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2021年11月08日20:18

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国鉄闘争は終わっていない! 憲さん、11月労働者集会に久々に参加する!の巻

フォト


※画像は11月集会の様子(憲さんスマホで撮影)

いまから35年も前、1986年の夏、憲さんは19歳でまだ初々しい大学一年生だった。

この年は1982年から続く、現在の「新自由主義」に先鞭をつけた中曽根康弘首相が長期政権を継続しており、いわゆる「戦後政治の総決算」を標榜して労働者人民に凶暴な攻撃を仕掛けてきており、日本においては重大な歴史的転換点にあたっていた。

参考

【戦後政治の総決算】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%AE%E7%B7%8F%E6%B1%BA%E7%AE%97

この時は世界的にみてもアメリカのレーガン、イギリスのサッチャーが登場し、強烈な「反共主義」のイデオロギーを掲げ、国家暴力をふりかざし、徹底的な労組破壊、規制撤廃、民営化攻撃を通して戦後的階級関係を転覆しようと試みるものであった。

アメリカのレーガンは「強いアメリカ」を唱え対ソ強硬政策を推進し、内政においては富裕層中心の大幅減税と緊縮財政・社会福祉の削減を強行し、イギリスのサッチャーは福祉の縮小や国有企業の民営化を推し進めていった。

そして、日本の中曽根政権の「戦後政治の総決算」攻撃は1985年に電電公社と専売公社を民営化し、戦後最強で労働運動を先頭で牽引してきた国鉄労働運動を解体すべく国鉄分割民営化の攻撃をその政権の全体重をかけて襲いかかってきたのである。

後に中曽根は「国労(国鉄労働組合)をつぶし、総評・社会党を破滅に追い込むことを明確に意識して国鉄分割・民営化をやった」「行政改革によってお座敷をきれいにして、立派な憲法を床の間に安置する」とその意図を明け透けに語っているのだ。

参考
「国労つぶし総評つぶし社会党をつぶした」/中曽根元首相の本当の「功績」
http://www.labornetjp.org/news/2019/1206nakasone

事実、中曽根が言うように日本の戦闘的労働運動を牽引してきた総評(日本労働組合総評議会)は1989年に解散し、御用組合の連合へと収斂されてしまい、また社会党(現在の社民党)はいまや見る影もない。

参考

【総評】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%B5%84%E5%90%88%E7%B7%8F%E8%A9%95%E8%AD%B0%E4%BC%9A#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%B5%84%E5%90%88%E7%B7%8F%E8%A9%95%E8%AD%B0%E4%BC%9A%EF%BC%88%E3%81%AB%E3%81%BB%E3%82%93%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%8F%E3%81%BF%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%9C%A7%E5%8A%9B%E5%9B%A3%E4%BD%93%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

【日本社会党】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A

そういう意味では中曽根の反労働者性は露骨で凶悪であり、それは万死に値するのだが、奴を100歳を越えるまで生き長らえさせ、天寿をまっとうさせたことは憲さんにとっては極めて忸怩たる思いであった!

参考

「中曽根元首相、死去 国鉄改革、労組を標的 生前取材に狙い明かす」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/18634

しかし、当時の中曽根のこの攻撃に対し、国鉄労働組合を中心に多くの国鉄労働者が「国鉄分割民営化絶対反対!」を掲げ断固立ち上がったのだ。

1986年7月6日、中曽根は衆参ダブル選挙にうって出た。そして結果自民党が304議席をとって圧勝したのは当時の若い憲さんにとっても衝撃的であった。

参考

【第38回衆議院議員総選挙】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC38%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99

この時、憲さんは毎日新聞の事前投票アンケート調査のアルバイトをしていたが、投票先を尋ねる人ほとんどが「自民党に投票する」と回答しており、暗澹たる気持ちになったことを覚えている。

そして、国鉄分割民営化攻撃にさらされた国鉄労働組合(国労)の本部は最後の望み、中曽根自民党が負けることをこの選挙に託していたが、この選挙の野党の大敗、自民党の圧勝で国労本部の骨は折れてしまった。

この選挙結果を受けて同年7月22日から千葉で開かれた国労全国大会では「大胆な妥協」方針が打ちだされ、労使共同宣言の締結については中央闘争委員会に一任するとの方針が決定された。

だがこれに対して国労の組合員は本部の総屈服方針を断固拒否して起ちあがった。同年10月9日から修善寺で開催された臨時大会である。

そもそもこの修善寺大会は、千葉大会で中央闘争委員会に一任された労使共同宣言の締結を機関として確認するために召集された大会であった。しかし、全国から結集した組合員の抑えがたい怒りはここで一挙に爆発し、中闘委提案を賛成101票、反対183票で否決し、山崎執行部は総辞職して六本木委員長の新執行部が選出されたのである。

参考

「修善寺大会」
https://www.doro-chiba.org/rekisi/rekisi_03/jinkatu.htm

「正念場の国鉄改革 紛糾する国労大会」(NHKアーカイブス・動画)
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030689_00000

実は憲さん、この国鉄分割民営化にあたり、総評の屋台骨とも評された国労がその攻撃にどう立ち向かうかを決した歴史的な「国労修善寺大会」の会場に「闘う国労断固支持」を掲げて応援に行っているのだ。

当時の憲さんはまだ初々しい大学一年生で、国鉄分割民営化には反対ではあったが国労や総評がどういったものなのかまではよく知らなかった。ただ国鉄分割民営化に反対し、闘う国労組合員を支持し応援しようという思いで修善寺に馳せ参じているのだ。

修善寺と言えば有名な伊豆の温泉地であるが、当時の憲さんは修善寺に行きながらも温泉に入っていない。(というか、憲さんが温泉マニアとなったのはこの後のことてある。)

当日は10月といっても汗をかくような暖かい気候で、さらに反対派国労組合員の熱気で暑いくらいであったと記憶している。

そして、中闘委提案否決、山崎執行部総辞職の報せを聞いたときは、汗と感激の涙で顔がグシャグシャに濡れていたことを今でも覚えている。

その後国鉄の分割・民営化は強行され1987年4月よりJRグループとなり、国鉄労働者1047名が解雇された。しかし、憲さんは「国鉄分割民営化断固反対!」「闘う国鉄労働者断固支持!」「1047名の解雇撤回!」を国鉄労働者と共に自分の闘いとして闘ってきた。

当時は分割民営化反対を掲げて該当カンパ闘争も各駅頭で行った。

一番印象に残っているのは神奈川県の国鉄(分割・民営化前)戸塚駅前のカンパである。なぜか知らないがあの駅前は大変カンパが集まった。

労働者が多い街なのであろうか?

「国鉄分割民営化で国鉄労働者が路頭に迷わされそうになっています!分割・民営化阻止のために是非とも多額のカンパをお願いします!」

こう呼び掛けると飛ぶように千円札がカンパ箱に飛び込んできた。(というよりは無理くりむしりとったと言った方がいいかも知れない)

記憶によると一人で数時間で六万円くらい集めたかと思う。これは、全国の学生仲間でもトップクラスの街頭カンパ集金能力であった。

( ̄ー ̄)ムフフ

もちろんそれらは闘う国鉄労働者に全額届けられた。(はずである・・・)

ちなみに蛇足だが、当時は国鉄分割民営化とは別に夏になると「広島長崎反戦闘争旅費支援カンパ」も行ったが、これまた戸塚駅ではよくカンパが集まったものである・・・。

閑話休題

そして、労働者になってからも所属していた地域合同労組の役員として国鉄闘争支援の葛飾支援協(現葛飾区労働組合連絡会〈葛飾労組連〉の前身)の活動を通じて国鉄闘争と闘う国鉄労働者を全力で支援してきた。

しかし・・・

私自身が所属する合同労組の幹部の専横と組合方針の転換により、労働組合活動に嫌気がさし、憲さんが合同労組を脱退するのを軌を一にして、2010年に国労が国鉄闘争の「政治解決」を強行することにより、私自身の国鉄闘争に対する思い入れも段々と薄れていったのも事実である。

参考

「1047名問題の政治解決案を正式に承認/国労臨時大会」
https://www.jil.go.jp/kokunai/topics/mm/20100428c.html

【国労〈JR採用闘争〉】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%B5%84%E5%90%88

ということで憲さん、国鉄闘争はいうに及ばす、階級闘争(労働運動)から10年以上遠ざかっていた・・・。

しかしこの間、以前加入していた合同労組時代の仲間(といっても現在合同労組内では最左派で執行部からは疎まれている人たち・・・)で、現在葛飾労組連を中心に活動している仲間から誘われて、久々(10年ぶりくらい)に3労組(国鉄千葉動力車労働組合・全国金属機械労働組合港合同・全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部)が呼びかける日比谷野音の11月労働者集会に参加してきた。

速報

「11・7全国労働者総決起集会を開催」
https://doro-chiba.org/2021/11/08/post-19599/

このような大規模な労働者集会に参加するのは本当に久しぶりであった。

参加者はコロナ禍の影響か以前参加したときより少なく、海外の労組の参加もなかったが、やはり参加すると元気が出た。

特に動労千葉の新委員長である関道利さんの基調は格調高く全くもって「異議なし!」の基調であった。

「空気入った!」

実は憲さん、先日行われた総選挙の結果に35年前の国労山崎執行部のようにうちひしがれていた。

「コロナ禍であれだけ自公政権に痛め付けられている人々がなぜまだ自公政権を支持するのか?なぜ野党共闘を支持しないのか?」と、絶望的な気持ちになっていた。

しかし、関委員長の基調を聞いてわかった。やはり「議会制民主主義」なるもので「政治屋」に頼って世の中を変えるのではないのだ!と。労働者が主人公となり、力をつけることによってのみでしか世の中を変えることは出来ないのだ!と。

権力の不当な弾圧と闘う全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部の報告も良かった。権力の労組破壊に怒りを覚えると共に、それと真っ向から闘う関生の闘いに元気が出た。

また、医療労働者の看護師やコンビニの仲間など若い労働者の発言も元気をもらった!

日本ではまだまだ諦めず闘う新しい仲間がいることを再確認した。

全学連の沖縄大学の新委員長も初々しくて良かった。発言のイントネーションが沖縄方言であり、その格好もヒップホップな感じに新しい息吹きを感じた。

そして、祖国ミャンマーの軍事政権と闘う在日ビルマ労働組合の人たちの登壇には驚いた!

彼らの闘争は日本の階級闘争とは次元が違う闘いである。

本当に文字通りの「命がけ」なのだ。憲さんがいま通っている現場にもミャンマーからきた若い監督のタン君がいるが、彼にはいつもミャンマーのことを聞いている。彼も当然ながら軍事政権に反対し、民主化を支持して祖国の現状を心配している。

この、ミャンマーの軍事政権を経済的に支援している日本の政府に憤りを覚えるし、どうにか支援していかなければとつくづく感じた。

そして、この集会において憲さんが一番感動したのは、動労千葉争議団の中村仁さんはじめ、まだ国鉄闘争を闘い抜いている争議団が存在し闘っていることを目の当たりにしたことだ。

当然、動労千葉争議団が国労の政治解決後も国鉄闘争を闘っていることは知ってはいた。

しかし、意気軒昂と闘っている争議団の姿と発言を久しぶりに目の当たりにして憲さん言い知れぬ感動を覚えた。

憲さんが合同労組を辞めた一つの要因はその組合が国鉄闘争を国労の政治解決を機に手を引いたことである。

その組合の方針にも納得出来なかった。

国鉄闘争は一労使争議ではないのだ。日本の階級闘争の帰趨がかかった闘いであり、まさしく「総労働対総資本」の闘いであったのだ。

ゆえに全国の心ある労働者は我がことのように闘い支援したのではないだろうか?

それが、解雇撤回なき中途半端な政治解決で「(国労)当該が闘いを終わらせた」ということで国鉄闘争支援を終わらせてよいものなのか?

甚だ疑問であった。

しかし、私は自身のプライベートでの生活の変化も重なり国鉄闘争は疎か、階級闘争からも遠く身を措くようになっていた。

しかし、この集会でまだ国鉄闘争を闘う当該が元気に闘っていることを目の当たりにし、脳天をハンマーで叩かれたような衝撃を覚えた。そして、自身の不甲斐なさを恥じた。

「敵よりも一日長く」まさにこの労働運動の合言葉を地を這いつくばる思いで実践している争議団の人たちに感動し敬意を表さずにはいられなかった。

まだ国鉄闘争を闘う当該がいる!

だったら、絶対に国鉄闘争を勝利させなければ!

35年前憲さんが修善寺の地で思ったことが沸々と心に沸き上がった。

今集会、人数こそ以前に比べて少なかったが、憲さんにとってはかけがえのない一日となった。

膝が痛くデモに参加するかも迷ったが、闘う仲間と共に頑張ろうと歩き抜いた。

右翼の口撃には身構えたが、その中身は極めて低劣で無内容かつショボかった。

デモ終了地点の、常磐橋公園は夕闇に包まれていたが、達成感と爽快感が残った。

沖縄からきた全学連の後輩の旅費カンパを財布からはたき、憲さんは心地よい疲労感を覚えながら暗闇の中葛西への帰路についた・・・。

これからの人生、憲さんも頑張ろう!

そう思った。

どーよっ!

どーなのよっ?

※ただ、参加者を見回すとその年齢層は高く、全体に若い人が少ないのが気になる。

また、昔の知り合いを多く見かけ同窓会のようだった。彼ら彼女らが活動を継続していることには敬意を表するが、日本の階級闘争におけるまさしく「中核」の党として小異を捨て大同をとる器量をもって是非ともぶっ立ってほしいものである。

憲さんは憲さんなりに頑張ろうと思っている。

参考
・季刊『共産主義者』2021年11月発行210号
この理論誌も久しぶりに買って読んだが憲さんの考えとしっくりくる。それに内容が格調高く深く濃い。
・山川出版『日本史用語集』
・山川出版『詳説日本史図録』
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