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2021年11月14日09:10

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『激しい生と美しい死』 激しく生きた作家の生涯 瀬戸内寂聴さん逝く

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※画像は寂聴さんの訃報を伝える12日の東京新聞一面(コラム「筆洗」も注目)

憲さん今までも何人もの女性のメル友がいた。この中に今は親交がなくなってしまったNさんという女性もいた。

一度もあったこともその姿を見たこともない女性である。

彼女がメールでの会話で「最近ストレスで髪の毛が薄くなってきた」と発言したことを契機に憲さん、Nさんのことを「寂聴様」と呼ぶようになった。

そう呼ばれる彼女もまんざらでも無さそうであった。

・・・・・・・・・

強烈な顔である。

丸坊主で顔はくしゃくしゃ、しかし、その笑顔はどこか人懐っこい。

「ご尊顔」と形容すべき風貌である。

瀬戸内寂聴さんが亡くなった。

白寿(99歳)であった。

憲さん、あまり小説は読まないので彼女の作品にもほとんど触れたことがない。

しかし、彼女は東京新聞によく登場した。

寂聴さんが70代の頃には『寂庵こよみ』、80代後半で『この道』を東京新聞に連載しており、憲さんも寂聴さんの『この道』は読んでいる。

東京新聞には寂聴さん担当の記者もいたそうである。

12日の東京新聞朝刊は寂聴さんの訃報が一面トップだし、社会面は一面を割いて寂聴さんを扱っている。

寂聴さん自身も代表作『夏の終わり』のモデル小田仁二郎が東京新聞の前身である都新聞の記者をしていたことから「私は東京新聞とは縁があるのよ。」と語っている。

参考

【小田仁二郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E4%BB%81%E4%BA%8C%E9%83%8E

【都新聞】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E6%96%B0%E8%81%9E

しかし、訃報記事の評伝を読むと、その創作経歴はすごいものであると改めて同じ「表現者」として敬服せざるにはいられない。

参考

【瀬戸内寂聴】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4

特に彼女は「激しい生と美しい死」を生きた女性をモチーフにした小説を多く書いた。

『美は乱調にあり』(大杉栄・伊藤野枝伝)1966年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784006022846

書評
https://gamp.ameblo.jp/tonton3ab/entry-12242501010.html

『遠い声』(管野スガ伝記) 1970年
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b515743.html

などがそうである。

それらの評伝執筆を振り返った東京新聞連載の「この道」は『激しい生と美しい死』と自身がタイトルをつけて単行本となった。

参考

『激しい生と美しい死』
https://www.shinchosha.co.jp/book/114442/

そして、彼女もそのように生きてきた。

彼女の初期の代表作である『夏の終わり』は恋多き女、瀬戸内晴美の実体験を基にした私小説である。

参考

『夏の終わり』書評
https://blog.goo.ne.jp/qwer0987/e/0253e8e09be77c5cc8af1c9d9960c255

そして、デビュー当時には性愛を大胆に描写した『花芯』が酷評され、「子宮」という単語を多様したことから「子宮作家」とも呼ばれて文壇を干された時期もあったそうだ。

参考

「瀬戸内寂聴が“干された”小説『花芯』、村川絵梨&林遣都&安藤政信で映画化」
https://s.cinemacafe.net/article/2016/03/25/39103.amp.html

しかし、この恋多き女性も50代にして得度出家し「男断ち」した。

作家で僧侶でもあった今東光が出家を申し出た瀬戸内晴美に自らの法名「春聴」の一字「春」を授けようとしたところ晴美は「恐れ入りますが、春には飽きて出家するのです。」と申し出て「聴」の一字をもらい「寂聴」と名乗ったそうである。

参考

【今東光】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%B1%E5%85%89

寂聴さんは炭鉱労働者を経て日本共産党に入党した作家の井上光晴とも恋愛関係にあり、寂聴さんの出家仏門入りの動機は井上との関係清算の意志によるものだったそうである。

参考

【井上光晴】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%89%E6%99%B4

そのあたりは井上光晴の長女井上荒野の『あちらにいる鬼』に詳しく描かれているらしい。

参考

「作家・井上光晴とその妻、そして瀬戸内寂聴・・・長い三角関係の心の綾 井上荒野さん『あちらにいる鬼』」
https://book.asahi.com/article/12122549

まさに波瀾万丈に満ちた人生だったようだ。

ところで、この寂聴さんを憲さんが尊敬しているのはその小説などの作品からだけではない。

彼女の生きざま、そしてその社会へ訴える行動そのものを憲さんは断固支持していた。

「殺すなかれ、殺されるなかれ」

彼女は仏教の信念にもとづき戦争や死刑制度に反対し続けた。

湾岸戦争時や米軍のアフガニスタン侵攻時には高齢にもかかわらず断食祈祷(ハンガーストライキ)を決行した。

安保関連法案国会審議の時は反対集会に飛び入りで参加し「いい戦争は絶対にありません。戦争はすべて人殺しです」と発言、「憲法9条東京の会」代表格世話人にもなった。

また、原発反対で経産省前のハンストや座り込みにも参加している。

さらに死刑囚の永山則夫や永田洋子らとも交流し、永田洋子の控訴審では情状証人となっている。

参考

【永山則夫】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB

【永田洋子】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E6%B4%8B%E5%AD%90

このように彼女は「命」に常に寄り添い、「この世は生きるに足る」と説き、そして圧倒的に弱者の立場にたち「説く」だけではなく99歳になるまで「行動した人」であった。

それはものすごいエネルギーであった。

頭が下がる。

すごい人である。

なので彼女の死は、まさに「巨星堕つ」の感である。

奥嵯峨や庵主白寿の白牡丹

寂聴、白寿に詠む

瀬戸内寂聴寂滅の報を聴いて、憲さんまた一人同志を失った寂寥感に襲われた。

安らかにお眠りください。

合掌。涙

どーよっ!

どーなのよっ?
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