今日は吉田松陰の命日です。
松陰は、安政6年10月27日(1859年11月21日)に、
伝馬町牢屋敷で斬首されています。
享年30歳(満29歳)でした。
嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際、
金子重之輔と二人で、小舟で旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船しますが、
渡航は拒否されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄されました。
この時は処刑されずに、国許蟄居となり、
長州へ檻送された後に野山獄に幽囚されました。
安政2年(1855年)に出獄を許されますが、実家の杉家に幽閉の処分となります。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、
杉家の敷地に松下村塾を開塾します。
安政5年(1858年)、
幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、
間部要撃策を提言し、
計画を実行するため大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出ますが、
幕府の要人の暗殺を藩が認める訳もなく拒絶されます。
さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、
倒幕をも持ちかけたため、藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚されます。
安政6年(1859年)、尊王攘夷運動の急先鋒だった
小浜藩の梅田雲浜が幕府に捕縛されると、
4月20日、幕府は長州藩に対し、松陰を江戸に送るよう命じます。
5月25日、罪人として駕籠に乗せられた松陰は萩を発ち、
6月25日に江戸に到着します。
その後評定所で、幕府の奉行から取り調べを受けますが、
この時の嫌疑は、
雲浜が萩に滞在した際に面会したため、関係を疑われた事と、
御所に幕府を誹謗した落とし文があり、
それが松陰の筆跡ではないかと疑われた事でした。
いずれも大した事ではなく、嫌疑は簡単に晴れます。
そこで、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまいます。
このため、予想以上の危険人物とみなされ、伝馬町の獄に投ぜられ、
上記のように処刑されてしまう訳です。
松陰は、何故幕府が知らなかった事を話してしまったのかが気になります。
萩を発つに際して、松陰は「正義」と「至誠」で幕府と立ち向かうとの決意を、
父親の杉百合之助に手紙で述べています。
松陰や家族、門下生たちは、老中暗殺計画が発覚したと考えていましたので、
これについて黙っていたのは「正義」ではないと考えたのかも知れません。
安政の大獄で井伊直弼が最も目の敵にしたのは、
政敵であった水戸藩であり、一橋慶喜擁立の動きをした人達でした。
この点からすると、松陰は弾圧の本筋から外れており、
少し知恵を絞れば、生きて帰国する事も可能だったのではないかと思われます。
しかし、それを敢えて実行しなかった事で、
松陰には、純真な「至誠の人」とのイメージが生まれる事になったのかも知れません。
今は、吉田松陰の名は全国的に知られていますが、
安政の大獄の当時は、地元や同志間はともかくとして、
ほとんど無名に近い人物でした。
それが広く知られ、英雄視されるようになったのは、
松陰の妹婿である久坂玄瑞が、
尊王攘夷運動のシンボルとして、各藩の志士などに宣伝し、
利用したからのようです。
東京に靖国神社が創建されると、
当初は戊辰戦争の官軍側の犠牲者を祀るものでしたが、
何故か対象がペリーの黒船以降と犠牲者の上限が引き上げられます。
これによって、吉田松陰は靖国神社に祀られています。
靖国神社については、色々な議論がありますが、
吉田松陰が祀られている事からすると、
政治的な意図による神社と考えられると思っています。
松陰の命日と言う事もあり、若干忙しかった事もあったので、
以前書いた文書を書き直しました。
色々用事が重なってしまったので、
明日から3日ほど日記を休ませて頂きます。
ご承知おきください。
【今日の一句】
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