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2021年09月01日15:32

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全ての登山者の安全を願う。羽根田治著『山岳遭難の傷痕』を読んで

フォト


※画像は本著

憲さんの高校生の同級生にMちゃんがいる。

高校の時にワンダーフォーゲル部に在籍し、山歩きに明け暮れていて、その後まぐれで有名私立大学に入学したが、そこでもワンダーフォーゲルのサークルに入りロクに勉強もせず山登りばかりしてたという。

ちなみにワンダーフォーゲルとはドイツ語で「渡り鳥」だということは最近新聞のコラムで憲さん知った。

参考

【ワンダーフォーゲル】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB

その彼が齢(よわい)54の今年の夏、白馬岳〜栂海新道〜親不知の憧れの縦走路の山行に挑戦したというのだ。

彼は、職場の自分より年上のパートの女性から、もう10年以上も前に「おじいちゃん」と陰であだ名されていたくらいの見た目で、とてもそんな体力があるようには見えないのだが、自分の歳を省みないのか、はたまた自身の体力を過信してなのか、私たち仲間の心配する声を無視し、テントを担いで山行に出掛けた。

憲さんはその過程で新聞に「栂海新道で初老の男性疲労で遭難か?」という山岳遭難記事が出るのではないかと毎日が気が気ではなかった。

幸いにも、Mちゃんは予定どおりに親不知に下山できのだが、本人の弁でも相当きつかったらしい。

参考(ヤマレコ)

「白馬岳〜栂海新道〜親不知 憧れの縦走路へ」
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3415714.html

もし、彼が万が一にでも遭難していたらこの本にはどういう見出しで載るのであろうか?

「白馬岳〜栂海新道〜親不知縦走路での滑疲労遭難事故−シニアオヤジの己の体力を過信した代償は大きかった・・・」とでも書かれるのであろうか?

(´艸`)くすくす

憲さん、以前の随筆で「遭難マニア」だと書いた。

参考

「空前絶後! 土佐長平の無人島からの脱出! 『江戸時代のロビンソン』を読む」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/08/post-472a98.html

そこに憲さんこう書いた。

以下、引用。

憲さん実は遭難マニアである。

といっても、自分が遭難するのは真っ平御免蒙りたい。

というか、「遭難」するのが好きな人は世の中広しと言えどもいないのではないだろうか?

憲さんが遭難マニアなのは、遭難譚(たん)を読むことである。

それは、山岳遭難であれ海洋遭難であれ、航空遭難であれ生身の人間が自然の中に裸同然で叩き込まれ、絶望的な中で必死になってもがき苦しんでいくなかで、ある人は力尽きて果ててしまうが、ある人は壮絶かつ超人的力を発揮し、その苦難から奇跡的に脱出するのである。

以上、引用終わり。

そして、昨今の登山ブームの影響を受けて、多発しているのがやはり山岳遭難であろう。

この山岳遭難のルポルタージュの第一人者が本著の著者羽根田治氏である。

参考

【羽根田治】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%A0%B9%E7%94%B0%E6%B2%BB

彼の著作には・・・

『生還−−山岳遭難からの救出』
『ドキュメント 気象遭難』
『ドキュメント 道迷い遭難』
『ドキュメント 滑落遭難』

等があり、遭難マニアである憲さんは当然ながら全部読んでいる。

この、著者自身も登山家であるらしく、遭難ドキュメントとしては秀逸であり、またその遭難に対する評価の筆致はときに峻厳である。

時として生還した当事者や遺族に対して容赦ない質問を浴びせる事から、日本の山岳界の中では彼に対する評価の賛否が別れるところらしいが、私としては「失敗の経験から執拗に学ぶ」ことが大事であり、それこそが遭難で亡くなられた方々への最大の供養であると考えるので、彼の仕事については好意的に受け止めている。

そして、今回の彼の仕事はこれである。

『十大事故から読み解く 山岳遭難の傷痕』

こちら

『十大事故から読み解く 山岳遭難の傷痕』
https://ebookstore.sony.jp/item/LT000125285001021191/

今回は羽根田氏の仕事の総仕上げなのだろうか?

歴史的に日本の山岳遭難を全体的に俯瞰している。

その、「十大事故」が以下である。(後掲は参考資料)

1章 1913年の「聖職の碑」木曽駒ヶ岳集団登山事故
https://youtu.be/meymnbyyWx0

2章 1930年の東京帝大の剱澤小屋雪崩事故
http://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/Review/syowa2/ginrei.html

3章 1954年の富士山吉田大沢の大量雪崩事故
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E9%87%8F%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85_(1954%E5%B9%B4)

4章 1955年の前穂高東壁で起きたナイロンザイル切断事故
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

5章 1960年の谷川岳一ノ倉沢宙吊り事故
https://youtu.be/IGbIE25LnNM

6章 1963年の薬師岳愛知大学大量遭難事故
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E9%83%A8%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%B2%B3%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85

7章 1967年の西穂独標で起きた高校生落雷遭難事故
https://youtu.be/3_LTgIwyhKs

8章 1989年の立山で起きた中高年初心者の大量遭難事故
https://youtu.be/XW027Qf3kQ0

9章 1994年の吾妻連峰スキー遭難事故
https://youtu.be/9aSBmp3Riu0

10章 2009年のトムラウシ山ツアー登山事故
https://youtu.be/sodw39L6jhM

山岳十大遭難とあって憲さんも殆ど耳にしたことがある。

特に一章の木曽駒ヶ岳集団登山事故はつとに有名で、これは新田次郎の小説『聖職の碑』として、小説となりさらにそれを原作として映画にもなっている。

参考

【聖職の碑】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E8%81%B7%E3%81%AE%E7%A2%91

この遭難は、1913年当時は気象レーダーなともなく、台風の予報がなかったことを考えると致し方なくもあり、今から考えると隔世の感がある。

そして、憲さんがこの本を読んで一番印象に残ったのはやはり大方の皆さんと同じように、第6章の1963年、薬師岳愛知大学大量遭難事故である。

この遭難事故は憲さんの生まれる前の出来事である。

1963年1月(昭和38)正月に愛知大学山岳部13人のパーティーが薬師岳(富山県)頂上を目指した。

しかし、後に “サンパチ豪雪” と名付けられた豪雪吹雪の中で山頂を目前にして登頂断念、下山途中にルートを誤り13人全員が遭難死した事故である。

これは、戦後最悪の遭難事故として記憶されている。

この遭難は豪雪吹雪をはじめとする様々な要因が積み重なった結果もたらされたものであろう。

そして遭難の最大の原因として、地図とコンパス(磁石)を携行している者がパーティーの中に誰もいなかったことも遭難の重要な要因として挙げられている。

しかし、この事実は本当なのであろうか?

もしそうだとすれば彼らは冬の薬師岳の山頂に集団自殺に行ったに等しいのではないか?

いくらまだ経験が浅い大学山岳部であってもこれはおかしくないか?

憲さんは彼らは当然ながら地図とコンパスは持っていたが、途中吹雪の中でそれらを紛失してしまったと推測している。

でなければ、あまりにも冬山で極地法の登山訓練をするには装備に対する意識が低すぎると言わざるを得まい。

いずれにせよ、真相は死んでしまった当事者に聞かなければわかるまい。

さらに、この事件のドラマチックなところは、その発見が後の3月に、同じ名古屋にキャンパスのある名古屋大学の山岳部が“友情捜索”をして、遭難したパーティーの登山ルートとは外れた薬師岳東南稜から取りついたときに発見したことである。

結局、遭難パーティーはルートを外れて遭難してしまったのであった。

また、それでも見つからない二人の遺体をその父親が執念の捜索でその年の9月になって黒部川沿いの枝沢で発見したのである。

まさに、親の愛であり執念であろう。

そしてそれらの遺体は黒部川の岸で荼毘に付されたのである。

山岳地帯の川の岸辺で遺体を荼毘に伏すとはどうやるのであろうか?

怖いもの見たさの興味がわく。

そして、この事件後愛知大学の山岳部は再開されたのだが、再開直後に新入部員が鹿島槍ヶ岳で病死する事故が起き、以降現在に至るまで愛知大学には山岳部は存在しないそうである。

もうひとつ、この事故で印象に残る話はこの山岳遭難の捜索の報道についてである。

特に、朝日新聞は遭難したパーティーが頂上を目指した太郎小屋に地上からラッセルして登る救助隊を尻目に大型ヘリで強行着陸し、小屋の中を捜索したが誰もいないで、その時に発せられた無線の音声「太郎小屋に人影なし・・・・、太郎小屋に人影なし・・・・」をもとに「来た、見た、いなかった ― 太郎小屋に人影なし」という見出しがつけられた号外を出したのだが、このヘリで強行着陸した記者があの伝説の記者本多勝一氏だったというのである。

ちなみに、この「来た、見た、いなかった」とは、共和政ローマの将軍・政治家のガイウス・ユリウス・カエサルが、紀元前47年のゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた言葉「来た、見た、勝った」がオリジナルである。

参考

【来た、見た、勝った】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%80%81%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%80%81%E5%8B%9D%E3%81%A3%E3%81%9F

しかし、本多勝一といえば『憧憬のヒマラヤ』などの著作からもわかる通り、出身が長野県の伊那谷ということもあり若い頃から登山をしており、その著作にも山登りや冒険についても多数ある御仁である。

参考

【本多勝一】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%8B%9D%E4%B8%80

ちなみに憲さんも若い頃は本多勝一の著作を読み漁って、今も自宅に多くの単行本がある。

この、山登りに一家言も「二家言」もある記者が、仕事とはいえ山小屋にヘリコプターで行くとは、ちょっとガッカリである。

この辺の加熱した遭難事故の取材過程は『マスコミ空中戦 事件記者物語』として書籍化されたが、今や絶版になって入手困難であるようだ。

この、1963年の薬師岳愛知大学大量遭難事故についてはこちらのサイトに詳しい。

「愛知大学山岳部薬師岳遭難事件」
https://dankai.akimasa21.net/yakushi-sounan/

「愛知大学山岳部薬師岳遭難を推理する」
http://pseudo-trdi.jugem.jp/?eid=424#gsc.tab=0

また、こちらの当時のニュース映画も参考にされたし。

https://youtu.be/QBPYq7Az-3o

このように、日本の登山の歴史は累々たる遭難者の屍の上に築かれたものであることもまた事実である。

※事実、第5章の1960年の谷川岳一ノ倉沢宙吊り事故にあるように、谷川岳は死者数のギネス記録が認定されており、まさに「人喰山」の悪名をとどろかせている。

ちなみに、憲さんはこの谷川岳も水上温泉から谷川沿いを登り、いわお新道経由で山頂まで登っている。

参考(他人のブログ)

「谷川岳 いわお新道 その2」
https://ameblo.jp/chaicadillac/entry-12542477178.html?utm_source=gamp&utm_medium=ameba&utm_content=general__chaicadillac&utm_campaign=gamp_paginationList

憲さんも今は膝が痛くなってしまいしていないが、30代から40代にかけて山歩きをしていた。

あの、近年噴火して多くの犠牲者を出した木曽御嶽山にもバイクでアプローチして、山頂まで登った。
今から考えると若かった。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/2014%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1%E5%99%B4%E7%81%AB

幸いにも憲さんは山岳遭難の経験はないが、これからはこれらの遭難から多くを学び、多くの人に安全な登山を楽しんでもらいたいものである。

憲さんは友人のMちゃんが、羽根田治氏の著作の中にその名前を刻まないことを祈るばかりである。

(´Д`)=*ハァ〜

どーよっ!

どーなのよっ?
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