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2021年08月07日22:39

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8/7(土)夜 五輪金メダル情報 スペインの歴史2(16世紀から19世紀初頭)男子サッカー・3位決定戦から一夜あけて

8/7(土)レスリング・フリースタイル 男子65キロ級で乙黒拓斗が、金メダルを獲得した。22歳7ヵ月半での金メダルは、レスリング界日本史上最年少となる。74キロ級で初戦敗退した兄の雪辱を晴らす結果となった。なお同日女子50kg級では須崎優衣が金メダルを獲得した。https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6621841

 昨6日、オリンピックの男子・サッカー、3位決定戦は、メキシコ代表が3対1で日本に勝利を収めた。日本代表は、2012年ロンドン五輪と同じく、メダルに一歩届かず、4位に終った。前半11分に自陣でボランチの遠藤がファウルを犯したことにより、PKで先取点を許し、完全に主導権を奪われた。3点ビハインドを負った段階で、途中投入された三苫がスピードのあるドリブルで切り裂き、1点を返す。スタメン組みは疲労の蓄積により、全体的に動きが重く、3点は遠かった。

 
 1997年産まれ以降の選手を対象にした24歳以下の選手達を主体としたチームに、年齢制限のない3人のオーバーエイジ枠が加わった。1988年産まれの吉田、1991年産まれの酒井、1993年産まれの遠藤が選ばれた。守備的な役割を果たす3人がチームにフィットしたことにより、初戦から準決勝までの5試合で、2失点に抑えた。チームで最も得点を上げたのは、トップ下の久保の3点、2001年産まれの彼は、3年後のパリ・オリンピックを見据える世代でもある。

 1968年メキシコオリンピック以来のメダル獲得に向けて、フランスの首都パリでの挑戦が始まる。

  スペインの歴史(16世紀から19世紀初め) 

前回に続き、スペインの歴史を取り上げる。時代は16世紀から19世紀初頭である。初めに時代を遡り、13世紀の教皇と周辺国の君主との関係からみていく。

 8/5(木)五輪情報 スペインの歴史(8世紀から15世紀まで) 男子サッカー 準決勝 第2試合 U-24日本代表 対 U-24スペイン代表戦レポート
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979988620&owner_id=32437106

 目次
第1章 教皇と君主
第2章 大航海時代へ
第3章 イタリア戦争に介入からハプスブルク家の統治時代へ
第4章 黄金時代の幕開け フェリペ2世
第5章 太陽が沈まない国が終わりを迎える
第6章 日本との関わり 19世紀初頭の激動期      


第1章 教皇と君主

レコキスタが行われた時代、教皇権の拡大と共に君主国が次々と誕生していた。1198年に教皇に選出されたインノケンティウス3世(在位1198年から1216年)は、教会法に基づいて、諸勢力を寄せ集め、軍を結成する。聖地イェルサレムをイスラム勢力から奪回を掲げるべく、十字軍を編成した。標的は、兵士を送り出す出港先のベネチア共和国の意向を汲み、イェルサレムからコンスタンティノプール(現イスタンブール)に変えた。指揮官には、勲章として、制圧都市の君主に定めた。第4回十字軍(西暦1202年から1204年)の時代にラテン帝国を建国する。教会が権力を振りかざすと、追随する聖職者は、すっかり民衆から信用を無くした。ついには異端運動が起こる。12世紀にカタリ派(アルビジョワ派)と呼ばれる運動が、北イタリアと南フランスを中心に展開された。教皇座に、特別な手続きを踏んで整理する異端審問制を導入したことにより、民衆の口を封じる狙いがあった。カタリ派を指示する諸侯は破門を宣告された。ついにはフランス王フィリップ2世の協力を得て、十字軍を派遣して、カタリ派を殲滅させた(アルビジョワ派)。

 教皇座は、破門宣告を駆使して、君主国間の戦争にも介入する。イングランドでは、リチャード1世の跡を継いだジョン{欠血王(在位1199年から1216年)が、フランス王と所領を巡って争っていた。ジョンは在仏所領の大半を失ったことにより、挽回を喫する。大司教の人事を巡って、教皇に異を唱えたことにより、破門宣告を受けた。対仏戦争による戦費が嵩み、諸侯からも見放された。西暦1215年にロンドン近郊にて、大憲章(マグナ=カルタ)に署名をさせられる。法に基づいて諸侯が、王権を監視するようになった。王様の権力を縛ることにより、安定化を図ったのである。

 写真=マグナカルタの調印式の様子 掲載元 リリーのブログ https://ameblo.jp/tazmimi/entry-12439569581.html
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イングランド王ジョンは、神聖ローマ帝国と結束して、西暦1214年にフランス王フィリップ2世とのブヴィーヌの戦いで敗れた。フランスの王は、長く教皇と良い関係を保つ。聖地十字軍を2度も指揮したルイ9世(在位1226年から1270年)は、聖人として列せられる。西南フランス・北スペインでは1137年、プロヴァンス地方にまで迫ったカタルーニャのバルセロナ伯領が、西隣のアラゴン王国との統合を果たした。アラゴン連合王国は、半島中部のカスティーリヤ王国、半島西部のポルトガル王国(1143年に成立)と共に、レコンキスタを牽引し、13世紀のうちに、半島南端のナスル朝(グラナダ王国)をのぞき、キリスト教勢力で占めるようになった。


 第2章 大航海時代へ

 1492年にレコキスタを完成させたスペインは、カトリック国家としての地位を築く。隣国ポルトガルとの間では、新大陸を求めて、大冒険を繰り広げる。同年には、コロンブスが、新大陸を発見し、人類の世界観が一気に広がった。

 写真=大航海時代のマップ 世界の歴史まっぷより
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 初めに海外進出を果たしたのはポルトガルだった。アフリカ西海岸を経由して、インド航路開拓に成功する。1519年には、ポルトガル人探検家マゼランが、スペインのセビリアから出航し、アメリカ大陸を経由して、太平洋を横断した。マゼラン自身は大航海中の1521年にフィリピンのマクタン島にて病死したものの、スペイン王国のバスク人探検家ファンセバスチャン・エルカーノによって成功を収め、1522年9月8日に出航したセビリアに到着した。

 大航海が始まった理由は、主に4つある。世界史の窓大航海時代より引用
https://www.y-history.net/appendix/wh0901-001.html

・ヨーロッパにおけるアジアに対する知識の拡大(13世紀のモンゴルの侵入、マルコ=ポーロなどによる)
・羅針盤・快速帆船・緯度航法など、遠洋航海術の発達
・ヨーロッパでの肉食の普及にともなう香辛料の需要の増大
・レコンキスタが進行して、キリスト教布教熱が高まっていたこと

 外的な要因 上の4項目は大航海時代が始まったヨーロッパ内部の要因でもあるが、外的要因としては、この時期に小アジアに興ったイスラム教国であるオスマン帝国がバルカン半島・東地中海・西アジアに進出し、従来のイタリア商人による東方貿易に不利な状況が生まれたことがあげられる。東方貿易が途絶えたわけではないが、ヨーロッパの商人たちは、より直接的に香辛料などをアジアから輸入するためのルートを開拓する必要に迫られたという背景もあった。

 大航海時代の影響
 この動きはインドなどアジア諸国と、アメリカ新大陸の現地人に大きな変化をもたらしただけでなく、ヨーロッパ本土にも大きな変革が生じた。商業革命や価格革命がおこり、西ヨーロッパの商工業の発展と人口増加にともなって東ヨーロッパでは西ヨーロッパの大航海時代に見いだすことができる。大航海時代によってもたらされた「世界の一体化」とは、このような「世界分業システム」の成立と言うことであった。向けの穀物生産に産業が特化して、農奴制が逆に強化されて半辺境化し、また新大陸のインディオに対してはスペインのエンコミエンダ制による強制労働が課せられて辺境化する、という世界的な「分業化」が進むこととなった。このような「近代世界システム」の成立を16世紀の大航海時代に見いだすことができる。大航海時代によってもたらされた「世界の一体化」とは、このような「世界分業システム」の成立であった。

                           <引用終わり>

 大航海時代の先鞭をつけたポルトガルを追うように、スペインが派遣したコロンブスは、西回りでインドに到達したと報じられた。コロンブスの到着地点は、実際西インド諸島だった。スペインとポルトガルは、植民地開拓の過程で、ローマ教皇アレクサンデル6世を仲介役に立てて、植民地分解線を敷いた。1493年に、アレクサンデル6世が敷いた教皇子午線(教皇境界線)が設定され、東側をポルトガル、西側をスペインが手に入れた。ポルトガルのジョアン2世は、さらなる領土拡張を主張し、翌1494年にトルデシャリス条約により、教皇子午線が修正された。ヴェルデ岬諸島の西100レグアの線をさらに西方370レグアに移動させることにより、スペイン側とも合意に至った。西経46度37分を分界線とし、東側はポルトガルに、西側はスペインに、それぞれ利権が与えられることとなった。
 トルデシリャスは、スペインのバリアドリード県交渉と調印が行われた都市の名である。

 写真 掲載元 世界史の窓 トリシャデス条約より https://www.y-history.net/appendix/wh0901-051.html

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      第3章 イタリア戦争に介入からハプスブルク家の統治時代へ

 大航海時代と共に、スペインの列強伝説が幕を開けた。初めに小国が寄り集まったイタリア地方の併合を巡って、戦争が起こる。フランスのヴァロワ朝の国王シャルル8世(在位1483年から98年、ルイ11世の子) が、1491年にブルターニュ公の娘アンヌと結婚し、同地域を配下に治めた。領土拡張を狙い、1494年にナポリ王国の王位継承の権利を主張して、侵攻する。ナポリ王国では、1435年にフランス系アンジュー家の断絶により、スペインのフェルディナンド1世が、最も後継者に近かった。1494年にフェルディナンド1世の死により、シャルル8世が王を狙い、ローマ教皇アレクサンドル6世に承認を求めた。スペインのボルジア家出身のアレクサンドル6世は、フランス人による統治を嫌い、王位継承を認めなかった。シャルル8世は、武力で持って王位継承を狙い、7000人から8000人のスイス人傭兵を含め、3万の軍勢を率いてナポリに入城した。フランス人の支配を恐れて、教皇アレクサンドル6世は、対抗勢力の結集を呼びかけた。神聖ローマの皇帝ハプスブルク家のマクシミリアン1世、シチリアを占領しているスペイン王フェルディナンド5世、ヴェネツィア、フィレンツェなどと同盟を結んでフランス軍を退けた。フェルナンド5世は、1504年にルイ12世との戦いで、勝利を収め、ナポリ王国を併合した。

 写真=世界の歴史マップ イタリア戦争より
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 ナポリ王国は、1504年以降、外国勢力の支配下に置かれ、本国に関しては総督が指揮をとる。スペイン継承戦争終結後の1714年、フランス、オーストリア、スペインによるラシュタット条約が締結され、王の座はハプスブルク家に代わった。

 イタリア戦争は、スペインに大きな転換点をもたらした。フランスの領土拡張を阻み、新たにナポリを手に入れたことにより、港の数が増え、海外進出に拍車をかける。聖職者、貴族、都市の主が集う身分制議会(コルテス、現在でも同様の言葉が使われている)が廃止され、絶対王政を確立した。

 国家をカトリック一色に染め上げるため、イスラム教徒やユダヤ教徒を追放する。16世紀、婚姻関係を通じて、神聖ローマ帝国の皇帝ポジションを狙い、さらに領土拡大を図る。

 スペイン王国の最初の統治者フェルナンドとイサベルの両王は、男の子に恵まれなかった。皇位継承のため、娘のファナ(後に精神を病んだので狂女といわれた)を神聖ローマ帝国のハプスブルク家、マクシミリアン1世の皇太子フィリップ(スペイン名フェリペ)の元へ差し出した。2人の間に産まれたカルロスはすでにブルゴーニュ公(ネーデルラントを含む)を相続していた。1516年、スペイン王位を継承してカルロス1世(在位1516〜56年)となり、オーストリア、ブルゴーニュ(現フランスの地方名)、スペインを支配するハプスブルク帝国が成立した。カルロスの勢いはとどまることをしらず、1519年に対立候補のフランスのフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝に選出され、新たにカール5世として戴冠した。ドイツと南イタリアまで勢力を拡大し、開拓途上のアメリカ大陸まで獲得した。

 写真 掲載元 世界史リンク工房より http://history-link-bottega.com/archives/cat_214398.html
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         第4章 黄金時代の幕開け フェリペ2世
 
 カール5世は、晩年の1556年に、兄弟間のいがみ合いを無くすため、ハプスブルク家を分割した。スペインを継いだのは、後に黄金期を築くフェリペ2世(西暦1556年から1593年)だった。彼の時代、海外での植民地活動を進める一方、対外戦争とともに宮殿建設に多額の資金を投じた結果、国家財政は火の車だった。その一つ1584年に首都マドリードにて建設されたエル・エスコリアル修道院は、世界遺産に認定された。財政立て直しと領土拡張の両輪を図っていた。

 即位2年前の1557年、ドイツのアウグスブルクの豪商フッガー家を含め、債務の支払いに追われ、植民地活動により獲得した資金を返済に充てていた。同年最初の破産宣言を行い、債務額の5%を年金で支払う長期債権に変えている。返済を先送りにし、自分の代を乗り切る作戦だった。現に1560年、75年、96年には、借金の支払いを一時的に停止した。

 返済を後回しにしたことにより、国力を強化する。1561年に宮廷をマドリードに定め、63年からエル・エスコリアルに修道院兼王宮を建設した(84年に完成)。1571年にはレパントの海戦でオスマン帝国海軍を打ち破ったことにより、無敵艦隊と称された。スペインの海軍は、プレヴェザの海戦以来失っていた制海権を回復した。同年、アジアではマニラ市を建設してフィリピン植民地支配を強化した。
 1580年にポルトガル王国の王朝断絶を契機に併合する。スペインの植民地獲得地域は、ポルトガル領まで広がり、新大陸からアジアに至る地球を一周する規模に達した。「太陽の沈まぬ国」の所以は、24時間を通して、必ず領土内に陽が照っている状況にある。領土拡張により、国力を高めるスペインは、富を独占する。他国はひそかに打倒スペインに向けて動いていた。関係が悪化していたイギリスは、エリザベス1世の元で、植民地活動を開始する。スペイン領であるネーデルラントでは1579年に、対スペインをにらみ、ネーデルランド17州の中で、北部7州による「ユトレヒト同盟」を結ぶ。

写真=ユトレヒト同盟について 掲載元note https://note.com/sekaishi/n/nc018d0bb0453
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スペインのカトリック信仰の強制に反旗を翻す市民も立ち上がり、1581年に独立を宣言した。スペイン軍が直ちに鎮圧に向かうと、オランダ独立戦争が切って落とされる。1588年7月から8月にかけて英仏海峡で行われたアマルダの海戦で運命が決まった。スペインの誇る無敵艦隊がオランダ独立を支援するイギリス海軍とのアルマダ戦争(海戦)で無残にも敗北を喫した。


     第5章 太陽が沈まない国が終わりを迎える

 イギリスとの関係悪化、領土内のオランダの反発、国の経済を支えていたユダヤ人の追放により、秩序の乱れ、借金増など、衰退の要因はいくつもある。新大陸の獲得により、大きな資源が手に入ると見込んだものの、制海権を失ったことで、経済的に大きな痛手を蒙った。無敵艦隊の名は、いつの間にか消えていた。1618年から1648年に神聖ローマ帝国内でカトリックと新教徒側との争い、30年戦争に加わると、財政は火の車となる。先のイタリア戦争から借金が膨らみ続け、先代のフェリペは返済を後回しにした。 アメリカ新大陸の金銀の産出量の減少に伴い、返済額は追いつかない。30年戦争では、旧教徒側にたち、宿敵フランスを倒すべく、国王フェリペ4世は出兵した。政治の実権を握っていた宰相オリバレスは、戦費を捻出するため、カスティーリャ以外のスペイン全域の地方まで課税を課す。新たな負担による経済苦に危機を抱いた地方民は立ち上がる。カタルーニャで起こった農民の反乱(収穫人戦争ともいう。)を初め、ポルトガルのスペイン分離運動が拍車をかけた。宿敵フランスとの間では、ロラクロワの戦いに敗北し、終焉する。1648年に成立したウェストファリア条約では、ついにオランダの独立を承認した。国力衰退により、長年支えていたスペイン=ハプスブルク家が断絶したのである。最後の王スペイン王カルロス2世は子に恵まれなかった。王位継承権を巡り、他国との戦争に発展する。スペイン継承戦争の勃発である。

 <以下引用文> 
  [松村 赳]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
 出展先https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89-84769

中央集権化を進めるフランスのルイ14世が、母方がスペイン王室出身であることから、継承権に名乗りを上げた。彼は孫のフィリップ・ダンジューをスペイン王に指名し、フェリペ5世として即位させた。対して、オーストリアも皇位継承権を主張し、イギリスとフランスを味方につける。1701年にスペイン継承戦争が勃発し、13年に渡って続いた。その結果ブルボン朝がスペインを支配することとなる。戦況は当初フランスが有利だったものの、同盟軍は挽回を期す。オーストリアのオイゲン公がイタリアでフランス軍を破ったのち、04年同公とイギリスのマールバラ公が、ブレナムの戦いでフランス・バイエルン連合軍を撃破し、戦局を転換した。イベリア半島に上陸したオーストリアのカール大公の軍も、06年マドリードに入城した。さらに、オイゲン公とマールバラ公は同年それぞれイタリアとネーデルラントで勝利を収めたのち、08年にはウーデナルドの戦いでフランスに大打撃を与えた。一方、海上でも、イギリス、オランダ艦隊はポルトガル沿海でフランス、スペイン艦隊を破り、04年ジブラルタルを占領した。

 写真 掲載元 加代昌広研究室 http://www.kashiroman.com/spain/futbol/
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 こうした同盟軍の優勢をみて、ルイ14世も講和を決意したが、その条件について妥協がならなかったため決裂し、戦争は続行された。その後もフランスは、一時戦勢を回復したものの一般的には振るわず、守勢であった。しかし、イギリスでホイッグ党内閣にかわってトーリー党内閣が成立し、オーストリアではヨーゼフ1世が死去してカール6世が即位するなどの同盟諸国の国内情勢の変化により、戦争終結への機運が兆し、1711年イギリスとフランスの交渉をきっかけに、13年ユトレヒト条約の締結となった。その後もオーストリアは戦争を継続したが、これも翌年のラスタット条約で終わりを告げた。なお、この戦争と並行して新大陸ではアン女王戦争が戦われた。
                              <引用終わり>

 アン女王戦争とは、スペイン継承戦争と平行して、北アメリカの植民地にて、イギリスとフランスで争われた。名称はイギリスの女王アンにちなむ。植民地戦争は、ウィリアム王戦争(1689年から1697年)に次ぐ2度目となった。戦争名は、イギリス王ウィリアム3世にちなむ。1697年のレイスウェイク条約で英仏両植民地の境界は、戦前の状態に戻った。続くアン女王戦争においては、イギリスが優位に進めた。 西インド諸島での私拿捕船の戦闘、現在のニューイングランド州でフランス・インディアン連合軍とイギリス軍の衝突が起こった。フランスは本国から派遣された兵が不足し、戦況を変えることは出来なかった。1713年にユトレヒト条約で講和となり、イギリスはハドソン湾周辺、アカディア(ノヴァ−スコシア)、ニューファンドランドを獲得する。またスペインの持つアフリカ黒人奴隷専売権であるアシエントを手に入れた。イギリスの海外発展、第一帝国形成の第一歩となった。

 写真=ユトレヒト条約 フランス 世界史 サロン http://world-history.blog.jp/archives/cat_355414.html?p=2
 
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第6章 日本との関わり 19世紀初頭の激動期

 スペインは、古くから日本ともかかわりを持っていた。1549年にザビエルの鹿児島上陸に始まる。後を追うように、スペイン人宣教師が来日し、カトリックの布教にあたった。九州のキリシタン大名は天正遣欧使節として少年たちを西廻りのスペイン経由でローマ教皇の下へ送った。
 交易に関しては、大きな遅れをとっていた。1584年にようやく平戸に商館を設けて開始した。スペインは、日本列島を南から北へかけてキリスト教の布教に力を入れる。カトリック勢力の危険性を悟った、当時の大名豊臣秀吉は、対抗措置として1587年にバテレン追放令を出した。キリスト教の布教を禁止した状態で、1596年にスペイン船のサン=フェリペ号が土佐沖に漂着した。キリスト教布教による世界征服を掲げる乗組員の目的を見抜き、取締りを強化した。豊臣秀吉自身は、フィリピンのルソン島の征服を一時計画したためにスペインとの関係はますます悪化する。当時鎖国状態だった日本は、ペリー来航による1852年の日米通商条約により、海外からの文化を受け入れるようになる。スペインも少なからず日本に影響を及ぼしていた。

 
 
 スペインは、ハプスブルク家の断絶により、黄金期が過ぎた。1714年にスペイン継承戦争を勝ち抜いたブルボン朝の下で、封建制度と教会による支配が続いた。旧態依然とした体制は代わらず、18世紀末にイギリスとフランスに遅れて、工業化が進み始める。

19世紀にはナポレオンの影響を受けるようになった。1806年にイエナの戦いで、プロイセン軍に勝利したフランスのナポレオン軍は、イギリスを追い込むため、大陸封鎖令を出す。イギリスと同盟を結んでいたポルトガルを追い落とすため、スペインを味方につける。海軍力で勝るポルトガルに対抗するべく、陸路を通して攻める作戦だった。ナポレオン軍は、スペインの宰相ゴドイを引きこみ、領土通過を許可してくれた見返りに、ポルトガル制圧後、3分の1の領土を割譲すると約束した。ゴドイは、ナポレオンが出した条件を呑んだ。領土通過によって、ナポレオンはゴドイとの約束を破り、ポルトガルとともにスペイン乗っ取りまで行う。1808年にスペインに軍を進めたのである。専制主義のナポレオンに対する市民の反感は強い。政策に失敗したゴドイとカルロス4世は、5月に民衆暴動「5月3日事件」によって、追放された。新たにフェルナンド7世の即位により、スペイン=ブルボン朝は廃絶された。同年6月4日に、フェルナンド7世はナポレオンにより、退位を迫られる。新たにナポレオンは、兄のジョゼフをスペインの新国王に据えた。

 ナポレオンの兄ジョゼフ新国王の下、バイヨンヌで議会を開いて新王朝を承認させ、憲法(バイヨンヌ憲法)を制定し、フランスを手本とした自由主義・立憲王制国家の形を整えた。

 写真 掲載元 ナポレオン史
http://ww2.tiki.ne.jp/~h-hidaka/newpage9.htm
 
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 一方でフランスの支配が及ばない地域で、1808年9月に地域評議会を結成し、1810年にカディスに場所を移すと、コルテス(議会)を開いた。1812年3月には立憲君主政体でありながら国民主権・三権分立などを規定したカディス憲法を制定する。1814年に、ナポレオン亡き後のヨーロッパの体制を決めるウィーン会議により、廃止された。後の立憲革命により「自由主義の政治的モデル」としてポルトガルやイタリアにも大きな影響を与えることになる。

 1492年にイベリア半島でイスラム勢力を一掃するレコキスタが行われた後、コロンブスの新大陸の発見により、世界観が一気に広がった。一時はヨーロッパ随一の大国へのし上がったものの、対外戦争による借金苦により、民衆の反乱、または配下に収めた国々の独立運動が重なり、衰退した。19世紀から20世紀は、中央アメリカの国々が相次いで独立する。スペインの領土はますます狭まり、苦難の時代を迎える。陽が沈まない国の大繁栄は終わりを告げた。

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