mixiユーザー(id:4535387)

2021年05月16日12:34

48 view

日本を破壊した「水戸学」の源流 会沢正志斎の民衆蔑視

フォト


※画像は会沢正志斎。意地悪そうなジジイである。

私の好きな俳優に、先年亡くなられた地井武男さんがいる。

彼の出た映画で好きな作品は、「寅さん」シリーズ第28作『男はつらいよ 寅次郎紙風船』である。

参考

【寅次郎紙風船】
https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie/28/

この時、サブマドンナの岸本加代子さんのお兄さん役で出ていて、気は荒いが心優しい漁師役で出演している。

この地井武男さんの出身地が千葉県旧八日市場市(現匝瑳市)である。

その地井さんを偲んで、八日市場駅の近くに“地井武男ふれあい記念館(ちいちい茶屋)”が亡くなった直後期間限定で開設されており、憲さんも伺ったことがある。

参考

【ちいちい茶屋】
https://gamp.ameblo.jp/tomatsuri-k/entry-12181949713.html

小さい「記念館」だったが、地井さんの写真などが飾られその人柄が偲ばれたが、いまは閉館してしまった。

その、“ちいちい茶屋”に伺った際にもうひとつ、八日市場にある史跡に足を運んだ。

それが「脱走塚」である。

これは、知る人ぞ知る史跡でまさにB級ならぬ、C級以下のマイナーな史跡である。

それが、これである。

【脱走塚】
https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/5990

少し道路より高くなった土地の中に史跡の標示板と石碑があるだけである。

この「脱走塚」簡単に言うと、幕末期において水戸藩の佐幕派の諸生党が水戸から下総の八日市場方面に逃げてきて、倒幕派の天狗党と血みどろの殺し合い=内ゲバを展開した場所である。

憲さん歴史マニアかつ、房総のマイナースポットマニアなので行ってみたが、普通の人はおそらく興味を示さないスポットに違いない。

そしてその戦争の結果は、佐幕派の諸生党が惨敗。25名が首を跳ねられて無残に殺されている。

この塚はその戦死者を当地の人が哀れんで埋葬した合葬墓である。

それにしても、八日市場の人々にとっては迷惑な話である。

この、水戸藩の内ゲバの戦いをその土地の名前から「松山戦争」という。

その戦争の概要はこちらを参照されたい。

参考

【松山戦争】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

そして、この中に書かれているがこの戦争で勝った「天狗党」は戦争終結後このような行動をとっている。

以下、引用。

天狗党は翌7日から9日にかけて八日市場近隣の村々に押入って金品を強奪し、各村の名主・組頭を縛り上げて拉致し身代金550両を奪取した上、銚子など周辺の町を次々と襲撃して略奪を繰り返した後、水戸へと戻っていった。飯高寺の『向城庵記憶帳』は、この時の有様を「辰年十月中旬、水戸藩士天狗共国元にて戦争の上〜八日市・佐原・銚子・東金などの町家へ乱荒し必死難渋の沙汰」と記している。

極めて悪辣な徒党である。

それも、この戦争の時は彼らはいわゆる「官軍」であり、新政府軍として戦っているのである。

その新政府軍の実態がこれである。

では、水戸天狗党とはどういう徒党なのか?

よく、言われるのは「水戸天狗党の乱」である。
これは、1864年に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱であり、酷い結末を迎えている。

この事件も大変残虐な事件である。

詳しくはこちら

参考

【天狗党の乱】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%85%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1

これは、水戸藩の激派(尊皇攘夷派)である天狗党が、武田耕雲斎や藤田小四郎などを首魁にして、1864年に筑波山で挙兵してからの一連の争乱である。

この、争乱の結果も「幕府に反旗を翻した」として、福井の敦賀で降伏して捕らえられた天狗党員828名のうち、武田耕雲斎、藤田小四郎ら352名が処刑された。

これだけを切り取ってみると、尊皇攘夷派の幕末の悲劇とも受け取れるが、実は天狗党この行軍の過程でこんなことをしている。

以下、引用。

これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、筑波勢は攘夷を口実にしてまたも府中・筑波・柿岡など近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発し、少しでも抵抗すれば放火して殺害した。とりわけ田中愿蔵(げんぞう)により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木宿(栃木県栃木市、6月5日-6日)・真鍋宿(茨城県土浦市、6月21日)をはじめ、足利・桐生・大間々・結城などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。

中でも惨劇が展開されたのが栃木宿であった。6月5日、栃木宿に到着した田中らは、たまたま通りかかった町人らを殺害し、家々に押し入って町民を恫喝し金品を強奪した。駆け付けた栃木陣屋の役人が町人殺害の下手人を差し出すよう命じると、田中は賠償金として150両を支払ったが、なおも宿場内に居座り続けた。このため、陣屋側は急いで武器を調えるとともに近くの猟師達を召集し、町に対しては天狗党の強請に応じないよう命じた。同日夜、田中は町に対し軍資金30,000両を要求し、町側が5,000両しか出せないと答えると田中は宿場に火を放たせ、さらに火を消そうと集まって来た町民らを殺害した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失した。

以上、引用終わり。

参考

【田中愿蔵】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%84%BF%E8%94%B5

このように天狗党とはとんでもない連中なのである。

では、この「天狗党」に連なる「水戸学」とはどういう「学問」なのだろうか?

この、筑波山て挙兵して敦賀で処刑された天狗党の首魁に藤田小四郎がいる。

参考

【藤田小四郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B0%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E

この、藤田小四郎を排出した水戸の藤田家というのがまさに「水戸の狂気」を生み出した家系そのものなのである。

幕末からの日本の歴史を概観するにあたり、「水戸学」についての知識は忌々しいながらもなくてはならない。

憲さんから言わせると、この「水戸学」なる思想が日本をこのような知的に幼稚で凶暴で陰鬱たる国家にしたと言っても良いくらいなのである。

しかし、それ故に「水戸学」は現代から歴史を振り返る上でも避けて通れぬテーマなのである。

歴史的に言って日本でその土地の名称に「学」がつく学問は「水戸学」以外に見かけない。

たとえば、蘭学が盛んだった佐倉藩の学問を「佐倉学」とか、会津藩校の日新館での学びを「会津学」とは呼ばない。

しかし、水戸で生まれた学風は敢えて「水戸学」と今でも呼称され「一目おかれる」存在となっている。

しかし、この「水戸学」本当に「学問」の名に値する学問と言ったら決してそんなことはない、極めていかがわしい「学問」であり、「なんちゃって学問」と言ってもいいとんだ代物なのである。

その「なんちゃって学問」の系譜は水戸藩二代目、皆さんもお馴染みのあの「水戸黄門」まで遡るのである。

参考

【徳川光圀】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80

水戸黄門というと、水戸藩二代目で、「天下の副将軍」水戸光圀(徳川光圀)であることはほとんどの人は知っているくらい、テレビや映画で紹介されている。

しかし、あのとんでもなくワンパターンの何のヒネリもない勧善懲悪物語を史実と真に受けている人はほとんどいないであろう。

この、水戸光國は地元では「天下の副将軍」「義公」と言われて「水戸黄門神社」の祭神にまでなっているが、そもそも神社の神様に祭り上げられている実在の人物にロクな人間は数えるくらいしかいないのが実情である。

この水戸光圀、父親があの徳川家康の十一男徳川頼房であり、この頼房が初代水戸藩当主である。

光圀はこの頼房の三男として生まれた。
少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良(傾奇者、歌舞伎者、かぶき者)であり、派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもしたそうである。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。

このように、光圀は素より知性に乏しく粗暴な性格であった。
 
しかし、光圀16〜17歳のとき、傅役(扶養係)の小野言員(ときかず)が「小野言員諫草(いさめぐさ)(小野諫草)」を書いて自省を求めた。

参考

【小野言員】
https://blog.goo.ne.jp/goooid0/e/c93972af0ca63e23aa9d60f943837258

そしてなぜか知らないが、光圀18歳のとき、司馬遷の『史記』伯夷伝(はくいでん)を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなったそうだが、本気なのかはよくわからない。

参考

http://www.lib.ibaraki.ac.jp/news/kenshu/suzuki.html

しかしこの、光圀の粗暴で反知性的な「かぶき」具合は結局学問に目覚め、水戸の藩主になって老成してからも芯の根では変わらなかった。

まず、若い頃の話としては、知り合いの武士に寺の床下にいた非人の試し斬りをするよう、そそのかされると最初は断ったものの、断りきれず「光圀は床下に潜り込み、非人を捕まえて引きずり出そうとした。非人は『自分も命が惜しいのです。無慈悲なことはやめてください』と哀願した。すると光圀は『自分も無慈悲な振る舞いだとは思うが、仕方がない。前世の因縁だと思って諦めてくれ』と言い、非人を引き出して斬り捨てた」そうである。

天下の副将軍が聞いてあきれる「逸話」である。

こんな輩、まさしく「水戸黄門一行」にメタメタに成敗されてもおかしくあるまい! 

また、極めつけは藩主隠居後の藤井紋太夫(ふじい もんだゆう)刺殺事件である。

光圀の隠居後、元禄7年11月23日(1695年1月8日)、小石川水戸藩邸で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を光圀が刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。

現代のキレる凶暴老人そのままである。

参考

【藤井紋太夫】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%BE%B3%E6%98%AD

この、プッツン藩主の水戸光圀が晩年執心したのが「大日本史」の編纂であり、この「大日本史」が「エセ学問」の骨格的存在となる。特に天保期以降、第9代藩主徳川斉昭のもとで狂気じみた尊王攘夷思想を発展させ、「明治維新」の思想的原動力と言われている。

この、水戸光圀から始まる「前期水戸学」については、憲さんが以前「国体」に絡めて批判したので、こちらを参考にされたい。

参考

憲さん随筆アーカイブス
「貴乃花さん!『恭儉(きょうけん)己レヲ持シ』てますか? 相撲とナショナリズムを考える」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-7e49d4.html

今回問題とするのは、いわゆる「後期水戸学」である。

これは、狂気の藩主「烈公」こと徳川斉昭を狂気の元凶として、藤田小四郎の祖父藤田幽谷から相沢正志斎→藤田東湖→天狗党→桜田門外の変→吉田松陰→幕末の薩長のテロリスト→北一輝の影響を受けた「昭和維新」を掲げた大日本帝国陸軍、皇道派へと連なるのである。

この、後期水戸学を激しく突き動かした事件が先日憲さん随筆で紹介した大津浜事件である。

参考

「憲さんの歴史的大発見!江戸時代、日米安全保障条約は存在した!『安政の日米安保条約』!」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-a7a65d.html

もう一度おさらいしよう。

大津浜事件とは、1824年(文政7年)5月28日に水戸藩領の大津(北茨城市大津町)の浜にイギリス人12人が上陸し、水戸藩が尋問した後彼らを船に帰した事件である。こらは、1825年の異国船打払令の一因となった。

参考

【大津浜事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この大津浜事件に対する幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであり、まさに人道的対応であった。

しかし、このような幕府の及び腰に対して異を唱えたのが、藤田小四郎の祖父藤田幽谷であった。

幽谷は元は武家ではなかった。古着屋の伜(せがれ)であったが、水戸藩の藩政改革派の流れで斉昭の父・治紀の時代に藤田幽谷ら門地の低い人材を積極的に登用したことにより、武家として水戸藩に召し抱えられた。そして、郡奉行に任じられた幽谷ら新進・改革派は、農村の復興など藩政の刷新を実行しようとしたが、これは門閥・保守派の抵抗にあった。
これは、まさに幕末期における水戸藩内ゲバの伏線でもある。

そして、この藤田幽谷はこの大津浜事件での幕府の対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなったのだ。

ちなみに、藤田幽谷はこの大津浜事件を受けて息子の藤田東湖に対して「異人たちをすべて斬り殺してこい」という私的なテロの実行を命じたのだ。
これに対して東湖は父の教えに従い、異人の皆殺しを決意する。しかし東湖は、今生の別れにと父親の幽谷と酒を酌み交わしているうちに泥酔してしまい、東湖が大津浜に着いた時には、すでに捕鯨船は幕府から食料を得て退去していたというのだ。

いや、まさにそれが実行されていたらば、ペリーの来日を前に日本はイギリスの植民地になっていたに違いない。

藤田幽谷、東湖の親子はこのように狂気じみた親子であり、徳川斉昭はこのような人間から学び、藩政に登用していたのたから水戸藩が“内ゲバ”というテロに明け暮れ、最後は歴史の屑籠に棄てられてしまったというのも頷ける話である。

そして、この大津浜事件の翌年、藤田幽谷の弟子の会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。この「新論」こそ吉田松陰ををはじめ薩長の軽輩テロリストたちに多大な影響を与えた「学問」であったのだ。

今回は、その会沢正志斎にスポットライトを当てて論じたい。

この、会沢が著した『新論』ではじめて「國體」=「国体」という概念が発明されている。
なので、「国体」とはそれ自体古い概念ではないのだ。

この国体とは途切れることなく万世一系の皇統が続き、それ故日本は神州であり、万国に優越するものであって、世界に君臨し、世界の「元首」になるべきものなのだ。と論じられている。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

これは、どこかで聞いたことがあるフレーズだぞ?

そう、今からちょっと前の1945年まで日本で盛んに鼓吹された「大東亜共栄圏」構想に他なるまい!

あの、邪悪な思想の根元は何のことはないここからなのである。

そしてこの会沢の思想は、日本の国体は神道と政治が一体化した「祭政一致」であり、「億兆が心を一つにして統治者を親愛」(億兆一心皆上其上)せねばならないと論じている。

これは「学問」というよりは「信念」というか「妄想」の類いである。

しかし、これらが幕末の薩長軽輩の「バイブル」となるのであるから連中の知性もその程度に過ぎなかった。

しかし、その連中が権力を握った明治政府によって、その「国体」とやらは日本の「伝統」であるかのように語られ、国民に暴力的に強制されていくのである。

しかし、「国体」とは、幕末期になって会沢正志斎が思い付いた、歴史や伝統からはかけ離れた、全くもって新しい概念なのである。

儒学者である会沢は決して『古事記』の「天孫降臨神話」を真理とするような、無知蒙昧な戦前の皇国史観のような国学的自民族中心主義を信じていたわけではなく、むしろ国学の不合理性を批判する理性的な人物であったそうである。しかし、会沢は、西洋を強国たらしめているのはキリスト教の力であると考え、それに対抗するべく日本の国家統合を図るため、民衆の教化思想として神道を積極的に利用しようとしたそうなのだ。

すなわち、本人は「天孫降臨神話」などはなから信じてなどいないが、それらの非科学的なものを「方便」として利用しただけなのである。

これは、会沢自身の民衆蔑視思想から発しているのは言を待つまい。

会沢は「民衆など愚かなのだから無知蒙昧な神話を信じさせて洗脳するしかあるまい!」と考えたのである。

どんなに傲岸不遜な輩であったか!

しかし、実は無知蒙昧なのは会沢本人であった。

実際には会沢の見立てとは違い、西洋列強諸国の軍事的な精強さは、もはや信仰の力ではなく、ブルジョア市民革命を経て市民的権利を拡充する中で、「国民国家」としての一体化を確保したことによって成り立っていたのだ。
西洋が信仰の力で侵略戦争を行っていたのは16世紀の話で、近代西洋はすでにこの会沢の時代には別の歴史段階にあったのだ。

国家統合のための民衆教化の手段として、神道の力に依存しようという会沢の発想の根元には、西洋社会の誤った分析と共に、民衆への絶望的な不信感があったのである。神道を前面に押し立てなければ民衆など統治できまいと思い上がった会沢の思想そのものが、以降の日本の民衆を塗炭の苦るしみに追いやった元凶なのである。

この会沢の思想はまさに明治政府が強行した「王政復古」という前近代的な古代国家への回帰志向であり、日本の近代化の形を大きく歪める結果にしかならなかったのである。

以降の日本の歴史の不幸はこの会沢正志斎という一人の男の「狂気」と「策謀」から始まったと言っても過言ではないのだ!

そういう意味では、前回憲さん随筆で述べた「松平忠固」とは正反対の意味で歴史の俎上にのせ、断固として断罪せねばならないのである。

この、会沢正志斎の思想が水戸藩主「烈公」こと徳川斉昭の狂気と共鳴することにより、その後の日本の歴史の歯車は民衆にとって、坂道を転がる、否、崖から転落する方向へと転じていくのである。

この会沢から連なる藤田東湖→天狗党→桜田門外の変→吉田松陰→幕末の薩長のテロリスト→大日本帝国陸軍皇道派の「国体思想」はこれからも折に触れ憲さん、徹底的に批判していかなくてはならないと考えている。

それこそが、歴史から学び同じ過ちを繰り返さない現代を生きる者の使命ではないだろうか?

憲さんはそう考え使命に燃えている!

今日はこのぐらいにしておこう。

どーよっ!

どーなのよっ?

※参考文献
関良基著『日本を開国させた男、林忠固』

マイケル・ソントン著『水戸維新 近代日本はかくして創られた』

この本は神戸生まれのアメリカ人歴史学者が水戸の街おこしと相まって最近書かれた、「水戸学」を肯定的に書いた本ではあるが、さすがに全面的肯定はできないようである。

参考(書評)

https://blog.goo.ne.jp/demokyouto/e/1f09ba431ec33d568d817af0429ca06f

原田伊織著『明治維新という過ち』
これは、憲さんのバイブル本
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する