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2021年07月18日05:05

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日本五千年の新しい悠久の物語=「縄文の神話世界」へのアプローチ 竹倉史人著『土偶を読む』

フォト


※画像は本著に掲載された「遮光器土偶」(一部加工)

憲さん、卒業はしていないが大学に通って幾つかの授業は受けた。

この中に一般教養で「人類学」の授業を受けた記憶がある。

人類学というと大変間口の広い学問であり、人類に関しての総合的な学問である。

生物学的特性について研究対象とする学問分野を形質人類学もしくは自然人類学と呼び、言語や社会的慣習など文化的側面について研究する学問分野を文化人類学もしくは社会人類学と呼ぶそうである。

参考

【人類学】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6

憲さんが受けた授業は「自然人類学」だった。

参考

【自然人類学】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6

自然人類学とは人類学の一分野であり、 人類やチンパンジーやゴリラなどヒト科の共通祖先からどのように現生人類が進化してきたのかを解明する学問である。主に発掘された霊長類や人類の化石を対象に、その形態を分析し、骨や歯の形態からその古人類の運動様式・食性・生殖・生活環境・社会構造などを明らかにする。

なので、生物としてのヒトの研究を目的とする自然人類学は、化石人類の研究による人類の進化の部分で考古学と密接に関連する。

のだそうだ・・・。

当時の憲さんにとっては「自然人類学」と「考古学」の区別はつかなかった・・・。

結論から言うと憲さん、この学問に全く興味を持てなかった。

なので、テストでは及第点がとれず落第し、結果別の課題の授業を受け直した記憶がある。

何故か?

憲さん、結構歴史が好きでその分野でも随筆を書いている。

しかし、そのほとんどは江戸時代以降の歴史についてである。

何故かというとそれ以前の歴史には当事者の気持ちになること、すなわち「感情移入」ができないからである。

例えば、大化の改新を断行した中大兄皇子と中臣鎌足に対して憲さん何の感情移入も出来ない。

(´Д`)=*ハァ〜そうですか。

「人を暗殺までして、大変でしたね。」

と言うだけである。

参考

【大化の改新】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0

平安時代、摂関政治の全盛期に、その頂点にいた藤原道長が、娘を次々に天皇の后として権勢をふるって、

「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」

と歌ったそうであるが、これもだいぶ前の時代のことなので、憲さんこれまた

(´Д`)=*ハァ〜そうですか。

「そんなに権勢を振るったのを自慢したいのですか・・・」

と、言うだけである。

参考

読売新聞コラム
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210628-OYT8T50054/

「歴史」とは本来「人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実、またそれらの事実に関する調査と記述」なのでザックリ言うと「言葉や文字で記述された諸現象」ということが言える。

参考

【歴史】
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%B4%E5%8F%B2-151494

しかし、憲さんはその「記述された諸現象」であっても、古い事象にはまったく想像力が及ばず感情移入が出来ないのであるから、いわんや言葉や文字で書かれることのなかった「諸現象」すなわち「霊長類や人類の化石を対象に、その形態を分析し、骨や歯の形態からその古人類の運動様式・食性・生殖・生活環境・社会構造などを明らかにする」ことなどにまったく興味が持つことができなかったのである。
まさに、

(´Д`)=*ハァ〜そうですか。

である。

しか〜しっ、憲さんのその認識を覆す歴史的研究成果が発表された!

これまた、東京新聞の書評欄に、出ていた本である。

竹倉史人著『土偶を読む』である。

参考

東京新聞書評(いとうせいこう氏)
「土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎 竹倉史人著」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/108811

話は横道にそれるが、憲さんが誰が読むとも知れないこのような随筆を一生懸命書き綴り、ブログにアップしているのは、一つは自身の備忘録としてである。

憲さん、知ってるとは思うがこう見えても結構頭が悪く、さらに興味の範囲が結構広いので色々と知見したことを書き留めておかないと健忘してしまうのだ。

なので、将来の自分への備忘録として書いている。

そして、もう一つは未来への人類へのメッセージとしてである。

これだけITが発達した現在であれば、憲さんのこのブログも憲さんの身体が滅んだ後にも残るであろう事が期待できる。

そして、更なる人工知能と検索技術の発達により憲さんのこの随筆が憲さんの死後に大発見されることになるであろう。

すると、この憲さん随筆は人類の「記憶遺産」として後生に永遠に残ることになるのだ。

21世紀の日本の葛西にはこんな偉大な「思想家」がいたのだ!

と。

そのために、憲さんは寸暇を惜しみ一生懸命書いているのである。

大袈裟に言えば、憲さんの「未来の人類へのメッセージ」なのである。

このように、人間には「自分はどのようなことを考え、思い、生きてきたのか。」ということを未来に残したいという本質的欲求があるはずだと憲さんは確信している。

それは、縄文人においても然りである。

その、言葉や文字を持たない縄文人の過去からのメッセージを読み解いたのが、この著者であった。

この方、憲さんの苦手な人類学の先生である。

憲さんより若い1976年生まれである。

美大の映像学科を中退し、東大で宗教学、東工大で社会理工学を修めた人類学者だそうである。

その、学問遍歴も異色である。

参考

【竹倉史人】
https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E7%AB%B9%E5%80%89%20%E5%8F%B2%E4%BA%BA#:~:text=%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%8F%E3%82%89%E3%83%BB%E3%81%B5%E3%81%BF%E3%81%A8%20%E4%BA%BA%E9%A1%9E,%E5%AD%A6%E3%83%BB%E5%AE%97%E6%95%99%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E7%A7%91%E5%8D%92%E6%A5%AD%E3%80%82

では、縄文人がメッセージを込めた媒体とは何なのか?

それが土偶である。

本随筆添付の画像をご覧いただきたい。

これは、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡で発掘された、いわゆる『遮光器土偶』である。

なんともインパクトのある奇妙な容姿である。

しかしこの縄文人が作った土偶、目に遮光器をつけている人をかたどったものであるとされて、発見されてからずっとこの名前で呼ばれているのであるが、実は縄文人は「遮光器を着けた人形(ヒトガタ)」としてのメッセージを発していたわけではなかったのだ。

以下、本書引用

 昭和期以降の日本考古学が禁欲的なまでに土偶の「見た目の類似」について言及を控えるよ うになったのも、まさにこの可謬性のリスクを回避するためであった。じつは土偶研究の歴史 には大きなトラウマ体験がある。その代表的なものが「遮光器土偶」をめぐる顛末である。東北地方北部で多く見つかる土偶がこの奇妙な名称で呼ばれるようになったのは、その眼部の造形が、北方民族が雪原で着用するゴーグル、すなわち「遮光器」に似ていたことがきっかけであった。
 この説を提起した日本人類学の父・坪井正五郎は、両者の「見た目の類似」に注目し、この系列の土偶の眼部は「遮光器」をかたどったものであると主張した(そしてこの説は世間にかなり広まった)。しかし、その後の研究によってこの説は否定されるようになり、今日では「遮光器土偶」 という名称が残存しているだけで、坪井の遮光器説を支持する研究者は皆無といってよい。つ まり、両者の見た目はたしかに似ていたが、それはたんなる偶然に過ぎなかったというのが現在の結論なのである。
 この坪井の遮光器説のエピソードは、イコノロジーという研究手法がいかに危険なものであ るかを示す典型的な事例といえるだろう。 実証主義を標榜する昭和期以降の考古研究者たちが、 明治期から大正期にかけてはむしろ主流であった土偶のイコノロジー研究を封印するようになったのも当然の帰結であった。

以上、引用終わり。

このようにこの土偶を発掘した「考古学」の分野ではこれが縄文人が何を表現したものかは長い間謎に包まれていたのである。

なので「遮光器土偶」という名称も便宜的につけた名称にすぎなかったのである。

しかし、それを「人類学」のアプローチで再度正確な「イコノロジー」すなわち図像解釈学で解明してくれたのがこの著者であった。

参考

【イコノロジー】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC

結論的にこの「遮光器土偶」が何を表現しているかは添付の画像をよく見てもらうとわかると思う。

このように、著者は主要な土偶についてほぼ全てイコノロジーを駆使してプロファイリングして、自身で「私は今回の土偶解読のプロジェクトによって、主要な土偶のモチーフは学術的に解明されたと結論付けたい。」と高らかに勝利宣言を発出している。

普通、学者の研究は「論文」という形で発表され、一般人にはわからない用語が散りばめられ、味も素っ気もない文章となっているのが常であるが、この本は学術論文ではない。

憲さんにとっては、あたかも良質な謎解きの推理小説を読み進むような感覚で、あっという間に300ページを越える大部を読み終えてしまった。

結論から言うと、憲さんもこの先生の説を支持する!

憲さん学者でも専門家でもないから、憲さんに支持されても何の力もないだろうが、本著は圧倒的な説得力がある。

学者、そして学問とはこういうものであると見せつけられた思いだ。

その謎解きは是非読んで、皆さんも憲さんと同じようなスリリングな読書を味わってほしい。

読む価値のある一冊である。

一つ憲さんの印象に残った土偶がある。

それは、第5章でプロファイリングされた星形土偶(著者命名)である。

こちら

【みみずく土偶】
https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00007417.htm

これは、千葉県の銚子市の余山貝塚から出土したものである。

参考

【余山貝塚】
http://www.choshi-geopark.jp/geosite/09/index.html

この土偶従来は「みみずく土偶」の一種に分類されるが、全然みみずくではない。上から見ると頭部が平らに星形になっているので著者が便宜的に「星形土偶」と命名している。

結論から言うとこの土偶、オオツタノハという貝をモチーフにデザインされているのだ。

オオツタノハとはこちらである。

【オオツタノハ】
https://shop.aquarium.co.jp/product/22544/

実はこの貝は縄文時代当時から銚子市近辺では採れない貝なのである。

では、何故ここの土偶にオオツタノハがモチーフとなっているのか?

それは、オオツタノハは他の貝種と比べても、偉容が卓越していてそれは当時の装飾品の貝輪に加工されていたのだ。そしてその貝輪はシャーマンなどの特別な女性だけが身に着けることのできる極めて高価なものだったようである。

そして、このオオツタノハは三宅島や御蔵島などの伊豆諸島南部で採集され、その後いったん伊豆大島の下高洞遺跡へと集められて一次加工(殻の中心に孔を開ける)が行われてから房総半島に持ち込まれたらしいのだ。つまり、房総のいくつかの集落が交易の中継地点となり、そこから各地へ貝輪が流通していったわけである。

そして、この余山貝塚付近はこの貝輪を二次加工する縄文の貝輪製作職人たちが居住する集落だったのである。

ビックリした!

縄文時代にも、そのような製品の加工、流通ルートがあったようなのだ!

これは、憲さんはじめて触れる知見であった。

こうなると俄然縄文人に親近感がわく。

縄文人にも、憲さんと同じ「職人」がいたのだ!

これは読んでいて大いに興奮した。

しかし、この星形土偶は遮光器土偶に比べるといかんせん地味である。

(´Д`)=*ハァ〜

話を戻そう。

この、著者の学者としての姿勢を端的に表す箇所があった。

それは、縄文時代にも農耕文化があったことを主張する考古学者藤森栄一を紹介しているところである。

参考

【藤森栄一】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%A3%AE%E6%A0%84%E4%B8%80

そこにはこう書かれている。

以下、本書引用。

 その藤森の言葉に以下のようなものがある 。

 栽培植物が検出されない以上、縄文農耕は認められないこと自明の理だという考古学者もいる。植物学者がいうならとにかく、これを考古学者がいうにいたっては論外である。考古学こそは、地下から掘り出した物質遺物の様相を組み立てて、その文化相を復原する学問なのである。有機性の食品がかりになくとも、むろん出てくれればそれにこしたことはないだろうが、文化構造の構成が、それを考えるより理解つかないという方が、いうまでもなく本道なのである。

 ここに私は藤森の考古学者としての矜持と人文学者としての揺るぎない姿勢を感じ取り、深 い共感を寄せるものである。 「遺物が出ないから無い」というのでは、それは学問の、想像力の、ひいては人間の敗北である。 実証精神は学問の基礎であるが、だからといって可謬性のリスクを恐れて実証主義に媚びるのならば、遠からず人文学など無用の長物となるであろう。 だから逆に言えば、モチーフたるサトイモが検出されていない遮光器土偶の解読こそが、学問の醍醐味を余すことなく体現した事例だと私は考えている。

以上、引用終わり。

後半は自画自讃だが、前半は考古学、特に「昭和期以降の日本考古学が禁欲的なまでに土偶の『見た目の類似』について言及を控えるようになった」という学問的態度を痛烈に、それも「人間の敗北」という言葉まで用いて批判しているのだ。

それこそ、この著者の人文学者としての「矜持」であろう。

天晴(あっぱ)れである。

その学問的要請と謎の解明のために、著者は「縄文脳インストール作戦」という感性的アプローチを駆使し、(イコノロジー✕考古学)というクロスジャンルという「異種交配の方法論」により謎の解明に至ったのだ。

この、著者このようにタコツボ的思考に没入してしまう、特に考古学に対して痛烈な批判をしている。

それは、「土偶が体現する“全体性”と現代の知性の危機」という項目に「雑感」として書かれている。

ここは痛烈かつ痛快な批判なので長いが引用する。

ちなみに文中に出てくる「椎塚土偶」とはこれである。

【椎塚土偶】
https://www.flickr.com/photos/omolocom/26333192473

以下、本著引用。

 土偶研究を通じ、現代の学問が抱えている問題点についても感じるところが多かった。雑感 としてここに記しておく。
 私は土偶解読と並行して国立国会図書館に通い、これまでに自分と同じような説を唱えた人 がいないか過去の文献をチェックするということをした。明治期以降に書かれたほぼすべての 土偶関連の論考に目を通したが、そのような人は一人も見当たらなかった。
 しかし、これはよく考えてみると、とても奇妙なことであった。たとえば椎塚土偶。ハマグ りの形にあれだけそっくりな頭部を持つ土偶が、大量のハマグリが堆積する遺跡から見つかっ ているのである。 誰か一人くらい「あれ?これってハマグリに似てない?」という人がいてもよさそうなものではないか。
 椎塚土偶が本当にハマグリをかたどっているかどうかは、究極的にはタイムマシンに乗って製作者本人に確認するしかないので脇に置いておくとして、誰にも疑いようのない客観的な事 実として、椎塚土偶の頭部とハマグリの形態は物理的に近接している。だから、やはり誰か一 人くらいはその事実に(仮に冗談半分の軽口だったとしても)言及していてもおかしくないのだが、そのような論考は椎塚土偶が発見されてからじつに100年以上の歳月が流れているのについぞ見当たらなかった。これはむしろ異常なことではないか?
 私はここに近代社会を牽引してきたモダニティ精神の限界とその歪さを感じ取らざるを得な い。学問の縦割り化とタコツボ化、そして感性の抑圧、女性性の排除。新しい時代へ向けて社会に変化が生まれつつある一方で、官僚化したアカデミズムによる「知性の矮小化」はいまだ進行中なのではないかと私は感じている。そして、その対極にあり続けたものの象徴が縄文土偶だったのではないかとも。
 これまで男性たちによって独占的に形成されてきた「職業としての学問」では土偶の謎は解 けなかった。これは鋼鉄をも斬り裂く石川五ェ門(「ルパン三世」)の斬鉄剣が「こんにゃく」は斬れなかったというエピソードを想起させる(ちなみに彼の苦手なものは「女性」である)。とまれ、職業として分業化された「細切れの知性」では、土偶が体現する"全体性"にはアクセスできなかったのである。
 この"全体性"は身体性と精神性を統合する生命の摂理そのものであり、この地球上でわれわれ人間が環境世界と調和して生きるために不可欠なものである。土偶を生み出した縄文人た ちが数々の自然災害や気候変動を生き抜いてきたことを思えば、それは"滅びの道"を回避する実践的な知恵の象徴でもある。われわれがこの "全体性"にアクセスできないとすれば、そ れはわれわれの知性が劣化し、危機に瀕していることを意味する。
 その最大の原因は、近代になって、われわれが自らを「脱魔術化」した存在であると考える ようになった点にある。これはまったくの誤認である。われわれは気づいていないだけで、わ れわれは縄文人たちが呪術的であるのと同じくらい呪術的存在である。そして依然として、わ れわれは神話的世界を生きている。
 また、人間の知性の特性は演繹や帰納にあるのでもない。われわれの現実世界を構成し、意 味世界を生成させ、あらゆる精神活動の基盤をなすものはアナロジーである。演繹や帰納は数 学的理性や科学技術を駆動させ、物質世界を制御する力を高めてくれるが、人間存在にとって最も重要な生命への“共感力”を高めるものではない。アナロジーを欠いた思考は全体を全体のままに捉えることができず、世界の細部に生命の本質たる“神”が宿っていることを理解できない。
 昭和以降の実証主義を標榜する考古研究の世界では、椎塚土偶を見て 「ハマグリに似てるね」などと口にしようものなら、これを幼稚で馬鹿げた非学問的態度だとする父権的な空気が支配してきたのであろう。しかしこれでは皮相的な「縄文人不在の縄文研究」が量産されるだけである。実際、一世紀以上にわたって、縄文土偶は男性たちの視線、すなわち“かたち”を軽視する思弁的な視線や、生命への共感力を欠いた視線に対し、一貫して自己の開示を拒み続けてきたのである。

以上、引用終わり。

著書は縄文時代の土偶が、植物及び貝類(つまり縄文人にとっての重要な食物)をかたどったフィギュアであるという結論を導きだした。
縄文人は大切な収穫物の姿に、手足を付けて人間化した。
これは、現在我々がこの日本でで日々目撃している「ゆるキャラ」と全く同じ思考、同じ感覚であるというのである。縄文人の時代と現在の我々の感覚は全く変わっていなかったのだ。

この事を、この著書は学問的裏付けをもって、そしてそれが解明出来なかった「タコツボ的学問」に陥った考古学に対して極めて挑発的に批判しているのだ。

この著書が言うにはこの新説に対して考古学側の反応は芳しくないようである。

この説に対して考古学側がどう対応するかが見ものである。

憲さんも高校の工芸の授業で「土偶モドキ」を作成したことがある。

「小便小僧」を模した急須である。今も実家の浴室に飾ってある。
あれを作成するとき、若かりし憲さんは目を輝かせて鼻息荒く作ったのを覚えている。

「これは、すごい!俺って天才?」

数千年前の縄文時代、言葉や文字はないが、遮光器土偶を作った縄文人はやはり鼻息荒く脳内に大量のドーパミンを発生させて!

「俺って天才!」と心で叫んでいたに違いない。

そうなると、縄文人が自然と身近に感じられてきた。

この著書の研究、気の遠くなるような作業であったろう。

特に「縄文脳インストール作戦」を駆使し、縄文人に身も心もなりきる作業は滑稽でもあり、また大変であっただろう。

それを裏方でサポートした池上助手への言及は所々に散見され、愛情に溢れている。

まさに、シャーロックホームズの助手?ワトソン君的存在なのであろう。

参考

【ジョン・H・ワトスン】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%B3

「おわりに」の著者の彼に対する謝辞を読んで「ウルッ」ときてしまった。

このような著作が世に問われるのであれば、日本の人文科学もまだまだ捨てたものではないであろう。

著者はこれを皮切りに「土偶解読から縄文人の精神世界の一部を復元する作業に着手している。」そうだ。著者は土偶研究を経て、再び日本文化の最深部に位置する「縄文の神話世界」へアプローチする切符を手にしたと高らかに宣言している。

その、成果が待ち遠しい。

是非とも復元してもらいたい。

最後に、本著の著者の格調高くも力強い言葉でこの随筆も締めくくりたいと思う。

以下、本著引用。

 土偶解読から縄文人の精神文化が見えてくれば、縄文時代はさらに確実に「歴史」の一部として承認されることになるだろう。こうした作業が進めば、現在二千年弱しかない「日本史」が延長され、「中国四千年の歴史」ならぬ「日本五千年の歴史」といった新たな歴史感覚も生まれてくるかもしれない。もちろんこれは民族や国家とは無関係の、つまり「国威の発揚」といった話ではなく、この美しい森や海への愛と、そこに力強く生きた先祖たちへの尊敬の念によって語られる新しい悠久の物語である。

以上、引用終わり。

土偶、最高\(~o~)/

縄文人、最高\(~o~)/

どーよっ!

どーなのよっ?
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