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2021年04月19日08:20

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憲さん随筆アーカイブス ifの日本史 方広寺鐘銘問題は徳川家康のインネンか?

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この随筆は2020年7月10日に書きました。

憲さん、徳川家康が好きだハート

しかし、家康は現代の日本国民にも江戸っ子の末裔(まつえい)東京都民にもあまり人気がないらしい。

その証拠に、徳川家康の銅像は近年になるまで、都内にはなかった。

※厳密には過去に家康像が全くなかった訳ではなく、かつて東京市役所正面玄関前に徳川家康像(大正9年7月建設)があったが、昭和18年3月に太平洋戦争のために供出され撤去された。

それが最近(1994年)になって江戸東京博物館敷地内に建てられたが、あまり有名ではなく、亀(厳密には贔屓(ビシ・ビキ)「中国の伝説=重い物を背負うのが好きな龍」の上に立っていてあまり格好のいいものではない。

参考

【贔屓】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%94%E5%B1%93

参考
【家康公銅像】

http://www.edosyoubou.jp/ieyasu.html

贔屓(びし)=亀趺(かめふ)の上に立っているといえば、憲さんは青山霊園の大久保利道の趣味の悪い墓を思い浮かべて、あまり感心しませんな。

(ちなみに、亀趺は墓を守るという意味があるようです。)

参考
【大久保利通の墓】

https://ameblo.jp/momotokeita/entry-12415840741.html

徳川家康は、天下人である織田信長や豊臣秀吉とよく比べられるが、一向衆を大虐殺した希代の大量殺人鬼信長や、朝鮮半島への武力での侵略を実行した希代の侵略鬼秀吉に比べれば、大坂の陣を制し「元和偃武」を成し遂げた家康は、それから260年にもおよぶ、いわゆる「パックス・トクガワーナ」を作り上げた意味において、偉大な武将であり政治家であったと高く評価されるべきであろう。

ちなみに、「元和偃武」の「偃武」とは、「武器を伏せ収める」という意味である。

故に彼の銅像は少なくとも、現代においては皇居東御苑の江戸城天守閣跡に、西北にある靖国神社に建つ大村益次郎を睥睨(へいげい)するように建てられるか、百歩譲って上野の山に西郷像を引き倒して建てられるかせねばならないのであり、少なくとも隅田川の川向こうに悠長に亀の上に立っていて良い訳がないのである。

その、徳川家康の話である…。

話が飛ぶが、数少ない(私はあまり小説を読まないので…)私の好きな作家に清水義範氏がいる。

彼の『国語入試問題必勝法』などは昔、楽しく読ませていただき、彼のウィットに富む文章は憲さんにとって大変心地よく、また、憲さんと多くの問題意識を共有しているので、ことあるごとに彼の著作は読ませていただいている。

そんな、彼は歴史にも造詣が深く歴史物も多数かかれている。

(先日も『ifの幕末』を読ませていただいたが、これはあまり面白くなかったげっそり
参考

【『ifの幕末』】
https://bookmeter.com/books/7152244)

先日も図書館の歴史の書架で彼の『暴言で読む日本史(歴史を彩る「すごい発言」の知られざる真意と裏側の事情を博学多識によみほぐす)』(2011年発行)という本を見つけ、憲さんの心を鷲掴みにした。

参考

【『暴言で読む日本史』】
https://www.kadokawa.co.jp/product/301302001480/

早速借りて読んだ。

例えば近現代の章にあるこの言葉、

「我は心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」

これは、福澤諭吉の「脱亜論」の結びの一文である。

清水義範氏も憲さんと同様、福澤の差別主義者としての本質を暴露しこれを「暴言」と批判している。

ただ、清水氏、「(福澤の脱亜論は)侮蔑的で、冷たいアジア観ではある。」と言ってはいるが、「侵略しろ、とまでは言っていない。」故に福澤の「脱亜論」は失言ではあるが、暴言ではない。と半分擁護しているのである。

ここでは、清水氏の詳細な論調は割愛するが、確かに「(明治期の日本において)福澤という社会をリードした人ですらこんな侵略主義を提唱した。純情な庶民はその犠牲者にすぎない」という「戦前の日本の軍国化や侵略主義を(批判する)人々に、福澤の有名な『脱亜論』もそういう過ちのひとつ、いやその元凶である。」という説には憲さんも飛躍があり、清水さんいうところの「判断停止」が働いているかとは思うが、しかし、その根底にあるのは福澤自身の差別主義、侵略主義にあると憲さんは考える。

それは以前に憲さんが書いた「福澤論」の中にある。

参考

【憲さん随筆アーカイブス 福澤諭吉著作『學問のすゝめ』は読むに値するのか?】
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-275d3a.html

憲さん、こう書いている

以下、抜粋

福澤のこの卑しい思想はやがて「脱亜論」に昇華し、その実践的結論として朝鮮半島の権益をめぐり日本と清国とが軍事衝突した1894年に勃発した日清戦争を評価、支持するに至ります。福澤は日清戦争を「日本の国権拡張のための戦争である」「西洋学と儒教の思想戦争」「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と凶暴な帝国主義者の顔を覆い隠すことなく明け透けに述べそれに協力しているのです。

以上、引用おわり。

こう考えると福澤の「脱亜論」はただの失言ではなく、大いなる暴論なのです。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

話がだいぶ逸れてしまった。

今日は諭吉の話ではない!

我が愛する、徳川家康の話だった!

この清水さんの本『暴言で読む日本史』の近世の章にその「暴言」がある。

「国家安康」である。

歴史マニアにはすぐにピンとくるはずである。

これは、家康が最後的に豊臣側を滅ぼした大坂の役において、その戦乱の端緒となった方広寺大仏殿の梵鐘の銘である。

この事件、山川の日本史用語集にも『方広寺鐘銘問題』として赤見だしで記載されている。

そこには、こうある。

「方広寺は秀吉の創建。(中略)地震で焼亡後、(豊臣)秀頼が再建。奉納した釣鐘の銘文『国家安康』『君臣豊楽』が原因で大坂の役が起こった。」とある。

参考

【方広寺】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA

これについて、清水氏はこう書いている。

◆出鱈目のインネンをつける
この言葉自体は暴言ではない。新しく造られた寺の大きな鐘に書いてあった縁起物の文句である。国家が安康でありますように、というのはまともな願いで問題はひとつもない。
ところが、家康はこの言葉にとんでもない言いがかりをつける。そこで言ったことは、まさに暴言である。

以上、引用おわり。

方広寺鐘銘問題=家康の出鱈目いいがかり暴言論である。

事実、憲さんの持っている高校時代の山川の日本史の教科書にこう、書いてある。

「しかし、当時はまだ大坂に豊臣秀頼がいたので、家康はこれを挑発して戦いをしかけ…」

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

やっぱり、家康が秀頼を挑発したのね?

人を疑うことを知らない純粋な憲さんは今までこの説が正しいと思っていた。

そして、それは偉大な家康の数少ない瑕瑾(かきん)ではないかとさえ考えていた。

しかーしっ!それはちがうのであった。

以下、それを論じよう。

では、方広寺鐘銘問題=家康のいいがかり論についてまず詳しくみていこう。

天下をとった家康だが大坂には秀吉の子の秀頼とその母淀君がいた。

関ヶ原の戦いで勝ったといっても、石田三成率いる西軍を敗っただけで、豊臣家を倒したわけではない。

家康はそれを片付けるまでは安心できない。

そこで、家康はまず豊臣家の財力を削ぐために、地震で失われた京都の方広寺の再建を勧める。

そして、それは慶長19年夏に無事完成し開眼供養が行われる段になって、徳川方から梵鐘の銘に不穏当な語句があると、クレームがはいったのである。

それが…

「右僕射源朝臣(うぼくやみなもとのあそん)」
であり

「君臣豊楽、子孫殷昌(くんしんほうらく、しそんいんしょう)」であり

「国家安康(こっかあんこう)」

である。

これに対して徳川側は

「右僕射…」については「射」の字があるのは、家康を射殺す呪い

「君臣豊楽…」については、「豊臣を君とする」意味である。

「国家安康」は「家康」という名前に別の字を挟んでいて、つまり家康を二つに斬り殺したいという呪い。

と指摘糾弾しているのだが、清水氏はこれを「ゴロツキがインネンをつけているのに等しい」と手厳しく断罪している。

しかーしっ!

この、方広寺鐘銘事件=家康方のこじつけインネン論に「待った」をかける人がいた。

それが、前回の憲さんの「何ちゃって西暦」問題でも登場願った、歴史学者、笠谷和比古氏である。

彼はその著書『歴史の虚像を衝く』に、この方広寺鐘銘事件=家康方のこじつけインネン論について、それはまさしく「歴史の虚像」である。ときっぱりと否定して している。

参考

【『歴史の虚像を衝く』】
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/book/book/cate5/cate526/post-5.html

笠谷先生は、ズバリこうとは言ってはいないが、こういう主旨のことを言ってるのである。

「方広寺の鐘銘は、家康方のでっち上げなどではなく、『家康』と『豊臣』の文字をあらかじめ折り込んで書いており、それは、少なくとも家康に対しては配慮が欠け、礼を失した『暴言』であり、また、そこには呪詛(じゅそ)の意味がないとは言えず、家康側がクレームをつけるのは当然なのである。」と。

どういうことか?

まず、鐘銘を書いた本人、清韓という人物がこう言っている。

参考

【文英清韓】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8B%B1%E6%B8%85%E9%9F%93

「御名を、かくし題に入れて書きました。」「祝賀の意味から、方広寺を寿(ことほ)ぐために家康様のお名前を使わせていただきました。豊臣の名前も使いました」と。

このように、少なくとも清韓は確信犯(https://prowriters.jp/blog/21)であり、「家康」の文字は偶然ではない。

確かに言われてみれば「国家安康」などの言い回しはどこか、安康=鮟鱇故に生臭く?、日本語としても座りが悪い。無難に「国家安泰」とするのが普通だろう。

そして、それに対して家康方がクレームをつけるのも決して不自然ではないのである。

それは「諱(いみな)」問題である。

参考

【諱】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1

諱とは、「実名は顕(あらわ)にはしてはいけないという、日本において古来『人の名を呼ぶことは魂を奪うこと』という言霊(ことだま)信仰」の観点からきている。

なので、当時は実名を避けるべく称号が発達したのである。

例えば、大岡「越前守(えちぜんのかみ)」、浅野「内匠守(たくみのかみ)」、吉良「上野介(こうずけのすけ)」、これはすべて官職の称号である。

なので、家康の場合は「内府様(だいふさま)」が普通であり、もし「家康様」などと言おうものなら、即刻打ち首ものである。

これが、当時の常識であり、このような中で、いくら「かくし題」といっても「家康」という実名をむき出しに鐘銘に書かれればそれを問題にするなというほうが無理な話なのである。

なので、家康方がこれを豊臣方の「挑戦」と受け止めるのもあながち「インネン」や「こじつけ」の類いではないのである。

では、この「徳川方インネン説」はどこからきたのであろうか?

我らが笠谷先生はその裏付けもきちんととってある。

明治時代のジャーナリスト徳富蘇峰である。

彼の著作『近世日本国民史』に「徳川言いがかり説」が蘇峰の独特な「断定口調」により、掲載されており、それが百年間「言いがかり論」が人口に膾炙(かいしゃ)する原因となった訳である。

参考

【『近世日本国民史』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%8F%B2

(この、徳富蘇峰の『近世日本国民史』はいろいろとこのような偏見による悪影響をおよぼしているところが散見される大著である。)

ところで、では家康は豊臣方を滅ぼすために、虎視眈々とその機会を狙っていたのであろうか?

方広寺鐘銘事件を機に大坂の陣で豊臣方を滅亡させた家康にその「動機」はあったのかという問題である。

結論的には、これは十分にあったと考えられる。

それは何か?

よく、関ヶ原の戦い以降は豊臣秀頼は一大名に転落したという言説があるが、これは間違いである。

関ヶ原以降においても、豊臣秀頼は関白として、徳川将軍と対等、もしくはその上位にすら位置する存在であったのだ。

これに対し、慶長16年3月の家康と秀頼の二条城の会見で秀頼が家康を上座に位置付けることにより、徳川方有利、すなわち徳川将軍家の全武家領主に対する統率権が確立したのである。

しかし、それでも「太閤様御置目の如く」と表現されていたとおり、太閤秀吉が構築した豊臣の公儀体制が持続していたのである。

いわゆる豊臣、徳川の二重公儀体制、すなわち、「家康様は将軍に、秀頼様は関白に」である。

そして、家康も豊臣家との共存を強く意識し、深く配慮をしてきたのだ。
しかし、やはり自身の家康が亡くなった後、残された二代将軍の秀忠が豊臣方に潰されてしまう不安をもち、家康は悶々としていたのである。
それが、家康の豊臣家を滅亡させたい動機である。

しかし、それは虎視眈々と豊臣方を潰すべく画策していたのではないのだ。

しかしそこに、方広寺鐘銘事件である。

家康はこの事件が起きて小躍りして喜んだのは事実らしい。

しかし、それは家康がこじつけて因縁をつけた訳ではなく、豊臣方から売られた喧嘩を買っただけなのである。

すなわち、豊臣方が家康に喧嘩を売った結果として、大坂の陣が起こり豊臣家は滅亡したのである。

ある意味、豊臣家の「自業自得」と言っても言い過ぎではないのだ。

少なくとも、家康のこじつけ因縁によるものに起因した戦いではないということを理解していただけたであろうか?

これにより、家康とは煮ても焼いても喰えない狡猾なタヌキ親爺というイメージではなく、深慮遠謀の為政者であると私は信じたい。

しかし、もし方広寺鐘銘事件がなく、大坂の陣が起こらず家康が死んでいたら…。

その後豊臣家が徳川家を滅ぼしていたのか?

それとも、豊臣、徳川の二重公儀体制が続いていたのか?

それとも、東と西で豊臣支配、徳川支配の分断国家になっていたのか?

もし、豊臣、徳川の二重公儀体制が継続していたら幕末はどう推移したのか?

そもそも、幕末などは来なかったのか?

そんな、「ifの日本史」を妄想するのは、また楽しいことである。

どーよっ!

どーなのよっ?

※参考文献
笠谷和比古『歴史の虚像を衝く』第3章「大坂の陣をめぐる諸問題」

清水義範『暴言で読む日本史(歴史を彩る「すごい発言」の知られざる真意と裏側の事情を博学多識によみほぐす)』

他、日本史教科書、資料集等

※画像はくだんの方広寺の鐘銘
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