(続き)
では、日米修好通商条約はまったくもって対等であったかというとそれはそうではないらしい。
通貨問題は日本側は大きな失敗を喫している。
この問題は金貨と銀貨の交換比率が日本と海外で違い、日本では海外に比べ同じ銀貨の量で三倍もの金貨が手に入り、これにより日本の小判が海外に流出してしまった。
しかし、これもハリスが日本側を騙してそうさせたのではなく、ハリスの提案を蹴っての日本側の主張によるものであったらしい。
これについつは、当時の財務大臣であるところの松平忠固の判断ミスであったと忠固ファンの著者も認めている。
この通貨問題については、前述した万延遣米使節団に目付として随行した憲さんの大好きな小栗上野介忠順が、比率の改定までは至らなかった。
残念!
小栗やこれらの経緯についてはまた、改めて書こうと思う。
参考
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【小栗上野介忠順】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86
このように見ると、当時の江戸幕府とアメリカ総領事のハリスと結んだ日米修好通商条約は教科書が言うような「不平等条約」ではなかった事が理解できた。
では、なぜ後にこれらが「不平等条約」とされたのか?
それは、第一には前述したような薩長史観においての「幕府無能論」のプロパガンダの産物であるが、同時にこれらが後々実際に「不平等」とされていくのである。
その、要因が大英帝国と薩長なのである。
紙幅の関係で詳細は省くが、当時の大英帝国とアメリカにおいては海外進出のスタンスが違っていたのだ。
私たちは「欧米列強」とひとくくりにするが、当時の大英帝国は産業革命を経た露骨な「自由貿易帝国主義」であった。
参考
↓
【自由貿易帝国主義】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9
これに対してアメリカは確かに当初はペリーの砲艦外交による威圧的な対応であったが、日本にハリスを領事としておく過程で政権交代が起こり、大統領がホイッグ党のフィルモアから民主党のピアースに変わっている。
参考
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【アメリカホイッグ党】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%B0%E5%85%9A_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)
ハリスは1855年にこの大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。ピアース政権はハリスに対して、日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えているのだ。
ちなみに、ペリーはピアースの先代、ミラード・フィルモア大統領の親書を携えて来ている。
さらに、豆雑学だがペリーは当時カツラをかぶっていたようだ。
下田を散歩していたペリーが共同浴場があるというので見学したそうだ。
そして、正面入り口の暖簾を潜ろうとして頭を強打した。
そのショックでカツラが大幅にズレた。
日本人の案内役は 髪ごと頭皮がズレていると大層驚愕した。
そうである。
(´艸`)くすくす
参考
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https://gamp-ameblo-jp.cdn.ampproject.org/v/s/gamp.ameblo.jp/yuga4114/entry-12364656153.html?amp_js_v=a6&_gsa=1&usqp=mq331AQHKAFQArABIA%3D%3D#aoh=16193236918356&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s
おっと!話が大幅にそれた!
このように、当時のアメリカの外交姿勢はヨーロッパ諸国の勢力拡張、領土拡張の植民地支配に反対するモンロー主義の平和外交を展開しており、イギリスとは一線を画していたのだ。
アメリカ合衆国が次第に帝国主義化し、棍棒外交へと転換していくのはその後のルーズベルトが大統領になってからである。
参考
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【モンロー主義】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
【棍棒外交】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%8D%E6%A3%92%E5%A4%96%E4%BA%A4
なので、この「モンロー主義」を是とするハリスは、日本に対するイギリスの暴力的植民地支配を懸念して、イギリスに先駆けて日本との協定関税において世界的な標準の20%に設定したのである。
憲さん、ハリスは日本から混浴文化を駆逐した悪い奴とばかり思っていたが、開国時のアメリカ領事がアメリカのハリスであった故に日本はイギリスに侵略された清やインドのような植民地化を免れたのだと著者が言うのである。
参考
↓
「ハリスと日本の混浴文化」
https://ameblo.jp/atobeban/entry-12486751202.html
これは、日本の地理的要因も大きく関係するのであろう。
なので、著者はこうも言っている。「もっともインドと中国が侵略を受けるという犠牲のうえに、日本は時間的猶予を得ていたことも忘れてはならないだろう。」
もっともである。
しかるに、『學問のすゝめ』において、「しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。」と当時の中国にヘイトスピーチを浴びせた福澤諭吉はこの事についてどう考えているのであろうか?
聞いてみたいものである。
参考
↓
「憲さん随筆アーカイブス 福澤諭吉著作『學問のすゝめ』は読むに値するのか?」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-275d3a.html
ところで、日米修好通商条約は当初「不平等ではなかった」が、いつからそれらが不平等となったかであるが、それが日英通商修好条約からであるらしい。
イギリスはそう甘くなかった。
この条約ではイギリスのごり押しにより、綿製品と羊毛製品が税率5%とされてしまったのである。
これにより、日本の在来の綿織物産業が壊滅的打撃を被る。
まさに、自由貿易帝国主義の本領発揮である。
そして、決定的なのが文久3年1863年に起きた長州藩の攘夷決行による下関海峡無差別砲撃事件である。
これはまさに、狂気の沙汰であった。
この事件の結果、何ら損害の被っていないイギリスが被害国であるフランス、オランダ、アメリカの3か国を誘い、主導して下関戦争を開戦、長州藩は大敗した。しかし、長州藩は己れらが幕府に対して「攘夷決行」をムリクリ迫ったにも関わらず「砲撃は幕府の指示」とほっかむり。これにより幕府は多額の賠償金を支払うこととなり、さらに関税が清におけるアヘン戦争の敗戦条約である南京条約と同率の5%に引き下げられてしまったのである。
参考
↓
【下関戦争】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
これに対しても前述の幕臣小栗上野介忠順が交渉にあたり時間を大幅に稼いだが、何せ下関戦争での敗戦国、時間稼ぎはしたが力及ばなかった。
幕府の外交官は無能でも何でもなく、その英知を傾けて日本の将来のために最善を尽くしたのである。
しかし、この小栗も後に薩長の連中に殺されてしまう。
悔しくて涙が出る!
話を戻す。さらに、貿易章程における自主的な関税改定権をも幕府は放棄させられた。
これをもって安政の条約は「晴れて」!?「不平等」となったのだ!
全ては薩長と明治政府を担った連中の徳川斉昭に端を発する水戸学に浮かされた「攘夷思想」のなせる業であった。
このように、「不平等条約」からくる明治政府の苦役は決して幕府の官僚が無能であった結果などでは決してなく、薩長の連中の責任であり自業自得であるにも関わらず、現在の教科書でもその「薩長史観」である「幕府無能論」を無批判に垂れ流しているのである。
そして、その明治政府に引き継がれた権力の下で産業の主体となったのが本随筆の冒頭に紹介した生糸なのだ。
江戸時代から営々と引き継がれてきた生糸の生産が日本の近代化を支えたのである。
日本の生糸の質は世界的にも高水準であった。
これらを支えてきたのが養蚕農家であり上田はじめ日本の民衆であった。
そして、その生糸生産を推奨し、自由貿易を説いたのが著者が推す上田藩藩主松平忠固であったのだ。
日本の近代化をもたらしたのは、決して薩摩や長州の田舎侍ではないのだ!
そして、日本の蚕は病気で壊滅的な打撃を受けたフランスの養蚕農家をも助けているのだ。
参考
↓
「日本とフランスの架け橋となったカイコ」
https://silkshanghai.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%8A%E5%BD%B9%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%9E%B6%E3%81%91%E6%A9%8B%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3
本書にはそのこともしっかりと書かれている。
そして、さらに興味深いエピソードが書かれている。
以下、本書引用
明治になって、岩倉使節団がヨーロッパを歴訪した際、「私たちが今、絹をまとうことが出来るのも日本のおかげですよ」と感謝されたそうである。
しかし、それを実行したのは、すでに亡き徳川政権であった。
岩倉や薩長の使節団員たちは、当時「攘夷」と叫んで貿易の足を引っ張っていただけなのであった。彼らに感謝される資格などなかったのだ。
以上、引用終わり。
著者の悔しさが滲み出ている。
憲さんも読んで悔しくて号泣してしまった!
まったくその通りである。
奴らにそんな資格はまったくない!
明治以降、日本人民を塗炭の苦しみに追い込んだのは何を隠そう薩長の連中に他ならないのだ!
そして、現在の日本の繁栄が江戸時代の民衆の営々たる努力と研鑽により築かれていることを私たちは決して忘れてはならないのである!
憲さんは声を大にして言いたい!
(´Д`)=*ハァ〜
疲れたっ!
そして、この本の著者はその開国を積極的に主導したのが井伊直弼などではなく、我らが上田藩の藩主松平忠固その人であると、滔々と力説しているのだ!
ちなみに、憲さん以前は原田伊織さんの史観に共鳴していたが、彼は基本的に天皇主義者である。
参考
↓
【原田伊織】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E4%BC%8A%E7%B9%94
なので、原田氏は井伊直弼が天皇の勅許に固執するのを当然視してきたが、憲さんはそこがあまり釈然としなかった。しかし、この著者はそれも一刀両断すっきりさせてくれた。
ちなみに井伊直弼が天皇の勅許に拘泥するのとは対照的に忠固はそれは不要だと突っぱねているそうだ。
その理由がこうだ。
これは憲さんにとって目からうろこである。
引用しよう。
よく知られているように、京都に赴いた堀田(正睦)は、勅許の獲得に失敗する。禁裏(天皇)は、条約の判断に際し、「伊勢神宮の神慮をうかがうべし」と真顔で言い出す始末であった。伊勢神宮に行っておみくじを引いて決めろ、というのだ。このような人々が、外交案件に適切な判断を下す能力などあるわけがなかった。堀田は、京都からの忠固ら閣老たちに送った手紙の中で、次のように綴っている。「実に堂上方(公卿)等、正気の沙汰とは存ぜられず、嘆息仕り候」と。
憲さんにしておいても、当時の水戸学の「勤王」の思想から逃れられかったのを松平忠固とこの著者はその軛(くびき)から完全に解き放ってくれたのである。
そうなのだ。京都(天皇)には外交能力などまったくなかったのだ。
それをして「勤王」などちゃんちゃらおかしいの一言であるのだ!
勅許など必要なし!
これこそが正解なのである!
この辺りの詳細は是非ともこの著作を読んで確認してほしい。
・・・。
この本の著者、最後にこう書いている。
歴史学では「歴史に『イフ』はタブーである」などとよく言われたものであった。筆者の専門は歴史学ではないから「イフ、たら、れば」を堂々と語りたい。
そして、この本でも史料不足を彼の想像と「イフ、たら、れば」が大いに発揮されおり、それがまた的確だと憲さんは確信している。
さらに言うと、彼は「歴史の専門家ではない」と自覚しながら、この本の中で政治学の「知の巨人」丸山眞男の「幕閣開国論=保守的開国論」説を真向から批判しており、また講座派マルクス主義の唯物史観に対しても容赦ない批判を浴びせていて、それは手に汗握るスリリングさである。
特に、講座派に対する以下の批判は憲さんが今まで感じていたことを的確に言い表してくれて溜飲が下りる思いであった。
以下、本文引用。
戦後に興隆した左派のマルクス主義史学も、丸山同様、幕府の開国論を保守的なものとしつつ、攘夷派のエネルギーを近代化形成の契機とする、戦前からの見方を踏襲した。(中略)すなわち、列強による軍事力を背景とした「世界資本主義」への力づくでの「包摂」に対し、日本は激しい抵抗と戦争を繰り広げ、それが「不平等条約を押し付けられた」東アジア世界の中にあって、例外的に独立を維持し得た要因と見る。すなわち尊皇攘夷運動は、近代主権国家の意識を生み出した契機として評価される。(中略)列強諸国の脅威を敏感に感じ取った人々が、民族的覚醒を経て抵抗運動を繰り広げ、それによって日本は独立国家の地位を維持し得たという歴史観は、左派にも右派にも共通することがわかるであろう。左派と右派は互いを「敵」とみなし、犬猿の争いを続けてきたが、少なくとも明治維新の評価については、互いに「味方」なのである。
以上、引用終わり。
いま、憲さんの手元に講座派の重鎮であり憲さんも一目おく歴史学者井上清の著作『日本の歴史』がある。
この「中」巻にこうある。
おりから、清国では英仏が連合して新たな侵略戦争をしかけ、清政府に屈辱きわまる講和条件をおしつけた。ハリスはこの情勢を利用し、いまに四十余隻の英仏連合艦隊が日本に来て屈辱的条約を押し付けるであろう。それ以前に日米条約に調印しておけば、それを先例として、英仏の圧迫をさけることができる、とたくみな脅迫をした。
と書いてある。
この記述は客観的部分は正確であるが、主観的部分、すなわちそれが、「脅迫」なのかそれともハリスの「善意」なのかでその評価が大きく違ってくる。
井上清は「脅迫」、そして関良基氏は「善意」としているのだ。
しかし、これまでの詳細な日米通商修好条約の交渉過程を見たらそれがハリスの善意であることがよくわかるであろう。
それはまさにアメリカのモンロー主義がもたらした「奇跡」なのかもしれない。
このような前提で、以前に憲さんが日本の左翼は、「『明治維新』についての歴史的総括がまったくもって浅い!」と言った部分はまさにこれであり、新左翼にして伊藤博文の塙次郎暗殺を肯定する背景にはこの間違った歴史観が背骨(はいこつ)にあることは間違いないのである。
参考
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「憲さん随筆アーカイブス 国学者塙次郎はなぜ殺されたのか?」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-676e3e.html
(また、井上清は上述の本で吉田松陰をして「長州藩出身の、不屈の闘士で、博識と鋭い洞察力と暖かい人間愛をもった天性の指導者」と評価しているところですでに眉唾ものである!。)
いや、恐れ入った!
この本(『日本を開国させた男、松平忠固』)についてはまだまだ語りたいことが山ほどある。
しかし、今回はこのくらいにして、それはまたの機会にしよう。
最後になるが、このような大胆かつまったく正しい説を提供してくれたこの偉大なる同志、関先生に心の底から感謝を述べたい。
この本、定価2200円だがその価格が安すぎるくらいの良著である。
憲さん、早速購入しに書店に向かおうと決心した。
憲さんの数少ない座右の書としよう。
どーよっ!
どーなのよっ?
※画像は副読本『不平等ではなかった幕末の安政条約 関税率20%を認めたアメリカ・ハリスの善意』鈴木荘一、関良基、村上文樹共著
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この本の第二部を関良基さんが書いており、表題著作のダイジェスト版になっていて分かりやすい。
しかし、この本は江戸川区に蔵書がなく、足立区の竹の塚図書館からわざわざ取りよせた。
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