※画像は本著
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』より
参考
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「レヴィ=ストロース『世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。』」
https://hatohebi36.hatenablog.com/entry/20180315/1521113064
フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースがこう書き記したのは今から65年も前のことである。
人類がどう考えるかは勝手だが、この命題はまさしく真実であると憲さんは確信する。
世界は人間なしで始まったことはいまや、自明の理である。
しかし、その終焉が人間と共におとずれると考えるのはあまりにも傲(おご)りたかぶった態度であろう。
哲学者鷲田清一の言葉を借りれば「途中から世界に現れ、やがて先に消えてゆく人類には、その世界に『修復不能な損傷を惹き起すいかなる権利』もない。人類は世界の主ではない。」のである。
参考
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【鷲田清一】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80
これもまた自明の理であろう。
「現在進行形で起きているコロナ禍の光景は、この命題のまたとない証明もなっている。」
と、若き政治学者白井聡先生はその著書『主権者のいない国』で述べている。
白井聡氏の新著がまた世に問われた。
憲さんは当然なから東京新聞の松尾貴史氏の書評で知った。
参考
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憲さん随筆
「あなたは、今のニッポンにどんな『違和感』を覚えますか? 松尾貴史著『ニッポンの違和感』を読んで」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-70a463.html
早速、図書館で予約したが1ヶ月以上待たされた。
(´Д`)=*ハァ〜
参考
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東京新聞書評
https://www.tokyo-np.co.jp/article/107337
白井先生、相当ストレスがたまっているようだ。
先日は我らがユーミン(松任谷由実)に対して「早く死んだほうがいい」などとの舌禍事件を惹き起こしたのも記憶に新しい。
参考
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「ユーミン罵倒の白井講師が再び『反省』『早く死んだほうが...』弁明の前回謝罪は炎上」
https://www.j-cast.com/2020/09/03393460.html?p=all
しかし、これも先生の社会に対する苛立ちとユーミンに対する熱烈なる愛情から出たものであると憲さんは理解している。
今回の著書は、この新型コロナ禍の情勢と、安倍晋三→菅義偉と無能な政権の交代劇を受けての、白井先生のそれらに対するストレスをぶちまける、ある種「ストレス発散」的要素が強い。
全体にコラムの貼り合わせ的であり、また自著、特に『永続敗戦論−戦後日本の核心』や『国体論―菊と星条旗』のおさらい、さらには「宣伝」といった部分が多い。
(´艸`)くすくす
参考
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『白井聡「永続敗戦論」書評 対米従属を続けたい人だらけ』
https://book.asahi.com/article/11629303
「書評『国体論―菊と星条旗』」
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018051800003.html?page=1
また、後半は超反動政治家で元首相の中曽根康弘評や保守論客西部邁評をしたと思えば、マルクス主義哲学者の廣松渉評、さらには「機動戦士ガンダム」の安彦良和の漫画『虹色のトロツキー』の論評とちょっと雑多でよくわからなくなっていった。
参考
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【中曽根康弘】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%BA%B7%E5%BC%98
【西部邁】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E9%82%81
【廣松渉】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89
【虹色のトロツキー】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9%E8%89%B2%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
さらに、全体に無条件で難解な単語やカタカナ語が多用され、憲さんのような一般の労働者には読むのに苦労した。
しかし前半部分、特に第一章「『戦後の国体』は新型コロナに出会った」は最新の情勢を踏まえて、現在の危機的状況を分析しており、特に冒頭のレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を引用した節「安倍政権とコロナ危機−三つの危機、三つの転換」は大いに拝読するに値する内容であった。
著者は適菜収氏の言葉を借りて安倍政権を「七年間に及ぶ国と社会に対するテロ」と規定し、現在のコロナ禍に対する著者なりの処方を提案している。
参考
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【適菜収】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E8%8F%9C%E5%8F%8E
「最後の一線を越えた…7年間にも及ぶ国と社会に対するテロ 適菜収」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/266204
と、同時にこのコロナ禍が画歴史的な現象であることを指摘している。
著者曰く。(以下、引用)
今日の状況を日本史上の場面に擬(なぞら)えるならば、戦時中、サイパン陥落後に誰がどうやって東条英機を引きずり下ろすのかが課題となった局面に、にている、(中略)
戦前の天皇制国家は、おおよそ関東大震災と昭和の始まりの時期から、うち続く経済危機と対外緊張に直面し、そして全面戦争へと突入して、敗戦、破局を迎えた。この時期を『国体論』 は、「戦前の国体の崩壊期」と定義した。この崩壊過程の戦後版は、一九九〇年前後、すなわち昭和の終わりと東西対立終焉と経済成長の終わりという「三つの終わり」から始まって、今日に至るまで反復の軌道を描いている。平成時代が丸ごと「失われた三〇年」であるのは、それが戦後の国体」の崩壊期であるからにほかならない。 以上の歴史観に即せば、安倍政権は東条政権の反復として見ることができる。 両者とも、国体 の崩壊過程の最終段階に当たり、その末期にふさわしい混乱と無能をさらけ出している。したがって、コロナ危機が安倍政権を打ち倒すとすれば、それは、単に一政権が退陣することのみを意味するのではない。それは、「戦後の国体」の終わりであり、つまりは「戦後の終わり」となるあって、コロナ危機の構造の中間の水準とは、この日本史における大きな分水嶺を指している。
「戦後」の末期症状を示してきたのは安倍政権だけでない。 この最低の政権が超長期政権となったのは、要するに国民の相対的支持を受けてきたためであり、戦後日本社会の総体的な劣化の結果だ。 「安倍政権が日本をダメにした」のではなく、ダメになった日本が安倍政権を生み出したのであり、その意味で安倍政権は現代日本にまことにふさわしい政権なのである。3・11以 戦後民主主義の体調ははっきりと危機の局面に入り、その暗部を露にし始めた。安倍政権とは、その暗部を煮詰めた塊のようなものだ。
以上、引用終わり。
と、安倍長期政権を戦中の東条英機政権になぞらえるところは、菅義偉政権を東条英機後の小磯国昭内閣になぞらえる憲さんと同じである。
( ̄ー ̄)ムフフ
参考
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憲さん随筆
「小磯国昭デジャブ? 無能な首相も野党も私たちには不要だ!」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-9055f3.html
と、同時にその存立基盤が主権者である国民の主体の問題であると分析している。
続けて著者はいう。
以下引用。
そうしたなかで、私は、この体制は限界に達しており、その清算が国民の内発的な努力によってなされればよいが、それができなければ外的な力によって有無を言わさず清算を強制されるであろう、と繰り返し指摘してきた。
コロナ危機はまさにその「外的な力」として現れている。
(中略)
今後の日本での被害がどうなるにせよ、すでにはっきりしたことが一つある。それは、日本は東アジアの最先進国などではいまや決してない、という事実だ。コロナ危機への対応において目を瞠(みは)らされたのは台湾と韓国である。両国は、民主的な政府は同時に危機において機能する政府であることを証明してみせた。
(後略)
以上、引用終わり。
これは今回のコロナ危機が突きつけた紛れもない真実であろう。
憲さんは以前から、日本はもはや東アジアにおける「盟主」の位置から陥落していると思っていたが、ここまでハッキリと突きつけられたのはこのコロナ禍においてであろう。
そして、著者はこのコロナ禍の日本におけるインパクトはもはや世界的なインパクトとは比べ物にならないと指摘する。
その詳細な論述はここでは割愛するが、結論の部分だけ引用する。
以下、引用。
かつてペストの大流行による人口減がヨーロッパで中世を終わらせたこととの類推で、コロナ危機が近代(=資本主義の時代)に終止符を打つのではないかという見解が根拠なきものだとは、私は思わない。近代の本質がヒューマニズム (人間中心主義)であったとすれば、近代のおわりはその終焉を意味する。
以上、引用終わり。
そして、その著述は冒頭のレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』の「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」に繋がるのである。
憲さんも「コロナ危機が近代(=資本主義の時代)に終止符を打つのではないかという見解が根拠なきものだ」とは思わない。
そして、当然ながら私たち人類の主体の問題が鋭く問われてくるのであろう。
もし、このまま座視していれば脅かしではないが世界が終わる前に人間の終焉がおとずれるのではないだろうか?
その原因はウィルスの脅威かもしれないし、原子力、もしくは環境破壊かも知れない。
いずれにせよ、憲さんはそうすら考える。
また、もし私たち主体が起ち上がるならば、それは「近代(=資本主義の時代)に終止符」を打ち、新しい未来に向けて歩むことができるのではないだろうか?
これについて、著者は大変意味深長な文章でこの章を閉じている。
以下、引用。
すべての工場が止まったのみならず、観光客が消えたイタリアでは、ベネツィアの運河の水が澄み切って輝いているという。しかしながら、「人間がこの世界の中心にいない世界=人間のいない世界」ではない。 新型コロナウイルスによる人命被害について私が知った最も興味深い推論は、産業の停止による大気汚染の緩和によって救われる命の方が、ウイルスによる死者よりも多いかもしれない、という環境学者の言説であった。この推測が当たるかどうかは不明だが、ひとつの可能性を示唆してはいないだろうか。その可能性とは、人間が人間中心主義を放棄するこ とが直接に人間の幸福に寄与する可能性であり、コロナ危機はその可能性が開花する世界への転換をわれわれに要求している。
以上、引用終わり。
これは、斎藤幸平氏がその著書『人新世の「資本論」』で指摘していることに通低している。
参考
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憲さん随筆
「『脱成長コミュニズム』の展望−斎藤幸平著『人新世の「資本論」』を読む」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-052eda.html
これこから翻ってもう一度我が国日本を俯瞰してみる。
これは、この著書である白井聡氏が本著作で指摘して、憲さんも
Σ( ̄□ ̄;)ハッ!
と気付かされたことである。
それが、この部分である。
以下、引用。
戦前の国体は、明治維新の一八六八年を起点と見ると、一九四五年の敗戦まで、七七年間のうちに形成・発展を経て崩壊に至った。他方、一九四五年に始まる戦後体制は、対米従属を基礎として復興経済発展を実現させ、そしていま、無能・不正・腐敗の三拍子揃った政権が打倒されずに継続し、統治そのものが崩壊しつつあるというかたちで、破滅に向かっている。 二〇二二年には、戦後も七七年目を迎える。つまり、戦前の国体と戦後の国体が並行した軌道を描いているとすれば、国体の二度目の死の過程を、われわれは経験しつつあるのだ。
以上、引用終わり。
キーワードは「77年」である。
いわゆる「明治維新」から敗戦まで77年。
そして、戦後から来年の2022年まで77年。
まさに日本の近代は「敗戦」という折り返し地点を中間点にちょうど半分ずつを過ぎたのである。
そして、来年の2022年、私たち日本人に突きつけられた課題はこのコロナ危機をどのように乗り越え、新たなる「ポストコロナ」の77年を迎えるかである。
しかしながらもしかしたら、残念ながらその新たなる77年は到来しないかも知れない。
そんな重大な局面に立っているという認識を私たちは持つべきではないだろうか?
まずは次の総選挙において、その方向性を見極めることができるであろう。
憲さんはそう考える。
皆さんはどう考えるのだろうか?
我々人類に未来はあるのか?
人類にとって「明日はどっちだ?」
By矢吹丈
(´Д`)=*ハァ〜
どーよっ!
どーなのよっ?
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