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2021年04月27日06:31

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教科書の定説を疑え!日米修好通商条約は不平等条約ではなかった!−『日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中』を読んで1

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国内有数の国立のタコ足大学である信州大学には現在国内唯一の繊維学部がある。

この繊維学部が所在するのが真田の里として知られる上田市である。

この繊維学部、日本が工業立国として台頭しようとした1910年(明治43年)に上田蚕糸専門学校として設立され、当時の最先端科学技術を背景に、蚕糸に関する最初の高等教育機関、また長野県下初の官立学校として設立された。その後、繊維科学技術全般にわたる高等教育機関に発展し、さらに1949年学制改革により信州大学繊維学部として発足し、現在に至っている。

2010年には創立から100年を迎え、現在は理・工・農・医の学問的基盤の上に学際的な研究・教育を行っているようである。

参考
↓ 
【信州大学繊維学部 沿革】
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/textiles//guidance/history.html

では、国内唯一の繊維学部がなぜ信州上田に存在するのだろうか?

それは、上田がかつて蚕都(養蚕業の主産地)であったからである。

参考

【蚕都上田】
http://kjmn.net/index_qhm.php?

この養蚕業、いまではほとんど見ることができなくなってしまったが、日本の近代化においてこの養蚕業の果たした役割は極めて大きかった。

そもそも、日本の生糸の輸出は幕末の横浜開港の1859年から大平洋戦争に突入する1941年までずっと、日本の輸出第一位の地位を占め、日本経済を牽引してきたのである。

そこには幕末期の世直し一揆、秩父蜂起、世界遺産に選ばれた富岡製糸場や横浜三渓園の原三渓、そして『あゝ野麦峠』などの正なるものも負なるものも、数多(あまた)のサイドストーリーが紡がれている。

参考

【世直し一揆】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86

【秩父事件】

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【富岡製糸場】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E8%A3%BD%E7%B3%B8%E5%A0%B4

【原三渓】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E#:~:text=%E5%8E%9F%20%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%82%89%20%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%81%9F,%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82%EF%BC%89%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%80%82

【あゝ野麦峠】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%9D%E9%87%8E%E9%BA%A6%E5%B3%A0

よって、蚕はその運命が茹でられ殺されてしまうにもかかわらず、「お蚕様」と敬称で呼ばれ、今なを宮中(皇居)では紅葉山御養蚕所において、歴代の皇后による「御親蚕(ごしんさん)」が行われている。

参考

【紅葉山御養蚕所】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%BE%A1%E9%A4%8A%E8%9A%95%E6%89%80

では、この日本の養蚕業が1853年の黒船来航以来の幕末期における日本に対する西洋列強からの植民地化攻撃の危機から救った主要因であったと言うとどう思われるだろうか?

少し驚かれるだろうか?

しかし、それが事実なのである。

大変衝撃的かつ、憲さんの歴史観に大きな影響を及ぼすであろう書籍を読み終えた。

これは、極めて優れた良著であり、是非とも座右に措(お)いておきたい本である。

関良基著『日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中』だ。

何気なくネットニュースをみていたらこの本の書評が目に入った。

社会学者の橋爪大三郎氏か書いたこれである。

https://allreviews.jp/review/5212

本の概要はこのレビューを読んでくれればよくわかると思う。

そもそも、松平忠固なる人物、これだけ幕末に関する書籍を読み漁った憲さんも不覚にも知らなかった。

当然歴史の教科書にも用語集にも載っていない。

松平忠固(ただかた、1812年〜1859年)とは、幕末の譜代大名で、信濃国上田藩6代藩主であり、1853年ペリー来航時に阿部正弘備後福山藩主が主席老中の時に四席老中(当時は忠優・ただます、42才)、1857年(安政四年)の下田条約締結時の、堀田正睦下総佐倉藩主が主席老中の時に次席老中(46才)であり、同僚の老中では、前期には次席に越後長岡藩主、牧野忠雅、三席に三河西尾藩主、松平乗全(のりやす)、五席に下総関宿藩主、久世広周(ひろちか)がおり、後期には三席に、久世、四席は内藤信親越後村上藩主、五席が脇坂安宅播磨龍野藩主がいた。

参考

【松平忠固】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%9B%BA

後期においては、将軍が君主だとすれば、阿部正弘首班内閣の副総理兼財務大臣(ん?どこかで聞いたことあるぞ?)といったところであり幕政において大変重要な地位をしめておりながら、他の老中ほど認知度が高くない。というかまったくの無名老中である。

何故か?

それは、憲さん言うところの薩長史観における「西南雄藩」中心の「明治維新」史観によって歴史から抹殺されたに等しい存在となっていたのである。

・・・。

横浜港を見下ろす高台に掃部(かもん)山公園がある。

この、公園井伊直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)から、掃部山と呼ぶようになった。

園内には横浜開港の立役者井伊直弼の銅像が立つ。

参考

【掃部山公園】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%83%E9%83%A8%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92

これを見ても明らかなように、横浜開港=日本開国を断行したのは井伊直弼である。というのが、現在の定説である。

しかーしっ!

この本の著者は「それは違う!」と断言するのだ。

そしてこう述べる!

「日本の“開国”を断行したのは、井伊直弼ではない。松平忠固である。」と。

そして、さらに驚くことにこう続けるのである。

「“日米修好通商条約”は不平等条約ではない!」と!

うんにゃ?

この言説は巷で言うところの「歴史修正主義」の流れの一環なのであろうか?

にわかには信じがたい!

私たちはこう学校で教わったではないか!

幕末期の日本においては、外交能力の欠如した「幕府」が、列強に強要されるままに、関税自主権がなく、領事裁判権を認めるといった不平等条約を強要され、その後成立した明治政府が近代化を成し遂げ、血の滲むような努力の末、幕府の負の遺産である不平等条約の改正を成し遂げた。と・・・。

しかし、これこそがこの著者の言うところの「不平等条約史観」なのである。

憲さんも「外交能力の欠如した『幕府』」というところには大きく疑問符をつけながらも、締結した日米修好通商条約が「不平等条約」であったことには何の疑問も持っていなかった。

しかーしっ、この著者はこの歴史観そのものが間違っている!と、途轍もない問題提起を投げ掛けているのだ!

著者曰く

これは、明治政府がでっち上げたものであり、「明治維新」の正統性を国民に刷り込むうえで、根幹をなす「神話」だった。
しかるに「令和」になった現在でも、いまだにこの「不平等条約神話」が信じられている。
「幕府」は無能で、対等な国際関係を築けず、自立的に近代化を遂げることのできない政権であったという前提のもと、「明治維新」という一部藩閥によるクーデターが、あたかも“輝かしい事業”であったかのように顕彰される「物語」が形成されてきたのだ。

以上、引用終わり。

彼の筆は熱い!

途轍(とてつ)もない熱気を帯びている!

そして、憲さんと同じ反「明治維新」史観であり同志であることは容易に理解できる。

しかーしっ!

「日米修好通商条約が不平等条約ではない!」などの言説はさすがに言い過ぎであり、「歴史修正主義」の謗(そし)りは免れないのではないか?と、ドキドキしながらも、目茶苦茶興味津々、手に汗握りながらページを繰っていった。

ところで、待てよ?

この関良基という著者、どこかで聞いたことある名前だぞ?

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

そうだ!

以前、東京新聞に載っていた!

この本の著者ではないかっ!

『赤松小三郎ともう一つの明治維新』

参考

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784861826047

以下、東京新聞の記事

幕末に説いた立憲主義 上田藩士・赤松小三郎 足跡本が出版 普通選挙や法の下の平等 現憲法の理念先取り
2016.12.31 朝刊 
 幕末にいち早く二院制の議会政治を提唱した旧上田藩士、赤松小三郎(一八三一〜六七年)の業績を紹介する「赤松小三郎ともう一つの明治維新」(作品社)が発刊された。著者は長野県上田市出身の関良基・拓殖大准教授(森林政策)。歴史研究者でも憲法学者でもないが「江戸末期の日本人が、現行憲法につながる『人類普遍』の内容を持った憲法構想を描いていたことを伝えたい」と郷土の隠れた偉人の足跡をたどった。

以上、引用終わり。

この人だっ!

憲さんこの本はまだ読んでいないが、赤松小三郎は東京新聞の記事でチェックし、随筆を書いている!

それが、これだ!

「憲さん随筆アーカイブス 遺志を引き継ぐ者−赤松小三郎と大石誠之助の生きざま
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-d7911b.html

なるほど!

この著者の関さん、信州は上田出身なのね!

だから、郷土に対する愛着でもって、上田藩出身の赤松小三郎やその主君で藩主の松平忠固を研究しているのね!

納得。

しかし、この関さん京都大学農学部林学科卒業の農学博士で、記事にもあるように歴史研究者でも憲法学者でもないのだが、このような歴史学者すらおったまげるような歴史上の真実の発掘に挑戦するとは、大した秀才である。理系は文系をも兼ねるを地でいっているお方だ。

恐れ入った!

そして、彼の「不平等条約史観」を打ち砕く説が多くの証拠と共にこの本からこれでもか!と繰り出されてくるのだ。

これから、その「日米修好通商条約は不平等条約ではなかった」というところに焦点を絞り、この著者の説をなぞって行きたいと思う。

いま、手元に憲さんが高校で勉強した山川出版の教科書「詳説日本史」がある。

この教科書の「開国」という項目にこう書いてある。

以下、引用。

1858年(安政5年)6月、やむなく日米修好通商条約の調印をおこなった。この条約によって日本は、(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市、(2)通商は自由貿易とする事、(3)開港場に居留地をさだめ、一般外国人の国内旅行を禁ずること等をきめた。しかし、(4)領事裁判権を認め、(5)日本の関税についても相互でさだめるという条項をふくんでいたうえに、日本が自主的に改正できないという不平等条約で問題をのこすことになった。

以上、引用おわり。

さらに、ご丁寧に、この項目の終わりに「別ページを見よ」の注があり、その項目は「(明治政府の)初期の国際問題」とありそこには以下のように書いてある。

以下、引用。

外交問題としては、幕府からひきついだ不平等条約の改正が大きな課題であった。1871年(明治4年)右大臣岩倉具視を大使とする使節一行が欧米に派遣され、まずアメリカと交渉したが目的を達することができす、欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察して帰国した。

以上、引用おわり。

このように、日米修好通商条約は不平等条約であり、これは、幕府が締結して、それを引き継いだ明治政府が改正するのに尽力した。と間違いなく教科書に書いてある。

しかし、この本の著者は日米修好通商条約は「ほぼ『対等』と言える条約であった。日本は、当時の国際的政治環境の中では、最良の内容の条約を、交渉によって勝ち取ったのである。」と書いている。

本当か?にわかには信じがたい。

そこで、逐一検証していく。

まずは不平等条約であるという1つの「関税自主権の喪失」についてである。

そこで、はじめに検討するのはこの条約で決まった関税率である。
結論から言うとこの条約では、輸出税を5%とし、輸入税を20%(一部酒類35%、外国人の生活必需品を5%)とした。
これは、当時の国際的水準である。

そもそも、「関税自主権」であるが、これは国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利である。また「関税自主権がない」とは他国が勝手に税率を設定できることを指すのではなく、税率の改定に他国との交渉を必要とする状態の協定税率制のことをいう。

参考

【関税自主権】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%8E%E8%87%AA%E4%B8%BB%E6%A8%A9

そもそも、当時の日本は外国との交易をほとんど行っていなかったので「関税自主権」という概念そのものがなかった。だから、関税率の設定だけが問題となりその税率をハリスとの話し合いを持って決定した協定税率となった。

参考

【協定税率】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E5%AE%9A%E7%A8%8E%E7%8E%87

しかし、それをもって「関税自主権」がないとは言わない。
この税率を定めた「貿易章程」の末尾に税率改訂の規定があり、そこには「(関税率規定)は神奈川が開港されてから五年後に、もし日本側が望むのであれば、輸入税ならびに輸出税は改訂せねばならない」とあり、これは明らかに日本側に「関税自主権がある。」ということである。

確かに、アメリカは国内の手続きのみで関税率を変えられるが、日本側は五年の年限で縛られ、さらに相手国に提起して変更手続きをしなくてはならないことをみれば対等ではないが、これにはアメリカ総領事のハリスの深慮遠謀によるものであったのだ。これは、後述する。

このように、当時の幕府はハリスとの交渉において自主的に関税率を決め、さらに自主的な意志により五年後に、関税率を変更することができる条約を結んだのであり、これをもって関税自主権の喪失ではないのだ。

なるほど!

まさにその通りである。

次に、最恵国待遇問題である。

日米修好通商条約は片務的最恵国待遇で不平等であるとされている。

これは、また話が複雑だが、そもそも最恵国待遇とは、通商条約、商航海条約において、ある国が対象となる別の国に対して、最も有利な待遇を受けることを現在および将来において約束することである。

参考

【最恵国待遇】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%81%B5%E5%9B%BD%E5%BE%85%E9%81%87

本来であれば、双方にその義務を負う双務的最恵国待遇であるべきだが、この条約では日本にのみその待遇の義務が追わされて片務的最恵国待遇となった。

しかし、これにも理由があった。これも関税率と関わるのだが、この条約に、おいて日本側は輸出税の導入にこだわり実際5%の輸出税を課した。しかし、アメリカには輸出税はなくそうすると双務性が破れる。なので、ハリスは日本側に輸出税を課さず双務的最恵国待遇を条約に盛り込むことを主張したが日本は輸出税にこだわり結果片務的最恵国待遇となったのである。すなわち、アメリカに片務的最恵国待遇を押し付けられた訳ではなく、あえて日本側が輸出税を課すため片務的となったのである。

これは、日本側が強気の交渉で輸出税を勝ち取った結果とも見ることができる。

ところで、日本側がここまで輸出税導入にこだわった理由は史料不足で定かではないらしいが、著者が推測するに開国に伴い日本の物産が輸出ばかりに流れるのを懸念しての措置であると考えられるようだ。事実、輸出が始まってから国内の生糸が品不足となり国内の絹織物産業は大打撃を受けている。
これも、幕府がよくよく考えての措置であり、決して弱腰外交で押し付けられたものではないのだ。

なるほど!

最後に領事裁判権の問題である。

この条約の第6条にこうある。

日本人に對し法を犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。

まず、これだけ読むと両国に双務的で対称的であり不平等ではない。すなわち双方の国が双方の国で対等に領事裁判権を持つということであり、何ら不平等ではないのだ。

しかし、現実にはこれから日本にはアメリカ人が大挙押し寄せて来るのだが、日本人がアメリカで暮らすことは想定されていない。

だから結局は日本においてのアメリカ人の犯罪はアメリカ側が裁くことになり日本側には裁判権が与えられていないから不平等だというのである。

しかし、これは常識的に考えれば当時の日本には近代的な刑法が整備されておらず、大名行列を横切ったら「斬り捨て御免」の野蛮な国なのである。事実、生麦事件が起こっている。

参考

【生麦事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

このような国において領事裁判権でなければ外国人は安心に暮らせなかったのだ。

また、幕府においても外国人を幕府の法度で裁こうという気はさらさらなかったのである。

なので、これについては日本は何の問題もなく受け入れたのだし、もっといえば1860年に派遣された勝海舟や福澤諭吉が同行した万延遣米使節団がアメリカ国内で犯罪を犯したとしても、それは日本の法度によって裁判を受けることになり(当時まだアメリカに日本の領事館はない。これ自体は極めて不平等であるが・・・)少なくとも条約上では対等であった。

このように領事裁判権も当時としては妥当であり、不平等条約を押し付けられたものではなかったのである。

納得!

(続く!)

※画像は本著
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