mixiユーザー(id:4535387)

2021年04月17日05:48

27 view

憲さん随筆アーカイブス 福澤諭吉著作『學問のすゝめ』は読むに値するのか?2

フォト


(続き)

学問のすすめ
福澤諭吉
初編

原文

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

口語訳

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言う。天が人を生まれさせるのは、万人は万人みな同じ地位であって、生まれながらの貴賎や上下の差別なく、万物の霊長である心身の働きで、天地の間にあるすべての物を利用して衣食住の用を足し、自由自在、互いに人の妨害をせず、おのおの安楽にこの世を渡らせたまう趣旨である。

私の批判

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」との言葉は福澤諭吉の言葉ではありません。
これはトーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言の一説を「学問のすすめ」の冒頭でそれを剽窃したものであります。

また、福澤本人がこう思っているわけでなく、この文章を読むと「…と言われています。」(でも本当は違います。)と言っているだけなのです。

この冒頭の文章を読んだだけで「福澤諭吉は偉大な平等主義者」だなどと合点するのは早とちりも甚だしいのです。


原文

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

口語訳

しかし今、広く人間世界を見渡せば、賢い人もあり、愚かな人もあり、貧しい人もあり、富める人もあり、貴人もあり、下人もあって、そのありさまに雲泥の相違があるのはなぜか。そのわけは、全く明らかである。実語教という書物に、人学ばざれば智なし、智のない者は愚人なりとある。つまり賢人と愚人の区別は、学ぶと学ばないことによってできるのである。

私の批判

この文章で、すぐに福澤の差別意識は現れます。

福沢は、現状の社会を「貧しきものあり、富めるものあり」といい、その原因は学問の有無にあるといっています。
でも、本当でしょうか?
現代においても、必ずしも富める者に学問があるとは限りませんし、逆に学問のある人でも貧乏人は大勢います。

あの元財務官僚の佐川宣寿をみてください。奴などは東京大学法学部を卒業して大蔵省(現財務省)に入省したいわゆる超エリート官僚ですが、実際やったことは公文書改竄の指示という前代未聞の犯罪行為でした。しかしその責任をとるどころか開き直り、さらには、今なお部下を自殺に追いやったことすら何の自責の念を感じずにのうのうと生きています。

参考

【佐川宣寿】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B7%9D%E5%AE%A3%E5%AF%BF

このような輩をしても「(大学で)学ぶ」から「賢人」であるとは、私はさらさら思いません。
佐川のみならず、優秀な東大や慶応大学を卒業しても社会に害悪しか及ぼさない人間などはごまんと存在します。
逆に、学問などなくても自分の仕事を誠実に勤めあげる人たちも大勢いるのです。


原文

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

口語訳

また世の中には難しい仕事もあり、簡単な仕事もある。そのむずかしい仕事をする者を身分の重い人と名づけ、簡単な仕事をする者を身分の軽い人という。すべて心を使い、心配する仕事はむずかしく、手足を使う肉体労働は容易である。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大がかりな商売をする町人、多くの使用人を使う大百姓などは、身分が重く貴い者と言うのである。

私の批判

この一文を読んでも福澤諭吉が冒頭の名言とは真逆の職業差別意識に囚われた偏狭なる思想の持ち主であることがよくわかります。

そもそも「医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者」であり、「手足を用うる力役はやすし。ゆえにすべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。」などと今の社会で言ったらそれこそ「差別主義者」の謗りは免れません。

しかし彼は、農民や大工、職人、職工は肉体労働者だから身分が低く卑しい人たち。それに対して医者、学者、官僚、経営者、大百姓は身分が高いと公言して憚りません。

かくいう、福澤本人も「学者様」だから身分が高いのだと言いたいのでしょう。

彼は考えたことがあるのでしょうか?
この世の中が額に汗して働く人達の手によって成り立っているかを。

今のコロナウィルス禍の日本をみれば、それは一目瞭然のことです。
働く人が働けず、社会機構がどれだけ麻痺しているか。
安倍首相や小池都知事、国会議員、テレビにでる偉いお医者さんだけでは社会はまわりません。
スーパーで働くパートのおばさん、電車やバスを走らせてくれる運転士さんがいてはじめて社会は動いているのです。

それに明治5年当時の「役人」などは、薩長閥の天下り職であり、元は田舎侍。とても学問があるようには思えません。
だから当時の役人の多くは威厳をつけるためにカイゼル髭を生やしていたのではないでしょうか?

参考

【カイゼル髭】
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%AB%E9%AB%AD

また、医者も江戸時代においては当然ながら国家資格などなく、世襲制かもしくは看板を掲げれば「医者」を名乗れるほどでした。
明治5年時点での「医者」がどれだけ「貴き者」か知れたものではありません。

そもそも、福澤本人は「肉体労働」をしたことがあるのでしょうか?
おそらく、したこともないにも関わらずこのような言説を流布すること自体、旧態依然とした封建的な考え方が福澤自身に染み付いていると言えないでしょうか?


原文

身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

口語訳

身分が重くて貴ければ自然にその家も富み、しもじもの者から見れば遠く及ばないようだが、元を見ればただその人に学問の力があるないかによって違いができるだけで、天の定めた決まり事などではない。ことわざに、天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与えるという。ならば前に述べたとおり、人は生まれながらに貴賎や貧富の区別はない。ただ学問に勉め、物事をよく知る者は貴い人になり富裕になるし、無学な者は貧乏人になり下層となるのである。

私の批判

福澤は「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」
と「賎しい職業」につくのは学がないからと極めて蔑視的な考え方を述べています。
このような福澤の職業差別感には本当に辟易とさせられます。


原文

学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

口語訳

学問とはただむずかしい字を知り、わかりにくい古文を読み、和歌を楽しみ詩を作るなど、世間での実益のない文学を言うのではない。これらの文学もおのずから人の心を楽しませ、ずいぶん結構なものだが、昔から世間の儒者和学者が言うほど尊いものではない。古来、漢学者に家計運営の上手な者も少なく、和歌がうまくて商売に巧みな町人もまれである。このため分別のある百姓町人の中には子が学問に精出すのを見て、やがて財産を失うのではないかと親心から心配する者がある。これは、無理もないことである。結局その学問は実用に乏しく、日常に間に合わない証拠である。

私の批判

この文章をみても、福澤の漢学者や儒者和学者に対するいわれなき差別感が満展開されています。

そもそも、何を学ぼうなどとはそれこそ自由な世の中であればその人の自由であり、それが漢籍であろうが、和歌であろうが非難されるいわれはないはずです。学びたいものを学べばいいのです。

彼はこの文章で「漢学者」を批判していますが、彼自身の思想や言語はまさしく「漢学」を基礎とする、「日本語」で形成されています。それが証拠にこの『学問のすすめ』自体が漢字を多用した日本語のそれも文語体で書かれています。
もし、漢学を否定して英語をそんなにも称揚したいのであれば、英文でかけばいいではないですか。
当時、ほとんどの人が読めないとは思いますが…。

この明治初期に、日本語の危機がおとずれていて漢字不要論(前島密)や日本語のローマ字表記論(西周)、果ては日本語不要論(森有礼)など極めて愚かしい論が起きています。

参考

【漢字廃止論】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96#:~:text=%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%98%E3%81%AF%E3%81%84,%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%94%B9%E9%9D%A9%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

【ローマ字論】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%AD%97%E8%AB%96#:~:text=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%AD%97%E8%AB%96%EF%BC%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%98%E3%82%8D,%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%82%B8%E8%AB%96%EF%BC%89%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

【日本語廃止論】
https://nakaii.hatenablog.com/entry/20101129/1291017366

現実にはそうはなりませんでしたが、本当に愚かな説だと思います。
漢字は東アジアが誇るべき素晴らしい表意文字であり、それこそ、私たちの祖先が培った言語や文字文化をそう易々と放棄していいはずがありません。
しかし、現在でも日本の会社であるにも関わらず、「社内言語は英語」とか、高校教育から漢文を外して英語教育にふり当てるべきだなどの暴論がまかり通っています。
わたはこの意見に与するわけにはいきません。
日本に生まれたからには、日本の言語、文字文化をもっと大切にするべきです。
なので、日本の言語文化の基礎にある漢文ももっと勉強すべきだし、私もそうしたいと考えています。

ところで、福澤の言説に従えば今でいう「文学」なるものはそれこそ「実益のない文学」であり、「その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ」ものではないのでしょうか?

であれば、なぜ現在の慶応義塾大学に文学部が存在するのでしょう?

大いなる謎であり矛盾です。

学問とは「日用の間に合」うものだけではないでしょう。学問とはそんなに底の浅いものであっていいはずがありません。

いわんや「古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。」などは、福澤の偏見ではないのでしょうか?

まさに、福澤の「漢学者憎し」の肌感覚的な私怨、偏見だと思われます。

もし、そうでないのであれば、そのような当時の統計学的裏付けを是非とも開示してもらいたいものです。

それこそがまさに正しい「学問的」あり方ではないでしょうか。


原文

されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

口語訳

ならば今、このような実益のない学問は後回しにしてもっぱら勉強するべきなのは、人の普通の日常に近い実学である。例えばいろは四十七文字を習い、手紙の文句、簿記の仕方、そろばんの稽古、てんびんの取扱いなどを覚え、そこからまた進んで学ぶ科目は、はなはだ多い。地理とは日本国中はもちろん、世界の万国の風土の案内である。物理学とは天地の万物の性質を見て、その働きを知る学問である。歴史とは年代記のくわしいもので、万国の古今のありさまを研究する書物である。経済学とは一個人や一家の世帯から、天下の経営を説くものである。倫理学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡る天然の道理を述べたものである。

私の批判

確かに福澤いうところの「実学」も大切かも知れませんが、学問とは「真理を探求する」ことにこそ真髄があると私は確信しています。でなければ先日その予想が解明された数学の「ABC予想」の証明など、それこそ「かかる実なき学問」であると言わざるをえません。
繰り返しになりますが、学問とはそんなに底の浅いものではありません。

参考

【ABC予想】
https://www.tokyo-np.co.jp/article/17301


原文

これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。

口語訳

これらの学問をするのに、西洋の翻訳書を調べ、たいていのことは日本のかなで間に合わせ、あるいは年少で才能のある者へは横文字も読ませ、一科一学も実際を踏まえ、事柄により物に従ってことの道理を身近に知り、現時点の必要を満たすべきである。以上は人間の普通の実学であり、人である者は貴賎や上下の区別なく皆がたしなまなくてはならない心得である。これを身につけた後に、士農工商など各自がその立場を尽くし、めいめいの家業を営み、自身も独立し家も独立し、天下国家も独立すべきなのである。

私の批判

ここでも福澤は「人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば」とやはり「貴賤上下」の身分差別の存在を前提に論をすすめています。
これも彼の差別意識の表れです。


原文

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋つながれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽けり放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然からず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。

口語訳

学問をするには分を知ることが肝心である。人の自然の生まれつきは、つながれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女で自由自在なのであるが、ただ自由自在とだけ唱えて分をわきまえなければ、わがまま放蕩におちいることが多い。そしてその分とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨害をせず、自分の自由を達成することである。自由とわがままとの境界は、他人の妨害をすることとしないことの間にある。たとえば酒色にふけり放蕩を尽くすのも、自分の金を使ってやることだから自由なようだが、けっしてそうではない。一人の放蕩は万人の手本になり、ついに世間の風俗を乱して人の教育の妨げになるために、使う金はその人のものであっても、その罪を許すべきではないのである。

私の意見

ここでも、福澤の上から目線の説教は続きます。
私が稼いだお金で何をしようと他人にとやかく言われたくはありません。

一言でいえば「大きなお世話」です。
このような差別意識にのっとた上から目線の説教にはほとほと辟易します。

(3に続く) 

※画像は若き福澤諭吉
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する