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2021年09月14日02:54

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憲さん、歴史における「智の巨人」に果敢に挑む! 司馬遼太郎『街道をゆく 白河・会津のみち』を読んで

フォト


※画像は「国民的作家」司馬遼太郎

昔は八日市場市といった、現在は匝瑳市という房総の九十九里浜沿いにある市。
駅でいうと総武本線の飯倉駅から九十九里に向かって3キロほどであろうか、蕪里(かぶざと)という土地がある。

この何の変哲もない房総の田舎の土地にこの小さなロシア正教の教会が存在する。明治24年に開かれた東方正教会、ハリストス須賀正教会である。

参考

【ハリストス須賀正教会】
http://s104bn.blogspot.com/2016/07/blog-post.html?m=1

房総のB級スポットマニアの憲さんは実はここに行ったことがある。

数年前、バイクで九十九里に行く途中で立ち寄ったのだ。

結局その時は敷地の外から教会の外観を眺めるしかできなかったが、実は憲さんには見たいものがあった。

それが、山下りんの「イコン画」である。

イコン画とは、キリスト教において崇敬の対象とされる聖像のことである。特に東方教会で発達した特殊な形式の平面像を指し、スラブ世界からロシアで発展した。

参考

【イコン】
https://media.thisisgallery.com/art_term/icon

そして、山下りんとはその日本人最初のイコン画家と言われている。

これが山下りんが描いたハリストス須賀正教会にあるイコンである。

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p121-006.html

りんは、「明治維新」前の1857年に常陸国(茨城県)に笠間藩士の娘として生まれた。

生来絵が好きで、明治10(1877)年工部美術学校に入学。フォンタネージに師事する。この間ハリストス正教に入信しニコライから受洗。ニコライの命で同13年ロシアのペテルブルク女子修道院に留学しイコンを学ぶ。同16年帰国。のち35年にわたって東京神田駿河台のニコライ堂内に起居し、北海道から関東に至る各地の教会のためにイコンを描き続けた人である。

参考

【山下りん】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E3%82%8A%E3%82%93

憲さん、この山下りんというイコン画家の存在はこの房総の片田舎の教会の存在で知った。

しかしながら、憲さんはここにあるイコン画は山下りんが房総に赴いて現地にて描きあげたとばかり思っていたのだが、そうではないようだ。

彼女のアトリエは神田ニコライ堂にあったようである。

参考

【ニコライ堂】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82

彼女はニコライ堂のアトリエに籠もり教会内でただただイコン制作のみに努めたそうだ。そして周囲とは全く没交渉で、61歳で故郷の笠間に戻るまでただただイコン画を描き続けたそうである。

なので、彼女の作品は神田で描かれ各地、特に東日本の正教会に送られ飾られたそうである。

その、彼女のイコン画が福島県白河市にもある。

それが、白河ハリストス正教会である。

参考

【白河ハリストス正教会】
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005e/cir-hamanakaaizu-naka18.html

この教会にも山下りんのイコン画が5つあるそうだ。

これらもりんが神田のニコライ堂のアトリエで描いて当地に送られたものに違いない。

憲さん、何でこの事実を知ったのか?

それが、今回紹介する本である。

それこそ、憲さんがその歴史観を批判してやまない司馬遼太郎の作品である。

『街道をゆく33 白河・会津のみち』

参考

「街道をゆく」公式サイト
https://publications.asahi.com/kaidou/33/index.shtml

憲さんこのコロナ禍でもう2年近く「籠もり人」生活が続いている。

生活必需品の買い物以外に唯一訪れるところといったら図書館くらいではなかろうか?

憲さん、コロナの初期の段階で図書館が閉鎖したことに猛抗議した。それが奏功したのかわからないが今ではコロナ禍の緊急事態宣言下においても区立図書館は通常通りに営業している。

そこで憲さん、図書館カードで借りられる上限一杯の図書と視聴覚資料を借りる。

CDはほとんどが落語である。

憲さんのホーム図書館である西葛西図書館にある落語のCDはほとんど聴き尽くしてしまった。

そして、DVDである。

これは、CDよりも数が少ない。

しかし、憲さんの興味があるDVDはほとんどみてしまった。

そこで、次に普通なら手が延びないような作品をチョイスすることになる。

そこで、憲さんが選んだのがこれである。

NHKスペシャル 街道をゆく 6 (第9回 奥州白河・会津のみち/第10回 オホーツク街道)
https://www.amazon.co.jp/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E8%A1%97%E9%81%93%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E7%99%BD%E6%B2%B3%E3%83%BB%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%A1-%E7%AC%AC10%E5%9B%9E-%E3%82%AA%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%AF%E8%A1%97%E9%81%93/dp/B0027WLYPE

この司馬遼太郎の『街道をゆく』は、1971年から1996年まで「週刊朝日」に連載された、書籍にして全43巻の紀行である。

このDVDはそれをNHKが幾つかチョイスして映像化しているものだ。

図書館の視聴覚資料にも幾つかこのシリーズがあったので、その中から憲さんが一番関心のある「会津」というキーワードから、上記の一本を選んで借りた。

これが、みてみると大変面白い。

そこで、憲さん原作を当たりたくなり、本著を借りることにした。

司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んだのは初めてである。

憲さん、当然ながら司馬遼太郎は何冊か読んだことがある。

印象に残っているのは同僚から借りた乃木希典を書いた『殉死』である。

この小説は、明治期の軍人で長州藩出身の乃木希典(陸軍大将)の日露戦争の第三軍司令官として旅順要塞を攻め(旅順の戦い)から明治天皇の大葬の日に、夫人静子と共に自宅で殉死するまでを描いている。

参考

【殉死】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%89%E6%AD%BB_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

この小説で司馬遼太郎は神格化された乃木像に対し痛烈な批評を加え、『坂の上の雲』とともに「乃木愚将論」を展開している。

憲さんも長州出身の乃木希典を何ら評価していないので、この小説は共感を持って読んだ。

しかし、司馬遼太郎はいわゆる『司馬史観』と言われる歴史観を巷に流布している。

それが、『坂の上の雲』に見られるような「明治維新から日露戦争までの三十余年を『これほど楽天的な時代はない』と評している」ところに顕著に見られる「明治維新」肯定史観である。

ちなみに、憲さんが一言でこの司馬の言説を否定するとしたらこうである。

明治17年に秩父の山あいで起きたいわゆる秩父事件、秩父民衆蜂起とそれに対する明治政府の弾圧を聞き及んでも、その時代は民衆が「楽天的」に振る舞っており、その鎮圧者である明治政府を肯定出来るのか?と。

司馬はその後の1945年の敗戦までの日本の歴史、すなわち太平洋戦争という「悪夢」を歴史の連続性として捉えることなく総括できず、その反転として明治初期の日清・日露戦争という帝国主義の侵略戦争を無邪気に賛美するという誤謬(ごびゅう)を犯しているのである。

参考

【司馬遼太郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

「平成時代が終わろうとする今、戦後日本を魅惑した『司馬史観』をのぞいてみませんか?」
https://tenki-jp.cdn.ampproject.org/v/s/tenki.jp/amp/suppl/kous4/2019/02/16/28858.html?amp_js_v=a6&_gsa=1&usqp=mq331AQKKAFQArABIIACAw%3D%3D#aoh=16314886928856&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Ftenki.jp%2Fsuppl%2Fkous4%2F2019%2F02%2F16%2F28858.html

このように、憲さんから言えば司馬遼太郎は「国民的作家」故にその歴史観の敷衍(ふえん)は犯罪的と言ってもいいのである。

しかし、悔しいことに彼の作品とその歴史観は多くの我が国民に浸透しているのも事実である。

なので、やはり司馬遼太郎の作品はフィクションであると認識しつつも、自身の歴史観を司馬史観と対置して確立する上では避けて通れない作品でもあると考えたのだ。

ということで、憲さんにとって司馬史観を体系的に批判する必要性を感じながらも、その力量が自分に備わっているとは言いがたいので、これについては後の課題としてとっておこうと思う。

で、この『街道をゆく』であるが、読むと悔しいが大変面白い。

そして、この紀行一つ読むだけでも司馬遼太郎がいかに国民的作家であり、いかに「智の巨人」であるかが思い知らされる。

この原作を読むと、NHKの映像版「街道をゆく 白河・会津のみち」がいかにダイジェスト版でいいとこ取りのつまみ食いか良くわかる。

原作はその紀行は京の都から始まる。
平安朝の貴族がどれだけ「奥州」に憧れていたかを論じる。

そして、圧巻なのはやはり智の巨人らしく、その歴史的知識が広範囲に及ぶことである。

司馬遼太郎の具体的な旅が白河から始まるのだが、その白河においても冒頭に挙げた白河ハリストス正教会、そのイコン画を描いた山下りん、当然ながら芭蕉にも及ぶ。

そして、司馬遼太郎はこの戊辰東北戦争の激戦地白河で、戊辰戦争を回想してそれを日本史における「東西戦争」最後の戦争であるという。

この認識には憲さんも同感である。

戊辰戦争も「日本における東西の権力争いの内乱」であった。

司馬遼太郎は以下のように書いている。

以下、引用。

 戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた “東西戦争”の最後の戦争といっていい。

 古代はさておき、日本社会がほぼこんにちの原形として形成されはじめた平安末期に、西方の平家政権が勃興した。当然ながら、東方はその隷下に入った。
 それをほろぼした東方の鎌倉幕府が、西方を従え、 関東の御家人が、山陰山陽から九州にかけての西方の諸国諸郷に守護・地頭として西人の上に君臨した。
 南北朝時代は、律令政治を再興しようとした後醍醐天皇(南朝)が、いったんは関東の北条執権をほろぼしたから、一時的に“西”が高くなったが、結局は北朝を擁する関東出身の足利尊氏が世を制した。 東方の勝利といえる。
 織田・豊臣氏は西方政権であった。しかしそれらのあと、家康によって江戸幕府がひかれ、圧倒的な東方の時代になった。
 戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。
 しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤としたから、明治後もまた東の時代といっていい。

以上、引用終わり。

憲さんは戊辰戦争は西が何の大義名分もないまま東を暴力的に蹂躙し、そしてその土地を簒奪したクーデターであるとの認識である。

ちなみに、司馬遼太郎は西の人である。

憲さんは圧倒的に東の人間だ。

この司馬遼太郎の「日本史における『東西戦争』」という歴史認識は正しいが、その評価においては憲さんとは正反対なのではないだろうか?

そして司馬の旅は白河から会津へ向かう。その道すがら、彼は訪れてはいないが磐梯慧日寺に想いを馳せ、平安時代に最澄や空海と論争した会津徳一の話題に及ぶ。

憲さん、不覚にも東北マニアでりながらこの慧日寺の会津徳一は知らなかった。

この、東北という辺境に空海や最澄といった当時最高の知識人と書簡で論争をしていた「怪僧」?がいたこと自体驚きである。

参考

【慧日寺】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%97%A5%E5%AF%BA_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%A3%90%E6%A2%AF%E7%94%BA)#:~:text=%E6%81%B5%E6%97%A5%E5%AF%BA%EF%BC%88%E3%81%88%E3%81%AB,%E3%81%AB%E6%8C%87%E5%AE%9A%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82

【徳一】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80

そして、司馬遼太郎は会津若松に着いてやはり戊辰戦争に想いを馳せる。

そこで、会津藩祖保科正之から始まり、京都守護職松平容保、白虎隊の悲劇、さらには『京都守護職始末』を著した山川浩、その弟であり、東京帝大の「白虎隊総長」と渾名された、山川健次郎、そして『ある明治人の記録』を著した明治陸軍の柴五郎丸の斗南藩流刑の記録を紹介している。

参考

【保科正之】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B

【松平容保】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B9%E4%BF%9D

【白虎隊】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A

【山川浩】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%B5%A9

【山川健次郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E5%81%A5%E6%AC%A1%E9%83%8E

【柴五郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BA%94%E9%83%8E

【斗南藩】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9

この辺りは幕末マニアとしては常識である。

しかし司馬遼太郎は、会津の不幸な歴史に同情しつつもこう述べるのである。

以下、引用。(順不同)

・江戸封建制が、コメを物質的価値の基礎にすることによって成立したことはいうまで もない 全国三千万石というコメ収穫の二割ほどを徳川家がとり、同時に政府(幕府)運営費にした。
 あとを、二百数十の大名群にわけた。大名の力も権威も、その領地でどれほどコメがとれるかできめられた。侍どもの尊卑も、同様である。石高というコメの大小が基準だった。その価値の源泉は、水田農民がつくる。

・(江戸時代において)かれら商人は、身分順の最下位におかれつつも、中期ごろにはカネ経済がコメを圧倒日本国津々浦々まで流通の場になったことで、力を得た。
 見方をかえれば、将軍・大名が支配する世でなく、カネが支配する世になった。商人が、農村での商品生産を牛耳ることで、農村を支配した。大名たちは、みじめなことに、青田を担保にして、鴻池はじめ大坂の金融商人から一藩の運営費を借りるようになった。
 江戸体制は、べつの面からみれば、町人(ブルジョワジー)の世だった。
 一方、農村というコメの世界から江戸というカネの世界へ流入する人口はいよいよふえ、元禄年間(一六八八〜一七〇四)には人口百万を越えたろうといわれている。百万都市というのは、当時、ヨーロッパではロンドンぐらいしかなかったのではないか。
 明治維新にさきだつ三十年ばかり前の天保年間(一八三〇〜四四)、コメ依存の幕藩体制は窮しきってしまった。このときに幕藩体制の命脈は事実上尽きたといっていい。 有名な「天保の改革」は、経済を守ろうとする幕府の最後の抵抗だった。
 むろん症療法にすぎない。ともかくも庶民にカネを使わせないこと(倹約の強制)を強いた。

・明治維新というのはあきらかに革命である。
 革命である以上、謀略や陰謀をともなう。 会津藩は、最後の段階で、薩長によって革命の標的(当時でいう“朝敵”)にされた。会津攻めは、革命の総仕上げであり、これがなければ革命が形式として成就しなかったのである。
 会津人は、戊辰の戦後、凄惨な運命をたどらされた。

・もし徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防御線とし、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである。むろん、いずれが勝つにせよ、アメリカの南北戦争と同様、日本の東西の感情の亀裂は深刻なものになったにちがいない。
 この点、統一日本の成立の最大の功績者は、徳川慶喜であるというほかない。慶喜は、みずから舞台を降りた。

・紀行であることから離れて、すこしむだ口を書きたい。幕末・維新の会津藩についてである。私には、つよい同情がある。
 ただ、明治維新(一八六八)が、薩長による討幕という形でおこったことも当然だったろうと考えている。
 同時に、その勢いを駆って、薩長政権が封建制を廃滅させたことについても、慶賀する気持でいる。ともかくもこの結果、まがりなりにも国民国家が成立する基礎ができたのである。

以上、引用終わり。

司馬遼太郎はこう言いたいのである。

江戸時代後期の米を経済的基礎とした農本体制は江戸や大坂における商品経済や工場制手工業の発達に伴う貨幣経済の発達によりその下部構造において崩壊し、「命脈が尽きて」いた。

「明治維新」をなし得た「戊辰戦争」とはその崩壊した社会を根底から覆す「革命」であり、「まがりなりにも国民国家」を成立させた。

それにより、「薩長政権が封建制を廃滅させたことについても、慶賀する。」と。

あの大義名分なき殺戮戦争が大変喜ばしいことだった。と司馬遼太郎は言っているのだ。

戦争体験者とはとても思えぬ発想である。

司馬の言説をもっと露骨にいうと、革命のスケープゴードとなった会津藩には同情するが、歴史を「前に進めるため」にはそれは「しょうがない犠牲」なのだ。

と、言っているのだ。

まさに、「勝てば官軍」さらには西的な「大阪商人」の発想である!

憲さんから言わせれば、何言っるんだよ!?である。

そもそも、「明治維新」はブルジョワ革命でも何でもない、支配階級内部における暴力的権力奪取クーデターに過ぎない。

そこには「民衆」の近代的市民意識の覚醒など全く伴ってはいないのである。

それは、その後の「自由民権運動」の中からその萌芽が生まれてきたに過ぎない。

憲さんはいつも言うように、この封建制が下部構造で崩壊をきたしていくなかで、その上部構造においてはいわゆる「公武合体策」のソフトランディングが一番の良策であったと確信している。

参考

「上部構造・下部構造とは何か」
https://liberal-arts-guide.com/base-and-superstructure/

【公武合体】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93

ことあるごとに憲さんは言っているが、「明治維新」こそその後の日本の暗黒の社会の「地獄の入り口」に過ぎなかったのである。

誤解を恐れずいうのなら、それでも薩長が戦争を仕掛けて来るのであれば、幕府は断固として戦うべきだったのだ。
それは、江戸が火の海になろうとも!

事実、彰義隊や会津藩、奥羽越列藩同盟、そして榎本武揚はじめ函館新政府は果敢にも薩長の連中と戦ったではないか!

「征夷大将軍」との武人の棟梁を天皇に任じられながら、まさに薩長の「賊」に白旗を挙げて尻尾を巻いて逃げたのが慶喜ではないか!

この歴史的総括を前にしたら、憲さんから言わせれば「国民国家がナンボのものか?」「慶喜がナンボのものか」「日本の東西の感情の亀裂がナンボのものか!」と叫びたい気持ちである。

この問題についてはこれ以上触れない。

過去の憲さんの随筆を読んでくれれば良くわかると思う。

参考

「憲さん随筆アーカイブス 憲さん、2018年のはじめに考える−会津戊辰戦争敗戦150周年の節目の年を迎えて」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-ffa6b6.html

「講座派か労農派かそれが問題だ!『希望の資本論』を読んで」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-0e5f82.html

「憲さん随筆アーカイブス 武士の道徳とは? 森鴎外『渋江抽斎』に寄せて」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-bbbcbe.html

と、司馬遼太郎批判は今回はこのくらいにしてもう少し勉強して折を見てしっかりと展開していきたいと思う。

しかし、かの司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズは読むに値する著作ではある。

小説というフィクションとは違い確かに司馬遼太郎の主観が入りながらも史実に基づいて書かれているし、その歴史的知識の量はとてつもなく豊富である。

また、憲さんに言わせると司馬遼太郎の語彙の豊富さも魅力である。

試しに、この「白河・会津のみち」の紀行で憲さんにとって初見の言葉を挙げてみる。

以下

詩藻(しそう)、遥任・遥授(ようにん・ようじゅ)、扶植(ふしょく)、攬る(とる)、落魄(らくはく)、圉(ぎょ)、結構(けっこう・物事の構造や組立)、扣える(ひかえる)、灌頂(かんじょう・墓に水をかけること、他)、人情敦厚(にんじょうとんこう)、媾合(こうごう)、羽交い(はがい)、麤食者(そじきしゃ)、階(きざはし)、抖擻(とそう)、縁(よすが)、端倪(たんげい・《多くは「―すべからざる」の形で》 《名・ス他》物事の在り方・成り行きを見通すこと。すべからざる(=推し量れないほどの)したたか者」、京師(けいし・都)と、大変多い。

以上

これは、先日購入した国語辞典片手に調べながら読み進んだ。大変日本語や漢字の勉強になる。

憲さんも司馬史観に対しては批判的観点を堅持しつつも、この『街道をゆく』シリーズは全43巻あるようなので読み進めていきたいと思った。

参考

朝日新聞出版社「街道をゆく」公式サイト
https://publications.asahi.com/kaidou/index.shtml

司馬遼太郎、なかなかの曲者(くせもの)である。

どーよっ!

どーなのよっ?
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