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2021年09月08日07:08

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「石橋湛山の65日」

石橋湛山氏は1956年12月に総理に就任しましたが、在任65日と憲政史上3番目に短い総理でした。しかし昭和史研究の第一人者保阪正康さんは、「最短の在任、最高の業績」と石橋を論じています。保坂さんは政治姿勢・業績・何事かを成し遂げた総理をAランクとしていますが、講和条約締結の吉田茂、高度成長の池田勇人、沖縄返還の佐藤栄作と並んで石橋を高く評価しています。
石橋は政界に出るまで長く言論人として活動しましたが、近代日本の基本的指針を提示し続けました。戦前は軍部の強い弾圧に屈することなく帝国主義的発想による政策や現実の対応などとは一線を画し、小日本主義を貫きました。信念のためには恐れるものはないとの覚悟のもと軍部と対峙し暴力的政策に反対し続けた気骨の言論人でした。また共同体的感情の相克、きわめて論理的に整合性のある見方や尺度をもっていました。
戦後すぐの吉田内閣で非議員ながら蔵相(現財務省)につき、財政を切り回そうとしてありえない公職追放に。復帰後は政界に打って出ましたが、自ら総理を目指したわけではありませんが、周りが総理の器に惚れ込みました。
1884年生まれの自由主義者が、保守合同のあと総理に就任しすぐに病に倒れることなかりせば、日本の戦後史は大きく変わっていたことでしょう。

鳩山政権退陣後の保守合同の混乱期、吉田の後継であった緒方竹虎が急死しなかったなら、あるいは決選投票で7票差で岸信介を破り総理に座についた石橋が病に倒れなかったら、あるいは石橋が病で倒れたときに閣内に2,3位連合の一方の主役であった石井光次郎がいて総理臨時代理につくことができたなら、戦後政治史は全く違った展開を見せたことは間違いありません。
石橋が病に倒れたとき医師団は2,3ヶ月の徹底した治療療養を取れば回復は容易であるとの見立てでしたが、一ヶ月以上の政治空白は作るべきではないという自らの信念であっさり総理の職を辞しました。石橋のあとを継いだ岸は、大日本帝国回帰型の復古的政策を連発し、安保闘争で国論を二分したことを思うと、返す返すも残念です。

石橋は体験を科学化し、将来に残さなければならないと強く述べています。保坂さんはその真意を「資料を父とし、証言を母とし、教訓という子供を生む」と考えています。説明しない政治を邁進した安倍さんや菅さんにはなんのこっちゃでしょうが、コロナ渦の後半戦を担う次期総理にはぜひ科学的論理的思考を持つ方がついてほしいと強く願います。
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