※画像は安藤昌益の眠る墓
その五から続く!
●昌益の「世直し方法論」
それでは、これだけ徹底した平和論、非暴力主義者である安藤昌益と、その一門の「世直し方法論」とは何なのか?
それも探ってみる。
弟子が昌益に尋ねる。
「転(天)下国、何をもってか無限に平安ならんと」
核心的な質問である。
それに対して昌益はこう答えた。
「上に経ってはならない、統治しようなどとしてはいけない、政治に関わってはいけない、自分を、人間性を見失うことになるから」
安藤昌益がアナーキストと言われる所以(ゆえん)であろう。
●昌益の「粛清の思想」!?
ここで、もう一つ憲さんの違和感を表明しよう。
これは、昌益に対する違和感というよりは、昌益解釈に対する違和感だ。
昌益は、理想の社会の全員が直耕する社会を目指して、口舌の徒に対して「説得により」直耕せしめるというのだが、弟子からさらに突っ込まれる。
「説得も聞かなかったらどうするのですか?」と。
すると、昌益はこういう。
「すべて悪事をなすも者、これあるときは、その一族、これを捕え、まず食を断ちて飢苦をなさしめ、一たびはこれを許し・・・」
と、食断ちの制裁を加えるようである。(というか、働かない者は自然に糊口をしのぐ事が出来なくなるという意味らしい。)
弟子はさらに突っ込む!
それでも「弁(わきま)えず、ふたたび悪事をな」すような事があったらどうするのか?
すると、昌益はこう答えた!
「一族、これを殺す」「人知れずに行うべし」と。
これについて、『写真集 人間安藤昌益』の著者安永寿延氏は「粛清の思想」とし、これに倣い一部の昌益に対する評価には「八戸のポルポト」というのがあるそうである。
参考
↓
【ポル・ポト】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%88
【安永寿延】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%B0%B8%E5%AF%BF%E5%BB%B6
これに対し石渡氏はその評価は「的外れ」だと語気を強めて主張する。
それは、人が暴力的手段により殺すのではなく、自然の摂理が「飢苦」を受け入れないもの命を奪うのだ。と言っているが、この本意は昌益自身にしかわかるまい。
少なくとも、このような書き方をすれば将来「八戸のポルポト」と呼ばれても仕方がないような誤解を招くのは当然であろう。
また、江戸時代においては、映画『楢山節考』にあるが、村中の家から芋を盗んでいた一家が村民に生き埋めにされて殺されるような、農民共同体の過酷な掟があったのも歴史的事実ではないのだろうか?
参考
↓
「活動屋外伝 今村昌平−2」
http://www.siff.jp/essay/cinemauma_essay_16.html
【今村昌平版『楢山節考』予告編】
https://youtu.be/OLcGGP0-IAY
(生き埋めシーンのさわりあり。)
やはり、昌益は「粛清」を考えたのかもしれない。
それは、謎だ。
●医者は人を殺さない。
なので、この石渡氏の安永氏に対しての評価はすこぶる低い。
石渡氏の著書のなかにこうもある。
「(安永)の研究姿勢というよりは、自己陶酔した創作説の数々には大いに疑問が残る。」
「(安永は)言葉の虚飾性を排して直に自己の信念を表現した昌益の著作を自身の『解読能力』を棚に上げ、『言葉の多義性によってみずからを封印した』などとすり替えたうえ、『逆説に逆説を重ね・・・ホンネは・・・ 空白の行間にしか記されていない・・・読解能力が試されている』などと称して、昌益が言ってもいない著作の『空白の行間』を自身の『解読能力』で創作したりしている。」
さらに、「なかでも、『契(かな)う論』を『粛清の思想』と規定し、歪んだ昌益像を描き出した結果、昌益の本文を読みもせず、安永の言い分を鵜呑みにした『安藤昌益は八戸のポルポト』といった類の亜流の言説を生み出しており、その責任は決して軽くはないといえよう。」
石渡氏は相当腹に据えかねたようである。
しかし、本当のことは闇のなかであろう。
石渡氏も昌益かわいさあまりに「贔屓の引き倒し」をしているかもしれまい。
少なくとも門外漢で原文に当たっていない憲さんが判断できることではない。
しかし、もし昌益が本当に「八戸のポルポト」であったら怖いが、少なくとも彼は人を殺(あや)めることはなかっただろう。
その人生で。
それが医者というものであろう。
参考
↓
「憲さん随筆アーカイブス 武士の道徳とは? 森鴎外『渋江抽斎』に寄せて」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-bbbcbe.html
(憲さんなりの医者の倫理について言及している。)
●丸山眞男の昌益観批判
さらに、注目すべきは石渡氏が返す刀で、昌益に言及する丸山眞男を斬り捨てるのである。
この石渡氏の論及は圧巻である。
これは、長いが安藤昌益学のエキスがたくさんつまっている箇所なので全文引用する。
以下「『契う論』の思想史上の位置付け」の項引用
昌益の思想とりわけ社会思想は、江戸時代中期にあって万人が直耕に携わる未来社会を構想したという点で、ユートピア論や理想社会論の系譜のなかで高く評価される一方、徹底的な商業批判や科学技術、とりわけ技術論的な言及がほとんどないところから、前近代的な空想的社会主義、非科学的社会主義と評される傾向が強く、現在もなお、そうした位置づけが主流である。
そうした「歴史的限界」論の典型として、丸山真男は、「昌益の理論からは、「直耕」という自然における論理はあっても自然世をもたらす論理は出てこない」「法世を自然世に転換すべき主体的契機は・・・見出されない」という。
だが、はたしてそうだろうか。安藤昌益は、世直しにとって「歴史的限界」を負った過去の人なのだろうか。弟子・神山仙確が「自然真営道」「大序巻」の巻末で紹介している、昌益が未来の読者−それはとりもなおさず、この本を読んでいる「あなた」であり、この本を綴っている「私」である−に向けて送ったメッセージ、「将来、人々の中にこの『自然真営道』の書を読み、自然界の法則を尊び、直耕に生きる人々があらわれたとすれば、その人はまさに「自然真営道」の作者(安藤昌益)の再来といえる。なぜならば、この作者はつねづね、つぎのように言っていた。『私が死ねば、天に帰ることになるが、やがては穀物の中によみがえり、ふたたび人としてこの世にあらわれることになる。どれほどの歳月を要したとしても、必ずや私はこの世を自然のままなる平和で平等な世の中にして見せる」と。この作者は、そう言い残してこの世を去っていったが・・・その言葉に嘘はないからである」は、空証文にすぎないのであろうか。私なりの答えは以下の通りである。
かりに昌益に「歴史的限界」があったというのであれば、丸山には「学者的限界」があったというべきであろう。丸山は、昌益が送ったメッセージを、都市に住み学問を生業(なりわい)とする自身に突きつけられた挑戦状と受け止めることができなかったのである。丸山の思考からは、自身が昌益の期待する「主体」の一人であることが抜け落ちているのである。
それは丸山が、昌益一門の世直し、すなわち社会変革を、近代西洋におけるブルジョワ革命なり、プロレタリア革命を念頭においていることから来る錯誤であり、誤読である。なぜならば、昌益一門にあっては、蒙(もう)を啓(ひら)くべきは農民ではなく、上に立つ不耕貪食の徒であり、都市で学問・政治に明け暮れ、大地・自然の生命力から切り離されて不自然かつ不健康な生活を送っている不耕貪食の徒だからである。
農民は日々、自然に向きあい自然の声に耳を傾け、自然のメッセージを読み解き、自然に働きかけ、自然の恩恵にあずかって自然に感謝し、自然と共生しているではないか。そうした人間本来の生き方をしている農民、人として健康このうえない農民に、これ以上、何が必要だというのか、何を説教しようというのか。
農民を師とし、農民に学ぶべき者は、都市という自然から切り離され自然に反した人工的な空間で、不健康で倒錯した生き方をしている都市住民、それは武士であり、職人であり、商人であり、坊主や神官・学者をはじめとした口舌の徒であり、遊民ではないか。
以上、引用終わり。
●安藤昌益研究者との思い出
実は憲さん、この石渡博明氏は以前の知人である。
参考
↓
「石渡博明 プロフィール」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E7%9F%B3%E6%B8%A1%E5%8D%9A%E6%98%8E_200000000462797/biography/
参考文献の『安藤昌益の平和思想』のブックレットはおそらく彼からいただいたと思う。
もう、10年以上会っていないが、温厚で博識な方で「安藤昌益を研究している」とは伺っていたが、こんなに熱い方だとは今の今まで知らなかった。
もっとお話を聞いていれば良かったと今となっては後悔している。
しかし、ここで「ふと」疑問に思うことがある。
この石渡氏も当時は狭義の意味での「直耕」を「生業」とする人ではなかったようである。
あれから月日が流れて、おそらく仕事も引退されているとは思うが、今は文字どおり「晴耕雨読」の生活をされているのであろう。
●奇跡の思想家、安藤昌益
そろそろ、まとめよう。
以上、見てきたように、江戸時代半ばに日本の辺地、東北で書かれた安藤昌益の思想は長い間埋もれて日の目を見ることがなかったのだが、それは憲さんが数冊、昌益に関しての著作を読みかじっただけで持った彼に対する幼稚な「違和感」「疑問」を差し引いても、当時にしては奇跡に近い広遠な哲学であり、その輝きは今もって変わらないのであろう。
まさに、最初に掲げた弟子の神山仙確の序文ではないが、それは現在の日本にも当てはまる「警世の書」なのである。
私たち日本人は、丸山眞男のように、「近代西欧市民社会をモデルとした歴史意識から、近代西洋におけるブルジョワ革命なり、プロレタリア革命を」論じるのも重要であろうが、このような偉大な日本の先人の哲学や思想をもっと貪欲に吸収し血肉化させる必要もあるのではなかろうか?
実際、憲さんにとってはドイツ語からいびつに日本語に訳したマルクスの言葉よりも、「なんちゃって漢文」から書き下した昌益の言葉のほうが、やはり同じ民族だからなのかストンと胸に落ちるところが多かったような気がする。
「『我が日本、古より今に至るまで哲学なし』とする見解がある。昌益の存在自体がこの説に対する反駁である。昌益とその思想は、洋学の流入以前の日本に自発・自生した科学的思考であり、全東洋の諸思想を批判・揚棄することで得られた土着の弁証法的論理であり、生産者階級の横領者階級に対する闘争がついに到達した革命思想であり、日本が世界に誇りうるおそらく唯一の巨大な思想体系である。」(『甦る!安藤昌益』寺尾五郎「安藤昌益の思想」)だそうだ。
私たちはこの奇跡の思想家、「日本のマルクス」と称せられた安藤昌益の存在を誇りに思っていいのだ。
憲さんはそう思う。
●禁欲主義の昌益
しかーしっ!
実は、この安藤昌益という方が推奨する社会は「美食美衣の禁止、菜食主義、禁酒禁煙と、相当に禁欲的な倫理を説く」そうである。
参考
↓
「安藤昌益とアナキズム」
http://www.phoenix-c.or.jp/~m-ecofar/77.html
昌益は「米は絶対に酒にしてはいけない!」とも言っているようである。
「美食美衣」はいいとして、「菜食主義、禁酒」は憲さん耐えられそうにない。
●憲さんこそ「直耕」を実践!?
しかし、憲さんは昌益が批判する「職人」という階級ではあるので狭義の「直耕者」ではないが、今もゴミ焼却場の建設に携わっており、それは「人々の生活をまかなう日用品や農機具の製作」など人間社会を成り立たせる上で必要不可欠な生産者にであり、広義の「直耕者」であると自負している。
ゆえに、憲さんこそいわゆる「晴耕雨読」の「直耕」を実践をしており、昌益が生きていたら大変高く評価されるべき存在なのかも知れまい。
(´艸`)くすくす
どーよっ!
どーなのよっ?
※参考文献
山崎庸男『安藤昌益の実像 近代的視点を超えて』2016年
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B1%B1-%E5%BA%B8%E7%94%B7_000000000662307/item_%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%9A%84%E8%A6%96%E7%82%B9%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6_6944534
村瀬裕也『安藤昌益の平和思想』2008年
安永寿延編著『写真集 人間安藤昌益』1986年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784540860645
石渡博明著『安藤昌益の世界―独創的思想はいかに生れたか』
2007年
https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E2%80%95%E7%8B%AC%E5%89%B5%E7%9A%84%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B-%E7%9F%B3%E6%B8%A1-%E5%8D%9A%E6%98%8E/dp/4794216130#productDescription_secondary_view_div_1627353541730
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私の読んだ限りでは、この石渡氏の著作が安藤昌益とその思想を広くおさえており、入門書としては最適だと思われます。
寺尾五郎・いいだもも・石渡博明編著『甦る!安藤昌益』1988年
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=335751481
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この本の寺尾五郎氏が著した「安藤昌益の思想」は昌益の思想と哲学を知る上で大変参考になりますが、寺尾五郎氏は熱い昌益=コミュニスト論者なのでそこは注意されたい。
※文中にも書きましたが、この憲さんの安藤昌益に対する論評は数冊の安藤昌益に関する書籍を読んだだけの憲さんの感想であり、全く原典には当たっていません。
なので、研究者の専門的な説を批判、否定する意図はありませんのでご了解ください。
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