート族のアラリック1世だった。3万人の蛮族出身者からの求めに応じて、兵を出したのである。かつての摂政スティリコとは、見払い分の給料を西側が肩代わりすることにより、西暦408年に和解した間柄だった。スティリコに対する報復の意味合いも持つ。アラリック1世は、第1回ローマ包囲を行い、フォエデラティの住民に対する抑圧政策を停止するように求めた。元老院が応じ、奴隷労働に従事していた4万人が解放され、賠償金を支払った。続いてラヴェンナにあるホノリウスの宮廷に迫った。既に要求に従った元老院を通じて、ホノリウスと交渉を持ちかけた。第2次ローマ包囲を敢行し、ホノリウスに講和を応じるように圧力を加える。西暦409年、元老院はホノリウスから皇帝の資格を剥奪し、首都長官プリスクス・アッタルス(在位409年から410年、414年から415年)を任命した。イタリアの各都市がプリスクス・アッタルスの統治に賛成の意思を表明する。ホノリウスは、帝位の座にこだわり、プリックス・アッタルスに講和を申し出た。彼は、共同皇帝という形での和解に持っていったのである。プリックス・アッタルスは、ギリシャ出身のホノリウスを受け入れる気はなかった。2度の包囲に成功したアラリック1世は、強気な態度をとるプリックス・アッタルスを皇帝の座から退け、改心したホノリウスの復権を認めた。ホノリウスは、帝位の座を再獲得したことにより、手のひらを返したかのように、強圧的な態度に打って出た。アラリック1世と直接会談の場に臨む際、兵を差し向けていたのである。アラリック1世は、ホノリウスの報復への対策を練っていた。自ら兵を用意し、第3次ローマ包囲を行ったのである。アラリック側についた元老院は、皇帝ホノリウスに賠償金の支払いを課す。皇帝はかたくなに拒絶した。アラリック1世は、軍事的解決に打って出て、西暦410年8月24日、サラリア門からローマ市内に兵を進め3日に渡り略奪を働いたのである。ホノリウスは、降伏するしかなかった。

 写真=5世紀頃のヨーロッパの版図 掲載元 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%A7%BB%E5%8B%95/
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 アラリック1世のローマ略奪事件により、異民族からの介入を受けるようになる。西暦476年にゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ帝国の皇帝ロムルス・アウグストゥスが退位させられた。西皇帝の帝冠をコンスタンティノプールの東ローマの皇帝ゼノンに送った。西ローマ帝国は滅びたものの、東ローマ帝国は「ビサンツ帝国」として、1465年にオスマン帝国のメフメト2世に侵攻されるまで、1000年程存続した。5世紀には、東ゴート族の王テオドリックが、ゼノン帝の命を受けて、オドアケルを倒し、東ゴート王国を建国する。イタリア半島南部、シチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島は、アフリカ北部に居を構えたゲルマン人によって収められていた。

 6世紀に、ユスティニアヌス帝が、旧西ローマ帝国復活を掲げ、将軍ベリサリウス率いる軍を北アフリカに派遣し、ヴァンダル族を滅ぼした。西暦535年から554年の19年に渡り、東ゴートのベリサリウスと東ローマ帝国との間で戦争を行い、イタリア半島統一を掲げる。長期戦により、国力で劣る東ゴート王国は、消耗しきっていた。イサウリア人の裏切りにより、戦況は一気に不利になった東ゴート軍は、東ローマ帝国の将軍ナルセスにより、西暦552年7月に敗北を喫した。イタリア半島は、東ローマ領となる。都コンスタチノプール(現トルコ共和国のイスタンブール)に機能が集中している分、イタリア半島の町は、すっかり衰退していた。

        第3章 異民族の侵攻により、イタリア半島分裂

 西暦568年、ユスティニアヌス帝が没すると、ランゴバルト族のアルボイーノが、北イタリア半島を支配下に収め、「ランゴバルト王国」を建国する。ローマ帝国の総督府がおかれたラヴェンナから、教皇の居るローマにかけての南北に細長い部分は、8世紀初頭まで征服できなかった。教皇領はそのまま11世紀以上残ることになる。半島自体、ゲルマン人やアラブ人が占領し、いくつもの小国や公国が出来上がった。1861年の再統一まで、諸国入り乱れ、争うことになる。北部はゲルマン人のランゴバルト族が優位性を保ち、ランゴバルト王国とともに、属国となるスポレート公国、ベネヴェント公国を建国した。南イタリアでは、ナポリ公国、アマルフィ公国、ガエーダ公国などが存在した。

 写真=8世紀頃のヨーロッパの版図 世界の歴史まっぷより
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 西暦774年にカロリング朝ピピンの下、ローマ教皇の要請を受けて、北イタリアに兵を進め、ランゴバルト王国を滅ぼし、フランク王国に組み入れる。西暦800年に息子カールは、西ローマの皇帝として戴冠する。北部の都市は、後の神聖ローマ帝国を形成することになる。西暦843年のヴェルダン条約に基づき、カロリング朝西ローマ帝国は、東、西・中の3つのフランク王国に分割された。東フランクはドイツに、西フランクはフランス王国に、中フランクはイタリアの原型である。西暦951年東フランク王(ドイツ)のオットー1世が中フランク王(イタリア)を兼ねた。西暦962年に教皇ヨハネス12世により、ローマ皇帝として戴冠したのである。以降19世紀にナポレオンが後の神聖ローマ帝国を解体するまで、現イタリア共和国の北部とドイツ連邦の諸国は、共通の君主を戴いた。12世紀から13世紀の間、北イタリアにおいて、教皇派と皇帝派が権力の座を巡り、対立が深まっていた。

写真=15世紀から16世紀に渡るイタリア戦争時の地図 掲載元 Wikiwand イタリア(中世)より
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 11世紀初頭には、ミラノやフィレンツェが海運業や商業により、発展し、ローマ帝国から自立し、それぞれ独立した都市国家として歩む。西暦1167年に北イタリアの諸国が、「ロンバルディア連盟」を結成し、バルバロッサとして知られるフリードリッヒ1世の侵攻から共同防衛を果たす。

 1494年から1559年にかけて、イタリア地方を巡り、大国が介入するようになる。イタリア戦争は、フランスヴァロワ朝やスペイン・ハプスブルク家、フランス王国のヴァロワ朝、イングランド王国、スコットランド王国、オスマン帝国まで加わった。結果的に神聖ローマ帝国の領土拡大に伴い、中心勢力のオーストリアハプスブルク帝国により、イタリア北部の諸侯は統制される。

 ローマ帝国が東西に分離したのは西暦395年、東側は1000年に渡って安定する一方、西側はゲルマン系民族に脅かされ、皇帝の権威失墜などにより、崩壊に向かう。絶対的な統治者に恵まれず、それぞれ諸国が独立し、都市国家として歩む。小さな国は長く維持できず、大国へと組み込まれた。イタリアの国家が結成されて160年、古代ローマ時代の遺産を保護し、観光立国として歩み続けている。

 
    第4章 EURO 準決勝 第1試合 イタリア 対 スペイン戦レポート

 写真掲載元Google https://www.google.com/search?q=%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%80%80%E6%BA%96%E6%B1%BA%E5%8B%9D%E3%80%80EURO2020&source=lmns&bih=596&biw=1366&rlz=1C1BLWB_jaJP577JP577&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwif25SCgtHxAhXMIaYKHb-0CbwQ_AUoAHoECAEQAA#sie=m;/g/11fq896sg0;2;/m/01l10v;dt;fp;1;;

 現地時間7月6日(火)午後8時、準決勝第1試合 イタリア 対 スペインが、イングランドのロンドンにあるウェンブリー・スタジアムで行われた。収容9万人の75%相当となる最大6万人の観客の入場が認められる。キックオフ前のコンディションは、天候曇り、気温15度、湿度73%、風速4,7mだった。前半はロスタイムがなく0対0で終えた。後半は右エンドにスペイン、左エンドにイタリアが入り、イタリアボールで始まった。前半61%のボール保持率を誇ったスペインがパス回しを行う。7分、右サイドからオヤルサバルがドリブルを仕掛け、対面にいるエメルソンの位置を見ながら、エリアに入ったところで体の向きを変える。オヤルサバルは、右足のつま先でミドルレンジに構えたブスケスにショートパスを出す。ブスケスは短い助走から右足で狙い済ましたシュートを放った。カーブを描いていくボールは、横飛びしたGKドンナルンマの指先を抜けたものの、クロスバーのわずかに上を越えた。ブスケスはキープ力とカバーリングに優れる守備的な役割を担う。オヤルサバルが切り開いたスペースに入り込み、フリーの状態でフィニッシュした。

 写真=前半ブスケス(白いユニフォーム)とバレッラ(青いユニフォーム)
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 続くカウンターからイタリアは、トップのインシーニエが、ハーフウェー・ライン付近からドリブルを仕掛ける。DFをひきつけて、ゴールから約25m付近のバレッラにボールを預ける。バレッラは、エリア内まで上がってきた右ハーフのキエーザにパスを出す。キエーザは、左サイドバックのジョルディ・アルバを前にしながら1度切り替えして、右足でシュートを打った。グラウダーのボールを、右に体を倒したシモンがキャッチした。キエーザは突破力にくわえ、高いシュート精度を誇る。対応したジョルディ・アルバは、無理に体をつけずに、シュートコースを抑えていた。両チーム一段と攻守の切り替えが激しくなった。

 写真=アスピリクエータ(白いユニフォーム)とインシーニエ(青いユニフォーム)
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 12分には、ブスケスがジョルジーニョにプレスをかけてボールを奪い、右斜めのオヤルサバルにパスを出す。オヤルサバルは左足でシュートを打った。正面にきたボールを、ドンナルンマが両手の平でキャッチした。ブスケスは、ジョルジーニョに入るボールを狙い、ファウルをせずに奪い取った。中盤の攻防では、スペインに分がある。前半から劣勢にたたされたイタリアにチャンスが巡った。GKドンナルンマがボールを転がしてカウンターに移る。左サイドハーフのベラッリが、右足のつま先でトップに入るインシーニエにボールを送る。センターバックのエリック・ガルシアがスライディングしながら、右足のつま先で辛うじて、前にクリアした。こぼれたボールを真っ先に拾ったキエーザが、フリーの状態になり、右足でシュートを打った。GKシモンは、全く動けず、鮮やかに右ネットを揺らした。1対0.イタリアが先取点を奪った。

 写真=ゴールを決めるキエーザ
 
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スペインのセンターバックのエリック・ガルシアとラ・ポルトの2枚が、インシーニエに対応した分、キエーザのカバーが完全に遅れていた。キエーザは、運動量の少なかった前半から一転して、エリア内まで上がり、持ち味のシュート力を発揮した。

 1点ビハインドのスペインがボールを回す中、イタリアは中盤のプレスを強める。22分、イタリアは先制ゴールの右ハーフを努めるキエーザが、ミドルレンジからエリアまで上がる。ジョルディ・アルバをひきつけて、腰を捻りながら途中出場のトップに入るベラルディにパスを出す。インモービレに代わったベラルディは、角度のないところから右足でシュートした。ニアポストをカバーしたGKシモンは、膝を折り曲げながら、セーブした。シモンは、安定感を欠くものの、重心のバランスが良く、シュートコースを抑え込んだ。
 
 36分、63%のボール保持率を誇るスペインは、ゴールから30m付近でモラタがボールを持つと、左斜め前のダニオルモに預けて、走りながらエリア内でリターンパスをもらう。モラタは、右足でタッチすると、前に飛び出るGKドンナルンマの位置を見ながら、左足のインサイドでボールを転がした。重心を左に倒したドンナルンマの逆を突き、反対サイドのネット端を揺らした。1対1.フェラン・トーレスに代わったモラタは、スピードを保ちながら、ダニオルモとのワンツーパスで、屈強なイタリアディフェンスを崩した。

 写真=ゴールを決めた後パフォーマンスをするモラタ
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 試合は90分でも決着がつかず、15分ハーフ、計30分の延長戦に入った。スペインの延長戦は大会3度目になる。パス回しにリズムがある中、フレッシュなモラタの投入により、少しずつスペースを作り出している。対して受身になっているイタリアは、右ハーフのキエーザを基点に、速攻を狙う展開だった。15分ハーフの延長30分戦っても決着がつかず、勝負はPK戦にもつれこんだ。メインスタンド側から見て左陣地で行われ、イタリアが先行をとった。最初のキッカーはロカテッリ、小刻みにステップを踏みながら、右足を振りぬいた。左ネット隅に向かうボールを、シモンがセーブした。続く1本目の裏、スペインのキッカーはダニオルモ、右足でボールを大きく蹴り上げた分、クロスバーの上を越えていった。

 2本目と3本目は共に成功を収めた。4本目の表のイタリアもゴールを記録し、裏のスペインのキッカーはモラタ、助走をつけながら右足を振りぬいた。右ネットに向かうボールを、体の重心を倒したドンナルンマがセーブした。モラタは予選リーグ第3節のスロバキア戦に続き、2回連続PK失敗の結果に終った。4本目の裏を終えてスコアは3対2.イタリアが1点を先行したまま最終5回目を迎える。勝負を決定付けるキッカーを任されたのはジョルジーニョ、彼は所属するチェルシーFC(イングランド)において、今シーズン7ゴールのうち全てPKで決めている。ジョルジーニョは、GKシモンの重心を確認しながら、右足でボールを転がした。シモンはつまずいたかのように全く動けず、右ネットを揺らした。4対2.PK戦の末に、イタリアがスペインに勝利し、決勝戦へ駒を進めた。120分間の試合内容ではスペインが確実に上回りながら、守りに徹するイタリアは隙を見せずに戦った。

 写真=中央がジョルジーニョ Getty Imagesより
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 写真=PK負けを喫したスペインイレブン
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ボール支配率はスペインの6割5分に対し、イタリアは3割5分にとどまった。枠内シュートは4本ずつで並ぶ。総シュート数はスペインの16本に対し、イタリアは7本である。PK戦は公式記録上引き分け扱い、イタリアの連勝記録は13でストップしたものの、無敗記録は33まで伸びた。この試合は、これまでの快進撃を象徴するサイドを幅広く展開するダイナミックな攻撃は鳴りを潜めた。タイトなマークに定評がある守備陣が力を発揮し、最小失点に抑えたのである。1968年の自国開催以来53年ぶりのEURO制覇まであと1勝である。


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