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2021年07月26日07:50

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内田樹先生!『それを言っちゃ、おしまいよ〜!』 憲さんはまだ諦めてはいない!

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※画像は内田樹氏

「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」

最近の東京新聞のキーワードである。

この出典は『論語』泰伯編である。本来は「人民を従わせることはできるが、なぜ従わねばならないのか、その理由をわからせることはむずかしい」という意味である。
しかし、江戸時代には法律を出した理由など人民に教える必要はない。一方的に法律(施政方針)を守らせればよいという意味に解されてこれが封建制の政治の原理の一つとなった。

参考

【『論語』泰伯編】
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo008.html

1981年10月2日の中日新聞(東京新聞の親会社)の社説にはこの言葉が使われたそうだ。

88年の夏季五輪の名古屋招致に失敗した時の社説である。

東京五輪開幕翌日の24日の東京新聞社説にはその事に触れている。

その部分を引用する。

以下、引用。

◆万事知らしむべからず

 環境面などから反対運動も出ていたが、政治の思惑を先行させる当局に取り合う余地はない。「何のための五輪か」。まともな理念はなく、説明もない。市民は徐々に冷めていきました。
 市民が五輪に燃えないのは「理念がはっきりしないから」と考えた自治体はある日、東西の文化人を集め「理念を語る会」を開きました。だがこれも「市民自身が決めること」と一蹴され、市民不在への批判が沸騰したそうです。
 「一事が万事これ式で『よらしむべし、知らしむべからず』ではたまらない」。社説は招致後の社会分断をも見通し、民主的な招致プロセスを求め続けました。
 そして得た教訓が「民主主義の原点を忘れた思い上がりの運動は結局成功しない」のだと。これが名古屋落選の一因であり、社説の真意でもありました。
 さて、あれから四十年後の今に刺すこの成句。「民は由(よ)らしむべし知らしむべからず」とは−。
 「論語」の原意から転用した徳川家康の解釈は「為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民に分からせる必要はない」とされます。いわば封建時代の政治原理が、今日再び東京五輪にも重なります。
 開催都市・東京でコロナ禍の感染がまさにピークを突く中、迎えた開会式でした。会場に「民」の姿はない。直前でも「五輪で感染拡大」を不安視する国民が九割近く。何もかもが異常です。
 なのに大会当局は一貫して中止論議を封じ、まず開催ありきで突き進む。「何のための五輪か」。納得いく説明はありません。

以上、引用おわり。

参考

<東京新聞社説>五輪開幕に考える 「民」はどこへ行った
https://www.tokyo-np.co.jp/article/118909?rct=editorial

とうとう、オリンピックが実質上始まった。

本当にウザイ。

報道はオリンピック一色に染まり、作られた「感動」を押し付けてくる。

また、憲さんの現在の通勤ルートである外環道も渋滞を起こしている。

まさに、「迷惑イベント」に他なるまい。

参考

「『外環の渋滞エグい』 首都高きょうから1000円上乗せ 交通流れたか」
https://trafficnews.jp/post/109093

これに対し、宇都宮弁護士などの呼び掛けに続いて、先日上野千鶴子さんや 哲学者の内田樹(たつる)さんらが、やはりオリンピック中止を求める署名活動を行った。

参考

「東京五輪の開催強行『最後の最後まで反対』上野千鶴子さんら署名13万9576筆提出 」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/117801

学者の人たちも頑張っているのだな〜と思って心強いと感心していたら、その署名の呼びかけ人の一人である内田樹さんが20日の東京新聞夕刊に論考を寄稿していた。

余談だが、東京新聞はこの間論説や社会面とスポーツ面の論調がチグハグで違う新聞を読んでいるようだ。

(´艸`)くすくす

この、東京新聞の夕刊も五輪開催直前に「二分の五輪」という三人の識者の論考を掲載した。

まさに、タイムリーな企画である。

「五輪によって民意が『二分』された」という意味であろう。

19日が「緊急事態下の五輪 半世紀前のミュンヘン、そして東京 『史上最大の悲劇』再来か」と題して憲法学者の水島朝穂さん。

21日が「凝縮された日本の難点 開催で『空気』一変 今だからこそ反対する」と題して近現代史研究者の辻田真佐憲さん。

どちらも納得のいく論考であった。

そして、真ん中の20日が「日本人の公人無謬説 間違いとわかっても多数派に 統治も者目線潜む国民性」と題して、思想家の内田樹さんだった。

参考

【内田樹】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9

内田さん以外の二人の論考は憲さん、大変共感をもって読んだのだが、内田さんの論考には大変違和感を覚えた。

それは、その題からも想像できるであろう。

簡単に言うと「日本人は『公人無謬説』を信じており、その政策が『間違いだとわかっていても多数派に』なり、そのような『統治者目線』が日本の国民性に潜んでいる」のだと言いたいそうである。

(´Д`)=*ハァ〜

こんなこと言ったら「身も蓋もない」でしょうに。

それも、五輪反対を呼び掛けた当事者として!

念のため全文再録する。

以下

「日本の公人無謬説 間違いとわかっても多数派に 統治者目線潜む国民性」

内田樹

 五輪の中止を求めてずっと発言してきている。所詮「蟷螂の斧」ではあるとは思うが、感染収束の見通しが立たない中で、 世界から人を集めて巨大なスポーツイベントを開催するべく奔走している人々に対して「あなたたちは、どう考えても正気ではない」と訴え続けた市民がいたことの証拠を後世の史家のためにも残しておきたい。しかし、「私は反対だった」だけでは足りない。後世の史家が「いったいどうしてこんなことを当時の日本人は座視したのか?」と疑問に思った時に、その手がかりになるような証言でなければ学術的な生産性がない。

 なぜ私たちはこの「愚挙」を止めることができなかったのかこれに対しては「空気のせい」というのが私の答えである。おそらく五輪後にインタビューしたら、多くの五輪関係者は個人的には2021年夏の五輪開催は無理だと思っていたが、とても反対できる空気ではなかった」と証言してくれるだろう。

 「個人的には反対だったが、とても反対できる空気ではなかった」というのは、東京裁判の戦犯たちが採用した弁疏(べんそ)である。小磯國昭元首相は、自分は個人的には三国同盟にも日米開戦にも反対だったと言って検察官を驚かせた。それならなぜあなたはあなたが反対する政策を強行する戦争指導において累進を遂げたのかと検察官に問われた小磯は「自分の意見は意見として、一旦決まったことは、これに従って粛々と実施していくのがわが国の美風である」と答えた同じ言い訳をこのあと五輪関係者も繰り返すはずである。「あの時私が『中止』を主張したら、ポストを去ることになっただろう。だが、途中で任務を放棄するのはあまりに無責任である。それよりは与えられた責務を全うして、わずかなチャンスしかない五輪成功のために全力を尽くすべきだと考えたのだ」と。必ずそう言う。

 わが国では「一旦決まったこと」はそれから後にそれが間違いであることがわかっても「粛々として実施する」のが美風である。それは「公人無謬説」が統治上有効であると政治家も官僚も信じているからである。

 「われわれがうっかり間違いを認めたら、国民はパニックになる。パニックによる被害の方が間違った政策を実施することがもたらす被害よりも大きい」というのが無謬説の論拠である。感染リスクを開示したらパニックになる、ワクチン不足を明らかにしたらパニックになる、政府の無策が知られるとパニックになる….だから、「すぐに逆上して前後不覚になる無思慮な国民にはできるだけ真実を開示しない方がいい」と「無謬説」を掲げる人たちは考えている。「国民は耐えがたい現実を前にすると混乱して、高い確率で間違った判断をする」というのがその前提である。そして、困ったことにこれは部分的には真理なのである。

 政府が「安心・安全」を呪文のように唱え続けているのは、その二つが実は同じことだと思っているからである。どれほどのリスクのある計画でも、「まったく問題ありません」と保証してやれば、国民は信じて平穏に暮らす。その方が問題点を開示して要らぬ不安を醸成するよりも結果的には「よいこと」だと多くの人々は考えている。

 日本人が個人として少数意見を述べることを忌避し、間違いとわかっていても、多数につくのは「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」という統治者目線の技術知を国民自身が深く内面化しているからである。
(うちだ・たつる思想家、神戸女学院大名誉教授)

以上

小磯國昭のエピソードは知らなかった。

しかし、

「国民は耐えがたい現実を前にすると混乱して、高い確率で間違った判断をする」というのがその前提である。そして、困ったことにこれは部分的には真理なのである。」

というのは何をもってそう言っているのであろうか?

関東大震災の朝鮮人暴動デマによる殺害事件か?

参考

憲さん随筆
「九月、東京の路上で−私たち日本人は百年前何をしたのか?」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-5d7945.html

そして、この論考にも出てくるあの言葉。

日本人が個人として少数意見を述べることを忌避し、間違いとわかっていても、多数につくのは「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」という統治者目線の技術知を国民自身が深く内面化しているからである。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

日本の被統治者(統治される私たち人民)が「統治者目線の技術知、すなわち「為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民に分からせる必要はない」ということを国民(私たち人民)自身が深く内面化しているからなのか?

確かにそのような意見もあるだろう。

しかし、内田さんが「それを言っちゃ〜、おしまい」よ。

まさに、「身も蓋もない」ではないか!

なぜ、五輪直前に内田さんがこのような論考を新聞に掲載したのであろうか?

それは、深い諦念からなのか?

謎だ!

しかし、憲さんはまだ諦めてはいない。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

でも「身も蓋もない」と言っていること自体「同じ穴の狢」か!?

参考

【身も蓋もない】
https://eigobu.jp/magazine/mimofutamonai

(´Д`)=*ハァ〜

どーよっ!

どーなのよっ?

※東京新聞夕刊の論説は秀逸なものが多いのだが、ネットニュースにならないのがほとんどなんだよな〜!
もっと ネットにも載せてもらいたいものだ。
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