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2021年04月17日05:45

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憲さん随筆アーカイブス 福澤諭吉著作『學問のすゝめ』は読むに値するのか?1

フォト


この随筆は高校2年生の姪っ子のコロナ休みにおける課題図書の読書感想文の宿題の手伝いを頼まれて、憲さんが書いてあげたものに加筆したものです。

姪っ子がこの文章を学校に提出したかどうかは不明です。

以下


福澤諭吉著『學問のすゝめ 初編 』を読んで

2年G組

ゆかゆかハート

※課題図書
『學問のすゝめ 初編』

https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81_(%E5%88%9D%E7%B7%A8)

私はこの本を読んで思った第一印象はこうです。

「諭吉!何偉そうに言ってるんだよ?お前どの面さげてそんなことが言えるんだよ!?」です。

はっきり言ってこの著作から私が学ぶことは何もありませんし、読んでただただ嫌悪感しか覚えませんでした。

もっと言えば、こんな愚にもつかないような本を「名著」などとあがめている現代の知識人や慶応大学関係者の精神がわかりませんし、また、こんな「害毒あって一利なし」のような駄文を、私たちのような純真でいたいけな高校生に読ませて、感想文を書かそうという学校の見識すら疑ってしまいましたが、もしかしたら、批判的精神を修養させる意味での課題だとも思いましたので、そのような観点で、この課題に向き合いたいと思います。

まず、この『學問のすゝめ』について語る前に、その著者である、「福澤諭吉」なる人物と、それが著された時代背景を俯瞰していく必要があります。

まず、この福澤諭吉という人物ですが、私がよく知っているのは日本銀行券の一万円札の肖像画に描かれている人物としてです。

お札にその肖像画が描かれている歴代の人物といえば、伊藤博文や岩倉具視、さらに板垣退助などろくな連中がいませんが、ご多分に漏れずこの福澤なる男もろくな者ではありません。

参考

【日本紙幣の肖像人物】
https://entamedata.com/2020/11/05/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%99%E5%B9%A3%E3%81%AE%E8%82%96%E5%83%8F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E2%80%A5%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%81%8A%E6%9C%AD%E3%81%AB%E6%8F%8F%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%BA%E7%89%A9/

以下、月日は新暦換算、年齢は現代の満年齢とします。
また、地名は現代の表記とします。
例、江戸時代→大坂
明治以降→大阪
ですが、大阪に統一
また、面倒なので「學問のすゝめ」は「学問のすすめ」と表記します。

私が調べたところ福澤諭吉は・・・

1835年(天保6年・0歳)1月10日に大分県中津市の下級藩士の次男として大阪で誕生しました。
この頃は江戸時代で天保の改革を行う水野忠邦が老中に就任した頃で、天保の飢饉真っ只中にありました。

その後、彼は実父が他界し、叔父の養子となり、5歳から漢学と一刀流の稽古を始めました。
このころ、隣国の清にイギリスが侵略するアヘン戦争がおきています。

彼が14歳になったころ、近所の同年代の子供たちが読み書きを自由にでき、勉強に励んでおるのをみて、世間体の悪さを考え勉強を始めました。

学ぶといっても当時は武家のたしなみである漢籍を読むくらいで、8歳で「論語」「孟子」「詩経」「書経」「史記」「老子」「荘子」「左伝」を読んだと言われています。

1854年(安政元年)19歳で中津藩の要請で長崎へ行き蘭学を学びました。
この年の前年、アメリカのペリーが浦賀に来航し、ロシアのプチャーチンも長崎に来航しており、世情は異国船の襲来で騒然としています。

翌1855年(安政2年)、20歳のとき藩より中津に戻るよう言われましたが大阪にいた兄から蘭学を学ぶことを勧められ、大阪にある中津藩蔵屋敷に住まい緒方洪庵のもと適塾で蘭学を学びました。
しかし、チフスにかかり一時中津に帰郷します。

1856年(安政3年・21歳)、再び大阪へ出て学び、同年に兄が死に福澤家の家督を継ぐことになります。

1857年(安政4年)、22歳で適塾の塾頭となり、オランダの原書などを読み漁っています。

1858年(安政5年・23歳)、彼は江戸の中津藩邸から呼ばれ、そこで開かれていた蘭学塾の講師となり蘭学を教えます。(慶應義塾の発祥)

この頃、彦根藩の井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約を天皇の無勅許で調印し、その後各列強とも同様の条約を締結します。

1859年(安政6年・24歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に彼は出かけます。そこでは英語が用いられており、彼が学んできたオランダ語がまったく通じないことに衝撃を受け、それ以来英語の勉強を始めます。

この年に井伊直弼による安政の大獄がおこります。

1860年(万延元年・25歳)日米修好通商条約の批准のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として幕府の軍艦咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣することになり、彼は遣米副使の軍艦奉行木村摂津守の従者として、この咸臨丸でアメリカへ立ちます。また、この船の実質上の艦長が勝海舟でした。

福澤諭吉は渡米して文化の違いなどに驚き、同年5月に帰国します。

その際、同船した同じ通訳の中浜万次郎と「ウェブスター大辞書」の省略版を購入し日本へ持ち帰りました。

この年、水戸浪士による大老井伊直弼暗殺事件の桜田門外の変がおきています。

1861年(文久元年・26歳)に福澤は結婚し、翌1862年(文久2年・27歳)文久遣欧使節を欧州各国へ派遣することとなり、彼も翻訳方としてこれに同行することになります。

途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けたそうです。

ロンドンでは万国博覧会を視察し、ペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学したそうです。

この際、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っています。

これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、彼は日本に洋学の普及が必要であることを痛感し、1863年(文久2年)1月30日に帰国します。

1864年(元治元年・29歳)10月に、彼は外国奉行支配調役次席翻訳御用として幕府に出仕し、幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となりました。

1866年(慶応2年・31歳)『西洋事情』を著し、アメリカ独立宣言の全文を翻訳して載せています。

この万延から慶応にかけては、桜田門外の変からはじまる、薩長をはじめとする倒幕運動が激しさを増し、世情がさらに騒然とします。

1867年(慶応3年・32歳)彼は再度渡米します。

この使節の主席は前回咸臨丸で渡米したときの航海長であった小野友五郎です。

帰国後、彼は小野と揉めたためしばらく謹慎することとなりましたが、元浦賀奉行所与力中島三郎助の働きかけですぐに解けたそうです。

このように、彼は後に薩長と激しく闘うこととなる幕臣たちと交流しています。

参考

【小野友五郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%8F%8B%E4%BA%94%E9%83%8E

【中島三郎助】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%8A%A9

また、この再渡米の際に紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げました。

この1867年の末、朝廷は王政復古を宣言し、江戸開城となります。

1868年(慶応4年・明治元年・33歳)戊辰戦争が起こり明治に改元されます。改元前の4月にそれまでの蘭学塾を慶應義塾と名付けます。

1872年(明治5年・37歳)『学問のすすめ』を刊行します。これが大ベストセラーになります。

この年は、徴兵告諭がだされ、国民皆兵制となり、また新橋横浜間の鉄道が敷かれ、太陽暦が採用されました。

以上が、福澤諭吉の生誕から『学問のすすめ』を著すまでの彼の経歴と、その時代背景です。

簡潔に言えば、彼は幕末の激動の時代に生を受けながらも、語学の学習にあけくれ、その語学力を見込まれ通訳として幕臣となり諸外国にいき見聞を広めました。しかし、世間は「尊皇攘夷」、「御一新」の薩長の暴虐が吹き荒れているにも関わらず、彼は世間での騒然とした世相とは距離を置き、学問に没頭し、明治以降はあっさりと幕府を裏切り、しかしながら新政府にも入ることなく教育者としての道を歩み、『学問のすすめ』なる書物を著し、民衆に嫌味な御託を説いたといった訳です。

それでは早速、『学問のすすめ』なる彼の御託を読み進め批判していきましょう。

原文と口語約をあげ、その後私の批判を書きます。

(2に続く)

※画像は金融資本の手垢にまみれた福翁
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