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2021年09月01日06:23

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祝!証言集『風よ鳳仙花の歌をはこべ』復刻! 関東大震災から98年−私たちは伝える努力を怠ってはならない。

フォト


※画像はくだんの記事

憲さんは石碑マニアである。

今朝起きて、寝ぼけながら昨日の夕刊に目を通していたら、「おや?どこかで見たことのある石碑の写真が載っているぞ?」と思った。(画像参照)

独特の字体で「悼」の一字が刻まれたインパクトのある石碑である。

段々と頭が回転し始め、記憶が呼び起こされる。

「そうだ!この石碑は荒川に懸かる旧四つ木橋の墨田区側のたもとに建てられた関東大震災における朝鮮人犠牲者の石碑だ!」と記憶がよみがえると共に、今日が9月1日であることを思い出した。

今日で1923年9月1日に発生した関東大震災から98年が経つ。

この記事は「朝鮮人虐殺の証言集30年ぶりに復刊」として、今は故人となられた小学校教員だった絹田幸恵さんら、市民グループ「ほうせんか」のメンバーが1982年から10年間かけて震災や虐殺を記憶する約150人から聞き取った大変貴重な証言集の『風よ鳳仙花の歌をはこべ』が復刊されたというものである。

記事全文

「関東大震災の朝鮮人虐殺の記憶を継承 証言集『風よ鳳仙花の歌をはこべ』が30年ぶりに復刊」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/127963

憲さんは以前、この記事にも紹介されている加藤直樹氏の著書「九月、東京の路上で」を読んでこの関東大震災での朝鮮人虐殺の事実を深く知り、大変な衝撃を受けて自身の随筆にアップしている。

参考

「九月、東京の路上で−私たち日本人は百年前何をしたのか?」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-5d7945.html

この時、随筆を書いた後にこの「九月、東京の路上で」にその証言が多数引用されている「風よ鳳仙花の歌をはこべ」を図書館で借りて読んだ。

そして、この市民グループのリーダー的存在である絹田幸恵さんにも大変興味を持った。

参考

「聞き捨てにできなかった人〜絹田幸恵先生追悼」
https://furukawa-exblog-jp.cdn.ampproject.org/v/s/furukawa.exblog.jp/amp/6942885/?amp_js_v=a6&_gsa=1&usqp=mq331AQKKAFQArABIIACAw%3D%3D#aoh=16304390731964&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Ffurukawa.exblog.jp%2F6942885%2F

この、絹田さんは信念の人である。
憲さんはこの方の生きざまに触れ心が震えた記憶がある。

彼女は足立区の小学校教員であった。

以下、彼女の活動を前出のブログから引用する。

以下、引用

1972年頃、4年生の社会科で足立区の人々の「くらしと水」の学習をしようとしたときだった。学校の近くを流れる荒川放水路(現・荒川)が人工の川であると教えた時にその成り立ちを尋ねる子どもたちの質問に絹田は十分答えることができなかった。絹田は子どもたちの質問を聞き捨てにしておくことはできなかった。放水路についての詳細な資料は探したけれど見つからなかった。絹田は、それではと、自力で放水路の歴史を調べ始めた。夏休みごとに放水路の近くの旧家を訪ね、話を聞き、また、荒川や利根川の工事事務所に行き、多数の聞き書きと写真と資料を集めた。それらはスライドや台本の形にまとめられ教材となって授業で使われた。
1977年頃、放水路の調査・聞き書きをしているときに、絹田は一人の古老から、関東大震災時に荒川放水路・旧四ツ木橋下手で多くの朝鮮人が虐殺されたこと、その骨は埋もれたままになっていることを聞かされ、そして、「お経でもあげてくれれば供養になるのだが」という言葉を聞いた。絹田はこれを聞き流しておくことができなかった。「たいへんなことを聞いてしまった」と絹田は感じた。絹田はそれまでに聞き書きのために訪ねていた墨田区の多聞寺、万福寺、正覚寺、江東区の浄心寺などの寺に相談した。しかし、どんな形で供養すればいいのか、そのときの絹田はまったく途方に暮れていた。

1982年、この年、事態は大きく動いた。
当時、旧中川の河川対策が大きな問題となっていて、NHKも報道番組でそれをとりあげていた。絹田は荒川放水路調査の一つとして川に詳しい人を教えてもらうためにディレクターの平塚千尋をNHKに訪ね、高野秀夫(注)を紹介された。NHKは旧中川の改修問題に詳しい高野秀夫を特集番組の司会者に頼むべきかどうか検討していた頃だった。高野は元・江戸川区議会議員、数々の市民運動において指導的役割を果たしていた。
絹田は高野についてどんな人がまったく知らないまま江戸川区内の自宅に高野を訪ねた。高野は川について絹田に教えてくれただけでなく、虐殺された朝鮮人を供養するにはどうしたらいいかという絹田の思いに真剣に耳を傾けた。高野は大切な問題だから遺骨の調査をしてみようではないかと言った。「高野さんと出会わなければどうなっていたでしょう」と絹田は高野への感謝を隠さない。
同年6月13日、高野の呼びかけに応えて「絹田先生を囲む会」が開かれ、同7月18日には「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」準備会が80余名で発足した。仮代表は山田昭次(日本近代史研究者)。
同年9月2日、3日、7日、建設省との交渉・許可のもと旧四ツ木橋の下手河川敷で埋もれたままになっていると思われる遺骨の大規模な試掘を行ったが、遺骨を発見することはできなかった。
同年12月、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会(のちに「〜を追悼する会」)は正式に発足、代表には絹田を選んだ。絹田は「こんな大きな荷物を背負うことはできません」と泣いた。
会は、その後、毎年9月に京成線・八広駅近くの旧・四ツ木橋、現・木根川橋下手の荒川河川敷で「朝鮮人殉難者追悼式」を開くとともに、その歴史を刻んだ追悼碑を建立するために苦難の道を歩み始めた。それは今も続いている。

以上、引用終わり。

真の教育者とはこのような方を言うのであろう。

彼女の荒川についての聞き書きは『荒川放水路物語』として、1990年に刊行されている。

参考

【荒川放水路物語】
http://ktymtskz.my.coocan.jp/B/arakawa0.htm

彼女のフィールドワーク力は並大抵ではない。

この『荒川放水路物語』は、東京の東部地区に住んでいる方には必読書である。

憲さんも図書館で借りて読んだ。

話を戻す。

記事にはこうある。

「朝鮮人虐殺を否定する本が相次ぎ出版される時代だ。墨田区の横網町公園で行われている朝鮮人犠牲者の追悼式典に、小池百合子都知事が2017年から追悼文を送るのをやめた。記憶の風化も心配されている。」

参考

「関東大震災と朝鮮人虐殺『なかった』ことにしたい集会、誰が参加するのか?」
https://news.yahoo.co.jp/byline/ishidosatoru/20200901-00196176

「小池知事、5年連続で関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼文送らず 式典実行委が都に抗議声明」
https://www-tokyo--np-co-jp.cdn.ampproject.org/v/s/www.tokyo-np.co.jp/amp/article/126373?amp_js_v=a6&_gsa=1&usqp=mq331AQKKAFQArABIIACAw%3D%3D#aoh=16304426796417&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Fwww.tokyo-np.co.jp%2Farticle%2F126373

「トリック 『朝鮮人虐殺』をなかったことにしたい人たち」
https://allreviews.jp/review/3727

今回の『風よ鳳仙花の歌をはこべ』の復刻は大変喜ばしいことである。

記事にもあるように、今や「関東大震災での朝鮮人虐殺はなかった」などのとんでもない歴史修正主義が蔓延(はびこ)っており、その前にこのような「負の歴史」を知る機会すらなくなっている中で、我々東京の先人が行った恐慌時における目を覆いたくなるような集団ヒステリーとも言える凶行を私たちは記憶に留めておくべきだろう。

この記事の最後にほうせんか理事で在日朝鮮人の慎民子(シンミンジャ)さんがこう言っている。

「30年間で朝鮮人虐殺を巡る歴史観は後退した。加害者責任の否定にあらがうには伝える努力を怠ってはいけない」

憲さんのこの随筆も「伝える努力」の一環なのである。

虐殺された朝鮮人と、関東大震災による犠牲者に・・・、

合掌。

どーよっ!

どーなのよっ?

※絹田幸恵さんの『荒川放水路物語』も憲さん是非復刊させてもらいたい。
できれば、荒川河川敷において凶行された朝鮮人虐殺の歴史にも触れるとなお良いと思うのだが・・・。
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