mixiユーザー(id:4535387)

2021年04月17日05:50

17 view

憲さん随筆アーカイブス 福澤諭吉著作『學問のすゝめ』は読むに値するのか?3

フォト


続き)

原文

また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり。わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺に言う「井の底の蛙」にて、その議論とるに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄すてて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。

口語訳

また自由独立は人の身の上にあるばかりでなく、国の上にも存在する。わが日本はアジアの東に離れて存在する一個の島国で昔から外国と交わりを結ばず、自国の産物だけを消費して不足に思うこともなかったが、嘉永年間にアメリカ人が渡来して外国交易が始まり、今日のようになったのである。開港の後もいろいろと議論が多く、鎖国攘夷とやかましく言った者もあったが、その視点はおよそ狭く諺に言う井の中の蛙で、その論理は取るに足りない。日本も西洋諸国も同じ天地の間にあって、同じ日に照らされ同じ月を眺め、海をともにし空気をともにし、情緒も同じ人民である。よってここで余るものは彼らに渡し、彼らに余ったものはわれらが取り、互いに教え互いに学び、恥じることも誇ることもないのだ。互いに利益を得て、互いにその幸いを祈り、天の道理と人の道に従って互いに交わりを結び、道理のためにはアフリカの奴隷にも恐縮し、正しい道のためにはイギリスアメリカの軍艦も恐れず、国の恥辱があれば日本国中の人民が一人残らず命を捨ててでも国の威光を落とさないことこそ、一国の自由独立と言うべきなのである。

私の意見

ここから福澤の「国家論」がはじまりますが、ここにおいては福澤の歴史認識の誤認があるので正しておきます。

福澤は「わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりし」とありますが、これは甚だしい歴史事実の誤認です。

日本は古来から中国をはじめ東アジアの諸国を中心に緊密な関係をもち、またシルクロードを超えて西洋とも関係を持ってきました。

これは奈良東大寺の正倉院に少なからず外国からのもの、それは中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品が納められていることからもうかがわれます。

参考

【正倉院の宝物】
https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/treasure/

また、日本語を形成する文字、それは平仮名、片仮名、漢字、全てが中国の文字である漢字を元に作られています。

さらに、現在日本で多くの人たちが帰依している仏教もインドが発祥でやはり中国経由でもたらされた外来宗教です。このように、日本は古来から外国と深い交わりを持ってきました。

このような事を「歴史とは年代記のくわしいもので、万国の古今のありさまを研究する書物である。」と御託を宣ずる超インテリ大学者様が言うとは甚だ腑に落ちず、これは「嘘をついても、読者=民衆をだまくらかそう」という意図が透けて見えます。

また、「いやいや、これは江戸時代のことを指すのよ」と福澤は後付けの言い訳を言うのかもしれませんが、江戸時代も幕府はオランダと長崎で細々とは交易をしていたのは長崎遊学経験のある福澤本人が一番よく知っていることですし、朝鮮通信使を通して東アジアとも交易があったのが事実です。

なので、江戸時代において、確かに民衆レベルまでに海外は開けてはいないまでも、国を閉ざしていたなどという歴史的事実はありません。

また、福澤は尊攘派の言葉を借りて「鎖国」なる単語を使用していますが、そもそも「鎖国」なる概念と言葉を多用したのは、政権を奪取した薩長の連中たちで、江戸幕府が「鎖国」という言葉や概念を使ったとは思われません。これは薩長の連中が政権奪取後に江戸時代の封建的弊害を強調するために使いだした捏造に近い概念です。これは私たちの世代になって歴史教科書から「鎖国」の用語がはずされたことをみればわかります。

参考

「江戸幕府が『鎖国』していたという大きなウソ」
https://toyokeizai.net/articles/amp/129161?display=b

また、そもそも尊攘派は「尊皇攘夷」とは言ってはいましたが「鎖国攘夷」などとは言っていないはずです。

「鎖国」という言葉が一般的に流布されたのは明治以降と思われるからです。

それは幕臣であった福澤も当然ながら認識していたにもかかわらず、明治5年において「鎖国」なる言葉とその概念を使うというのはそうとうに薩長史観に毒されているというあらわれであり、ここでも福澤いうところの「学問」的見地の欠如がこの著作には現れていると言わざるをえません。


原文

しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。王制一度ひとたび新たなりしより以来、わが日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、すでに平民へ苗字・乗馬を許せしがごときは開闢以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするの基いここに定まりたりと言うべきなり。

口語訳

しかし支那人などのように、自国のほかには国がないように外国人を見ればひとまとめに夷狄夷狄と呼び、四本足で歩く動物のように卑しめ、これを嫌い、自国の力も考えず、みだりに外国人を追い払おうとしてかえってその夷狄に苦しめられる始末などは実に国の身の程を知らず、人で言えば生来の自由を達成せずにわがまま放蕩におちいった者と言うべきだ。王制が一新して以来わが日本の政治は大いに改まり、外は万国の公法をもって外国と交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、平民に苗字乗馬が許されたようなことはわが国始まって以来の快挙、士農工商の四民の地位を一様にする基礎がここに定まったと言うべきである。

私の批判

ここからが、福澤の「脱亜論」へと繋がる東アジア諸国蔑視の口汚いヘイトがはじまります。
これこそ、この論文の核心といっても過言ではありません。

この『学問のすすめ』なる駄文はまさに、現在まで通ずる「ヘイト本」の走りではないのかと思います。

福澤は1862年(文久2年)27歳のときに、文久遣欧使節を欧州各国へ派遣することとなりますが、この途上立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにします。そこで彼は、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けたのです。

それを目の当たりにみた福澤の実践的結論がこれなのです。

すなわち、西洋列強の帝国主義に痛め付けられている隣人中国に対して「実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者」と口汚く罵っています。

中国と言えば前述した通り、古来から日本と交流があり、日本に様々な文化をもたらしてくれた隣国であり、日本からすれば兄であり父のような存在です。

この隣人が没落してしまい、西洋列強に痛め付けられるのをみて、福澤は「隣人の恩人を助けなければ!」と思うのではなく、「私たちは中国のようにいじめられる存在ではなく、中国をいじめる存在にならなくては!」と考えたのです。

この段は核心部であるのでより強調して私の好きな漫画で例えてみます。

傍若無人でいつものび太をいじめるジャイアンをみて、スネ夫は理不尽ないじめに耐える友人ののび太を助けるのではなく、「ぼくも、ジャイアンにいじめられないよう、のび太をいじめる立場にならなくては!」と思い、ジャイアンと一緒になってのび太をいじめるのです。

福澤の心象はまさに、このスネ夫と一緒であり、私が名付けるところなんとも卑しい「スネ夫主義」ということにります。

私はこの福澤の利己的な主張に一ミリたりとも共感など覚えません。

もっと言えば吐き気さえ催すほどの嫌悪感を覚えます。

福澤のこの卑しい思想はやがて「脱亜論」に昇華し、その実践的結論として朝鮮半島の権益をめぐり日本と清国とが軍事衝突した1894年に勃発した日清戦争を評価、支持するに至ります。福澤は日清戦争を「日本の国権拡張のための戦争である」「西洋学と儒教の思想戦争」「文野の戦争」「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と凶暴な帝国主義者の顔を覆い隠すことなく明け透けに述べている。

参考

「福澤諭吉の日清戦争観」
https://designroomrune.com/magome/daypage/07/0729.html

ここに書いているだけでも反吐がでる思いです。


原文

されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。

口語訳

そこで今後は日本国中の人民に生まれついた身分などと言うものは一応なくなり、その人の才能とその居場所による地位があるだけだ。たとえば政府の官吏を粗略に扱わないのは当然だが、これはその人自身が尊いのではない。その人が才知によって役目を勤め、国民のために貴重な国法を取り扱うから尊いだけである。人が尊いのではない、国法が尊いのである。

私の批判

ここでは、福澤は政府の官吏=支配者を「粗略にせざるは当然のこと」とその理不尽な支配に服従することを説き、さらに「人の貴きにあらず、国法の貴きなり。」と本末転倒な説を展開しています。もうこうなっては、何を言いたいのかさっぱりわかりません。


原文

旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古えよりこれを嫌いながらまた自然にその仕来たりに慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りてはもはや全日本国内にかかる浅ましき制度、風俗は絶えてなきはずなれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上かみを怨うらむることなく、その路を求め、その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛なげうちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

口語訳

旧幕府の時代、東海道をお茶壺が通行したのは、よく知られている。そのほか幕府御用の鷹は人間よりも貴く、御用の馬は往来の旅人も道を譲るなど、すべて御用の二字を付ければ石でも瓦でも恐ろしく尊いもののように見え、世の中の人も数千百年の昔からこれを嫌いながら自然にそのしきたりに慣れ、上下が互いに見苦しい風俗を形成した。結局これらはみな法律が尊いのではない、品物が尊いのではない、ただいたずらに幕府の威光をふるって人をおどし、人の自由を妨げようとする卑怯な方法で、実体のない虚勢というものだ。今日になり、もはや日本国内にこのような浅ましい制度や風俗は絶えてなくなったはずである。人々は安心し、政府に対してかりに不平があれば、隠してひそかに政府を恨むことなく、方法を探しその筋目により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべきである。天の道理と人の情にさえかなうことなら、命も投げ出して争うべきで、これがすなわち一国の人民である者の分限と言うものだ。

私の批判

ここも、福澤のこの著作で言いたかった核心部分だと思われます。
ここで、福澤は「旧幕府の時代…ただいたずらに政府(幕府)の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。」と言っていますが、ここです。私が冒頭に「諭吉、何偉そうに言ってるんだよ?お前どの面さげてそんなことが言えるんだよ?」と思ったところは。

何故かって、福澤はこの著書をあらわす前に三回海外に赴いています。
しかし、それはいずれも幕府の船で、幕府の金でいっているのです、さらに幕府から金を出してもらい洋書まで購入しています。

彼の知識や見聞のほとんどは幕府の力と金で形づくられてきたのです。

また、後には正式に幕臣となり幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上の「御旗本」となっています。

彼は、幕府に食べさせてもらっていたのです。

このように福澤は幕府に恩を感じることはあれ、幕府なきあとに恩のある徳川幕府をこのよう口汚く面罵することなど、ふつうの義理人情を持ち合わせた人物であれば、考えられません。

はっきりいって異常です。

彼のこの幕府に対する恩知らずな一面は、1868年(慶応4年)旧暦5月15日に起きた上野戦争の時のエピソードにもよく現れています。

彼は上野で彰義隊が悪逆非道な薩長軍と戦っているときも、芝新銭座の有馬家中屋敷(現在の東京都港区浜松町1丁目)で英語塾(のちの慶応義塾)を開講していたのです。福沢は、上野に噴煙があがるのを見ながらも、塾を休むことなく、塾生たちに英書『ウェーランドの経済書』を講義していたそうです。

参考

慶應義塾大学のサイトより
https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/1995/191.html

同僚が、文字通り命をかけて戦っているのを横目に、洋書の講義を続ける。私はこんな人間には全く感情移入などできません。

それより、彼と幕臣時代に親交のあった、小野友五郎や中島三郎助のほうがどれだけ人間らしいか。
彼らは、徳川への恩義を忘れず最期まで薩長と戦いました。

特に中島三郎助などは、函館までいき新政府軍と戦いぬき、親子で戦死しています。

参考

「中島三郎助の最期」
http://boshin150-minamihokkaido.com/mononofu/nakajima_saburosuke/

私はこの話を知り涙が止まりませんでした。

そして、このいわれなき戊辰戦争をおこし、何人もの同胞を殺戮した悪辣非道なる新政府軍に対して腹の底からの怒りを覚えました。

私はいつか、函館までいって中島三郎助の墓前に香華を手向けたいと思っています。

私はこのように、「義」に生きた人にこそ感情移入してしまいます。

さらに続けます、この節の後半では、福澤はこうとも述べています。

「日本国内にこのような浅ましい制度や風俗は絶えてなくなったはずである。人々は安心し、政府に対してかりに不平があれば、隠してひそかに政府を恨むことなく、方法を探しその筋目により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべきである。天の道理と人の情にさえかなうことなら、命も投げ出して争うべきで、これがすなわち一国の人民である者の分限と言うものだ。」と。

そもそも福澤が「命も投げ出して争」ったことなど、一度もありません。奴はずっと、英語などの勉強をしていただけに過ぎません。なので、こんな御託もまさにサロン的な戯れ言に過ぎません。

また、その後の明治政府がどれだけ凶暴に人民に襲いかかってきたかはその後の1884年(明治17年)に起きた秩父蜂起への弾圧の歴史などをみれば歴然です。

参考

【秩父事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

しかるに、福澤は自分が設立に携わった明六社が1875年(明治8年)讒謗律や新聞紙条例が出されるやいなや、なんも「命も投げ出して」闘うこともなく解散しています。

なんとも掛け声倒れで情けない話であります。

参考

【明六社】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%AD%E7%A4%BE#:~:text=%E6%98%8E%E5%85%AD%E7%A4%BE%EF%BC%88%E3%82%81%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%8F,%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%9A%84%E5%95%93%E8%92%99%E5%AD%A6%E8%A1%93%E5%9B%A3%E4%BD%93%E3%80%82

まさに、「巧言令色鮮し仁」の典型のような御仁であります。

(4に続く)

※画像は洋装の福澤諭吉
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する