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2021年04月04日16:24

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極東からみたロシア革命史−レーニンの歴史的責任を考える(2)

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(続き)

では、この尼港事件を引き起こしたトリャピーツィンたちは事件後どうなったのであろうか?

それが、本稿の一つの主題である。

以下、詳しく紐解こう。

ニコラエフクスでのパルチザンの住民大虐殺の後の3月16日に第一回サハリン州ソビエト大会が開催され、改めてトリャピーツィンの独裁的な革命体制が確立され、徴発、恣意的な逮捕、投獄は続いた。

4月4日に、ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨て、ウラジオストクにおいて、軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。
同月6日、ハバロフスクでの戦闘に日本軍が勝利を収め、赤軍は武装解除された。

4月20日、ニコラエフスクにも、ハバロフスクにおける戦闘、赤軍武装解除の噂が届き、解氷後に日本軍がやってくるであろうことを悟ったトリャピーツィンは驚き、直ちに全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢が取られた。トリャピーツィンはアムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置き、その重労働に女子供まで駆り出した。

同月29日に至って、日本はウラジオストク臨時政府と講和。これを受けて革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツィンとニーナ・レベデヴァ(トリャピーツィンの片腕の女性)は、「パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼き尽くす」という提案をし、了承された。
そのことは秘密にされていたが、噂として漏れ、5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民が皆全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴへ移動した。
しかし日本人には伝わらず、翌21日夜から、逮捕と処刑が始まった。日本軍決起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が老若男女問わず投獄され、次々に処刑された(内訳は、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名の合計122名と、病院に収容されていた傷病日本兵が17名)。
犠牲者は日本人以外にも、ユダヤ人、ポーランド人、イギリス人も含まれ、同月24日までの三日間に、3000人が無差別に殺されたと云われている。

その後も殺戮は続き、魔の手は街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れた住人にも及んだ。赤軍は武装探索隊を出して殺害して廻った。殺戮は10日間続き、町を離れる通行証を貰えなかった人々も殺される運命にあった。そして同月28日、川向こうの漁場に始まって四日間で町中が炎に包まれた。
尚、ニコラエフスクを破壊した理由について、パルチザンは焦土戦術とした。

このように、トリャピーツィン率いるパルチザンの虐殺は軍人も民間人も、赤白も関係なく無差別に行われた感が強い。

この事件を受け、ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは長文の声明文を打電したが、その内容は日本側が裏切り武装蜂起したことに対抗したとするものだった。

数々の情報(=凶報)を受け、日本国内では早急な救援隊の派遣が決定された。
まずは、既に第七師団より編成されていた増援隊を、サハリンのアレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。多門二郎大佐率いる部隊が4月16日に小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、22日にアレクサンドロフスクへ上陸した。

6月3日、多門隊が到着したニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた。怒りに燃える日本軍はトリャピーツィン一味を捕らえんとしたが、既に一味はニコラエフスクを脱した後だった。

救援の日本軍が到着したことで、ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストク、日本に現れ事件の全容が外部に知られ始めた。
こうなるとソビエト政権系のジャーナリズムは、当初の様にトリャピーツィンの言い分をそのままに赤軍の正義と日本軍の裏切りを言い立て続けられなかった。実態と真逆の大嘘が罷り通り続ける筈もなく、ボリシェヴィキも困惑し、危機感を持ったハバロフスクのソビエト代表団は、六月末にアムグン地域に出向き、反トリャピーツィングループと接触した。

反トリャピーツィングループを指導していた砲手アンドレーエフはソビエト代表団と接触したことによって、行動を起こし、7月3日の夜、ケルビのパルチザン本部で眠るトリャピーツィンとニーナ・レベデヴァが逮捕され、続いて指導部全員が捕らえられた。

同月9日、人民裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺となった。

しかし、判決文におけるトリャピーツィンの罪状は「5月22日から6月2日までのニコラエフスク大殺戮を許容したこと。」、「7月4日まで、サハリン州諸村でも虐殺命令を発していたこと。」、「ブードリンなど数名の仲間の共産主義者を射殺したこと。」に対してであって、日本人虐殺については、全く触れられていなかった。

このように、シベリアパルチザンの頭目トリャピーツィンはその片腕ニーナ・レベデヴァと共に「革命」の名において短期間で大量の人民を殺害し尽くし、そしてボルシェビキの「革命」の名において処刑されたのである。

これをもって、その悪逆非道の規模こそ違え、憲さんにしてトリャピーツィンをシベリアの相楽総三と言わせる所以(ゆえん)である。

また、見方によってはかのアメリカ映画『俺たちに明日はない』のモデルとなったボニー&クライドとも言えなくもない。

参考

【俺たちに明日はない】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AB%E6%98%8E%E6%97%A5%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84

【ボニー&クライド】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%89

では、ここで疑問となるのがこのトリャピーツィン一味の蛮行をボルシェビキ革命政権中枢の指導者レーニンはどう評価し、またどのように指導していたかである。

これについては憲さん、色々と調べたが圧倒的に資料が少ない。

そもそも、「尼港事件」についての日本語の資料が少ない上に、その数少ない資料も事件を日本側から捉えた物で占められている。

その数少ない日本語の資料の中で、事件直後に尼港事件の概要を報告した白系ロシア人のアナトーリー・グートマンの著した『ニコラエフスクの破壊』が近年邦訳され『ニコラエフスクの日本人虐殺 一九二〇年、尼港事件の真実』として出版されている。(アナトーリー・グートマン 著/長勢了治訳)。

当然ながら白系ロシア人の著作故に革命ロシア、ボルシェビキには極めて批判的な筆致ではあり、パルチザンについても「モスクワの支配者は極東で極めて少数の意識的な信奉者集団しか持っておらず、それも主として地方に住み着いた前科者、沖仲仕、脱走兵、革命時に米国から多数やって来た亡命者だった。赤旗は千のシンボルとして、タイガになじみ泥棒稼業が好きな人々を惹き付け、彼らの後にはボルシェビキの空約束に誘惑された無知蒙昧な農民が続いた」などと散々な差別的な表現を用いておるが、中には多くの当時の証言や資料を採録しておりかなり事件の真相に切り込んでいる。

その著書の第七章「トリャピーツィンとソビエト政府との関係」という章に憲さんの疑問に答えてくれる記述が数は少ないが存在した。この章を読むとボルシェビキがどのように極東の赤化を推し進めたかもおぼろ気ながらわかるので紹介しよう。
(それにしてもこの著作、ロシア語の訳書なので言い回しが複雑で大変読みづらいがご容赦願いたい。)

参考

https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101122

以下、引用。()内は憲さん注

65ページ
「トリャピーツィンはハバロフスク革命委員会によって派遣され、必要なものはすべて支給された。」

67ページ
「ザバイカル州の郡役所のあるヴェルフネウジンスク(現ウラン・ウデ)では、『ヴェルフネウジンスク民主共和国』(極東共和国・1920年3月7日、ソビエト政権のレーニンが日本のシベリア出兵に対峙すべく建国し、1922年11月19日まで存在した短命な極東のソ連側傀儡政権)が宣言された。悪名高いクラスノシチョーコフ(極東共和国大統領)が表舞台に踊り出てきた。彼は白軍派に対する作戦すべてを指揮し、モスクワによってヴェルフネウジンスク共和国の『大統領』に任命された。」

67ページ
「ハバロフスク(の白軍)は1920年1月ころもはや断末魔の状態にあった。(中略)やがてハバロフスクはボルシェビキ・パルチザンが占領し必要なコミッサールをすべて備えた革命委員会の形で赤色『臨時政府』をつくった。同様のことがブラゴヴェシチェンスクでも起きた。」

71ページ
「トリャピーツィンはオホーツクの無線局の助けでみずからの成果(1920年2月のチヌィラフ要塞の陥落)をモスクワに知らせており、イルクーツクから転送されたレーニン署名のモスクワのソ連人民委員会議とモスクワ代議員ソビエトの熱烈歓迎のメッセージを無線で受け取っている。」

72ページ
「ハバロフスクのソビエトの手先、イルクーツクソビエト、中央ソビエト、トリャピーツィンの間では完全な連絡がついており、しかもトリャピーツィンの権威がボルシェビキの眼前で高まったことだ。ソビエトの政策の一般的動向にかかわる仕事に彼をひきいれ、レーニン自身が彼を歓迎するほどだったのだ。」

72ページ
「(ニコラエフクス)包囲攻撃のとき、トリャピーツィンは無線でイルクーツク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクに包囲した街への軍事行動について報告している。トリャピーツィンは2月19日にモスクワとイルクーツクへ送った電報でソビエト政権打倒に加わった分子(すなわち全住民・著者注)が殲滅されるまで、また全サハリンでソビエト政権が導入されるまで戦うと明確に明言している。(中略)モスクワとイルクーツクとハバロフスクの首脳部は『卑劣な一味と日本帝国主義者に反対するプロレタリア独裁の勇敢な守護者(トリャピーツィン)に熱烈な同志の挨拶』を送っているのだ。」

と、これまでの記述でこの著者が何を言いたいのかお分かりだろう。

この白系ロシア人の著者の「ボルシェビキ許すまじ!」の思想に起因する皮肉の効いた表現をを差し引いても、尼港事件を引き起こしたトリャピーツィンとモスクワ=ソビエト政権中枢=当時のソビエト指導者レーニンはその間に意志疎通と方針の一致があったというのは事実であることが判る。

もし、この著作の記述に捏造がなければその通りであろう。

これに対してこういう意見がある。(前出個人ブログ)

以下、ブログ引用

また、トリャピーツィンの犯罪の責任をソビエト政府に全面的に帰すのは無理が有るのも分かる。
(中略)
まして当時のソビエト連邦の最高権力者はあのスターリンだったのである。
ただ、意外にも(と言ったらロシア人に甚だ失礼だが)事件後、ソビエト連邦政府は尼港事件の責任者の罪を糺して処刑した。
勿論、いくらこの尼港事件が陰惨で非道な事件だったとはいえ、スターリンを初めとするボリシェヴィキ政権、及びその後の正式なソビエト連邦が命じたものとは思えない。
事件の加害者を庇ったり、弁護したりする気は更々ないが、軍隊の一部が暴走したもので、ソビエト政府にしてみれば、フツーに犯罪者を裁いた感覚だろう。
別の言い方をすれば個人や国家の非を決して認めないであろうスターリンをもってしても、逆ギレ・正当化が不可能と思わざるを得ない程、尼港事件は酷い事件だったということである。

以上、引用終わり。

引用元

http://saikondojo.g2.xrea.com/encounter8.html

まず、このブログの記述には決定的な間違いがある。

それは、この尼港事件が起きた1920年、ソビエト共産党の指導者はレーニンでありスターリンではないということだ。

レーニンは1924年に亡くなるが1920年当時はバリバリの現役でありスターリンなどの出る幕はなかったのである。

それは、前出の『ニコラエフスクの日本人虐殺 一九二〇年、尼港事件の真実』を読んではっきりすることだ。トリャピーツィンは「レーニン署名のモスクワのソ連人民委員会議とモスクワ代議員ソビエトの熱烈歓迎のメッセージを無線で受け取っている」ぐらいなのだから。

では、「トリャピーツィンの犯罪の責任をソビエト政府に全面的に帰すのは無理が有る」のだろうか?

これについてグートマンの著作からさらに引用する。

以下、引用。

75ページ
「(尼港事件後)モスクワの支配者も心配しはじめた。モスクワはトリャピーツィンが『塩を効かせすぎた』こと、日本は自国の守備隊と居留民の非業の死を許さないことを理解していた。」

「チチェーリン外務人民委員(ソ連の外務大臣)は取り急ぎ無線で日本政府に『ソビエト政府の名において流血につき心から深甚なる遺憾とニコラエフクスの犠牲者への哀悼の意』を表した。」

75ページ
「ボルシェビキは一方で日本の将軍との会談では日本軍に取り入ってトリャピーツィンとその本部の罪を認めながら、自分たちの新聞や宣伝ビラではニコラエフクス・パルチザンの英雄的行為を讃えて日本君に不快な思いをさせ続けた。」

そして、さらに第十二章「トリャピーツィンの逮捕と処刑」でこう述べている。

134ページ
「おりから、ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、そして日本にも助かったニコラエフクス避難民が現れて惨禍の詳細を伝えだした。共産主義者は困惑したが、早くスキャンダルをもみ消し、事件の責任をトリャピーツィンとその本部になすりつける必要かあると考えた。共産主義者は他にどうしようもなかった。惨禍はあまりにも大きかったし、この犯罪における地元ソビエト政権の精神的、物理的(武器、金銭、商品)な関与はあまりにも明白だったからだ。」

「トリャピーツィンの悪行が不意に発覚したことでボルシェビキのすべての意図がくじかれた。気がついたらボルシェビキはきわめて不快な事件を何とか鎮静させる差し迫った必要性に向き合っていたのだ。(中略)懲罰派遣隊はトリャピーツィン本部のすべての公文書、とりわけハバロフスク、ウラジオストク、イルクーツク、モスクワとの往復書簡を奪取する任務を帯びていた。」

そして、トリャピーツィンは1920年6月に軍事革命本部議長のアンドレーエフによりニーナ・レベデヴァと共に逮捕さらた。

その時にパルチザンや非戦闘員の住民に発せられた檄文にはこうある。

「トリャピーツィンが率いる冒険主義者のグループはロシア人特有の弱さと信じやすさを利用し、大げさで立派に聞こえるスローガンでごまかして権力を手にし、人民の福祉を考えているかのようなふりをしながら、裁判も取調べもなしに無実の人も罪のある人も手当たり次第に銃殺した。(中略)トリャピーツィンの親衛隊は全員を白軍派の範疇に当てはめ。歴戦の老パルチザン数十人を銃殺し、乳児を含む女子供を銃殺した。」

これが、トリャピーツィン一味に対するソビエト政権が下した罪状であった。

当然と言えば当然である。

そして、「人民裁判」を経てトリャピーツィンとその一味は7月9日に銃殺刑の有罪判決が言い渡され、当日夜に処刑が行われた。

トリャピーツィン23歳、ニーナ・レベデヴァ21歳であった。

また、このトリャピーツィン裁判を行った副裁判長も興味深い証言を残している。

以下だ。

「ニコラエフクスのトリャピーツィンの執務室にはハバロフスクの無線局と結ぶ直通電話があり、それにより直通モスクワのレーニンと連絡を取っていた。トリャピーツィンが街を奪取する前にモスクワのソビエトから電報を受け取った(前出)。街を奪取したあと、三月事件(尼港事件)の数日後にレーニンがトリャピーツィンを極東ソ連軍の司令官に任命したとの電報をモスクワから受電した。」

このように、当時23歳のシベリアパルチザンの頭目トリャピーツィンと世界の偉大な革命家の当時50歳レーニンとは直通電話のホットラインで結ばれており、指導・被指導の関係が成り立っていたことも伺われ、さらにはレーニンはトリャピーツィンを極東ソ連軍の司令官に任命したというのだから驚きである。

レーニンはかの粗野で野蛮なスターリンを己の後継者にはするなと忠告したにもかかわらず、このトリャピーツィンの野蛮さは見抜けなかったのであろうか?

このように、トリャピーツィンの犯した蛮行は上記のブログの筆者が言うような「トリャピーツィンの犯罪の責任をソビエト政府に全面的に帰すのは無理が有るのも分かる。
 勿論、いくらこの尼港事件が陰惨で非道な事件だったとはいえ、スターリン(レーニンの誤り)を初めとするボリシェヴィキ政権、及びその後の正式なソビエト連邦が命じたものとは思えない。」

で済まされるのであろうか?

憲さんはこの意見には首を傾げざるを得ない。

ここで、憲さんが冒頭に指摘した日本の幕末期に起きた相楽総三率いる赤報隊の「偽官軍事件」を思い返す。

赤報隊も薩摩の西郷隆盛に「革命」のための走狗としていいように使われて、そして西郷の意に沿わなくなったという理由で捕縛、処刑された。

相楽たち赤報隊の蛮行もトリャピーツィンには比べ物にならないが、甚だひどいものであった。

そこには、相楽総三のようなならず者を「革命」に利用した西郷の任命責任と指導責任があるはずである。

トリャピーツィンについても同様であろう。

尼港事件の実態が甚だ反人民的であるのは明らかである。
しかし、そのようの人物をシベリアパルチザンの頭目に据え、果ては極東ソ連軍の司令官に任命したというレーニンの責任は免れまい。

そして、その蛮行を知るやすぐさま処刑する。これを見るとレーニンが憲さんが大嫌いな西郷隆盛のようにも見えてくると言ったら言い過ぎであろうか?

この事件は、レーニンにおいて己の後継者が自身の望まぬスターリンとなってしまった歴史的事実により、その後の社会主義とソビエトと世界の歴史が悲惨な結末に至ってしまったという、すなわち「ボルシェビズム」という人民の為にもなり反人民的ともなりうる諸刃の武器を凶暴で粗野な男に引き渡してしまったという責任と同等の問題を孕んでいるのではなかろうか?

憲さんは生意気にもそう考える。

このように、日本の侵略戦争も反人民的で凶悪な暴力であるが、レーニンが言うところの「内乱」もその実態は極めて暴力的なテロルの応酬であり、そして誰が労働者的で誰が反労働者的か、はたまた誰が人民の味方であり誰が人民の敵かなどは内乱期の混乱の中ではかの偉大な革命の指導者レーニンですら判然としなかったというのが実情ではなかったのだろうか?

「革命とはそういうものだ」と言ってしまえばそれまでだが、憲さんは暴力を振るうのも振るわれるのも「御免」であるのが率直な気持ちである。

「尼港事件」とは、今や歴史の陰に埋もれてしまった感が否めないが、日本と革命ロシアとの関係、侵略戦争の問題、暴力の問題を考える上で避けて通れない歴史的重大事件であろう。

冒頭にも述べたが、この事件を契機に、日本は7月、サハリン州に派遣軍を派兵し北樺太を占領する。
そして、その占領は1925年(大正14年)5月15日、日ソ基本条約締結により日本はソ連と国交を樹立するまで続き、これにともない日本軍は北樺太から撤兵するが、条約により北樺太の天然資源の利権を獲得する。

そして、日本政府と日本軍はこの歴史から何も学ぶことなくさらなる侵略戦争の泥沼に突入していくのだ。

(´Д`)=*ハァ〜

しかし、最後になるがこのトリャピーツィンというロシアの青年、なぜこのような前代未聞の凶行に及んだのであろうか?

それが、正義だと確信していたのか?

それとも、もともと暴力的な性格だったのであろうか?

彼の生い立ちは、グートマンの書いた『ニコラエフクスの日本人虐殺』にも「ヤーコフ・トリャピーツィンは26〜28歳(裁判の判決記録と異なる)、ペトログラードの工場出身の労働者でヴォルガ地方へ行き、1919年春にサマーラからイルクーツクへ向けて出発した。」としか書いていない。

また、その右腕のニーナ・レベデヴァ=キヤシコも、20〜25歳くらいの女でモスクワ出身らしい。

このロシアにおける大都市出身の二人がどう出会いどのような思想の変遷を経てかような大惨劇を引き起こしたのかそれらは手許にある基となる資料が少な過ぎてわかりかねる。

また、このような惨劇を数人のパルチザン指導者のみでできるわけもなく、それを実行した労働者農民のパルチザンは何を思いその凶行に手を染めたのであろうか?それらももっと明らかにされるべきであろう。

そして、このような惨劇を二度と起こさないということが今を生きる人間として重要であり、真に歴史から学ぶということではないだろうか?

最近のミャンマー情勢をみるにつけ、そしてこの長い論考を書いて憲さんは改めてそう考えた。

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像1枚目は尼港事件を起こしたトリャピーツィンとその一味。横たわる白いシャツがトリャピーツィン。2枚目はロシア革命を指導したレーニン

参考文献
・広岩近広『シベリア出兵「住民虐殺戦争」の真相』
これは、良著なのでぜひおすすめします。

・高校歴史教科書各種
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