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2021年04月04日16:20

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極東からみたロシア革命史−レーニンの歴史的責任を考える(1)

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憲さんの好きな岡本喜八監督の映画に『赤毛』という作品がある。
これは、幕末期に実在した相楽総三率いる「赤報隊」をモデルにした映画である。

この映画の舞台は慶応4年(1868年)、徳川の世から明治の世へと体制が大きく変わる変革期である。
百姓あがりの赤報隊士・権三(三船敏郎)は赤毛をなびかせて故郷に錦を飾る。彼は代官屋敷から年貢米を百姓に返したり、借金を棒引きにして女郎たちを解放したり、得意の絶頂にいるが、利用価値なしと判断した白毛の官軍によって抹殺される……。
民衆に密着していたがために変革の先頭に立ち、それゆえに銃火を浴びる。赤報隊の一隊士に「明治維新」の矛盾を結晶させた異色作である。

参考

【映画『赤毛』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%AF%9B_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

この映画には田村高廣演じる赤報隊の首領相楽総三も登場する。

この、相楽総三という御仁、生まれは下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士である。

慶応2年(1866年)、28歳にして京都に上り志士活動を続けた際、薩摩の西郷隆盛、大久保利通らと交流を持つようになり、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。

慶応3年(1867年)西郷の指示により、薩摩藩士益満休之助と伊牟田尚平、そして相楽が中心となって、江戸の薩摩藩邸を拠点とし、同志を募って関東の擾乱を企てた。相楽らは江戸で放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。

相楽たちの挙兵は目論見どおり旧幕府方を刺激し、庄内藩と旧幕府軍による江戸薩摩藩邸の焼討事件に発展した。この焼き討ちは鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなり、この報告を受けた西郷は相楽たちの功を称賛したという。

江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、相楽は独断で東山道に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告した。

相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになる。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた小諸藩など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。出頭した相楽は信濃国下諏訪宿で捕縛される。

同年3月、相楽を含む赤報隊幹部8人は、下諏訪で処刑された。相楽は享年30歳。

結論から言えば相楽は薩摩の西郷隆盛や大久保利通らにいいように使われて捨てられた「明治維新の捨て駒」に過ぎなかったのである。

参考

【相楽総三】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A5%BD%E7%B7%8F%E4%B8%89

このエピソードをみただけでも「明治維新」がどれだけ欺瞞に満ち、「維新の英傑」なる西郷や大久保がどれだけ腹黒い輩なのかがよくわかるであろう。

この、相楽総三の「赤報隊」については機会があったら詳しく論じたいとは思っている。

今回紹介するのはこの日本の幕末期における相楽総三と同じような生き様を歩んだ男の話である。

その男はロシア人でトリャピーツィンと言う。

誰かって?

確かにこの男の名前は歴史の教科書には出てこない。

しかし、「尼港事件」といえば真面目に歴史の勉強をしていた人ならピンとくるはずである。

「尼港事件」とは?

復習しよう。

【尼港事件】
1920年、シベリアの黒竜江河口ニコラエフスク(日本名、尼港)を占領した日本軍が、抗日パルチザン(抗日武装ロシア人)に包囲され、日本将兵・居留民ら推定700余人が殺害された事件。(山川出版『日本史用語集』より)

相も変わらず、何の興味も惹かない無味乾燥な教科書的記述であるが、簡単に書くとこの通りである。

そして、「トリャピーツィン」なる男はその「尼港事件」を引き起こした「ロシア人パルチザン」の頭目の男なのである。

さて、なぜ憲さんがこの「尼港事件」をにわかに注目したかというと、先日憲さんが書いた映画『氷雪の門』についての随筆を執筆するのに樺太の歴史について勉強したからである。

その時、樺太の歴史でこう述べた。

以下、憲さん随筆からの引用である。(日露戦争後から紐解く。)

1905年(明治38年)7月 、日露戦争末期に日本軍が樺太島に侵攻・攻略した(樺太の戦い )。日露戦争の日本側の奇跡的な勝利により、ポーツマス条約締結後南樺太は日本の領土となり、北樺太はロシアに引き渡した。

と、ここに来て樺太は日本とロシアの南北分断統治となった。

1917年のロシア革命により帝政ロシアは倒れレーニン率いるボルシェビキが政権を奪取、ロシアは社会主義国家のソビエト連邦となる。

これに対して日本は反革命干渉として、チェコスロバキア兵救出を名目に1918年にシベリア出兵を強行した。
そして、これに対するソ連のカウンターとして1920年(大正9年)シベリア黒竜江河口のニコラエフスク(尼港)において武装ロシア人による抗日パルチザン戦により、日本人将兵、居留民が無差別に700人が殺害されるいわゆる尼港事件が起きる。(この事件についても憲さん、これから色々と調べようと思っている。→その実践が本稿)

この尼港事件の発生を受け、日本は更なるカウンターとして7月、サガレン(サハリン)州派遣軍を派兵し北樺太を占領する。

1925年(大正14年)5月15日、日ソ基本条約締結により日本はソ連と国交を樹立、これにともない日本軍は北樺太から撤兵するが、条約により北樺太の天然資源の利権を獲得する。

以上、引用終わり

参考

憲さんの日々随筆
「8月15日敗戦後の地上戦−映画『樺太1945年夏 氷雪の門』をみて」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/03/post-a2666d.html

と、このように「尼港事件」とは樺太の歴史を紐解く時には必ず出てくる事件であり、その事件を奇貨(きか)として日本軍は北樺太の占領を強行したのである。

では、「尼港事件」とはどのような事件であったのかある程度詳しくみていく必要があろう。

そもそも、「尼港事件」は日本軍のいわゆる「シベリア出兵」に端を発した事件である。なので、話は「シベリア出兵」から始める。

皆さんはどうか知らないが、今のロシア、以前のロシア帝国、そして今はなきソビエト連邦は「モスクワ」のイメージが強く
日本から遠く西に離れたヨーロッパに近いイメージがあるが、さに非ず。

地図を開いてもらえばわかるが、(現在ロシアが実効支配している国後島を除いても)宗谷海峡を隔ててあるロシア領のサハリンの南端と日本最北端の稚内市の宗谷岬は、距離にするとたった43キロ。これは東京駅から八王子駅までぐらいの距離しか離れていないということになり、日本から一番近い隣国でもあるのだ。

参考

https://www.knt.co.jp/tabiplanet/kaigai/190320/

さらに、ロシアの大陸の東の玄関口であるウラジオストクまで、東京から飛行機で二時間半とこれまた近くにある隣国なのである。

参考

https://www.knt.co.jp/tabiplanet/kaigai/190320/

このように、ロシアとは西はバルト海に面したサンクトペテルブルグから東は日本海に面したウラジオストク、果ては樺太、カムチャッカ半島と東西に長い世界で一番広大な面積を擁する国なのである。

そして、日本とは紛うことなく日本海や宗谷海峡を挟み隣国同士であり、よって北方領土問題などの国境問題を未だに抱えているのである。

また隣国故に日本はこのロシアと何回か干戈(かんか)を交えている。

その最たるものが1904年に起きた日露戦争である。

これは、明治の大日本帝国が満州・朝鮮半島の権益を巡ってロシア帝国と戦った戦争である。

また1938年、朝鮮半島北のソ満国境東部張鼓峰での日ソの武力衝突であった張鼓峰事件、1939年に満蒙国境を巡って日本とソ連・モンゴル軍と武力紛争に発展したノモンハン事件。

さらに、先日述べた太平洋戦争末期、ソ連が日ソ中立条約を破棄し対日参戦して起きた満州侵攻や南樺太戦、占守島の戦い等がそれである。

しかし、これらと同じくらい重要な戦争がロシアと日本の間に起きている。

それが、いわゆる1918年に開始された「シベリア出兵」である。

この、シベリア出兵、用語として「出兵」とついているから「戦争」ではないと勘違いしがちだが、決してそんなことはないのである。

これは紛ごうことない日本のソ連に対する反革命干渉戦争=侵略戦争以外の何物でもなかったのである。

では、なぜ日本はシベリアに「出兵」したのであろうか?
これは、1917年に起きた「ロシア革命」と深い関わりがある。

「ロシア革命」というと、日本のはるか遠くの当時ロシアの首都であったペトログラード(現サンクトペテルブルグ)で起きた革命だという印象が強いが、これもさにあらず。これはシベリアの極東地域も含め日本のまさに隣国全土で起きた「共産主義革命」に他ならなかったのである。

1917年3月、ロシアの首都ペトログラードで二月(ロシア暦)革命が起き、臨時政府が樹立され皇帝(ツァーリ)は退位した。

この臨時政府は立憲民主党(今の日本にも同名の政党がある!?立憲君主制を目指すブルジョア政党)=カデットと社会革命党(ナロードニキ〈農村共同体をロシア再生の出発点と考えた人民主義者〉の流れをくむ社会主義政党)=エスエルが中心の政権であり、第一次大戦については連合国との協力を続け戦争継続の方針をとった。

さらに、この二月革命は「労働者の自己権力」である労働者・兵士代表ソビエト(評議会)をつくり出した。

しかし、革命の主体となった労働者・兵士は帝政打倒の革命に勝利したにもかかわらず、自分たちが国家権力を掌握することには無自覚であり、ソビエトの主導権は、メンシェビキ(社会民主労働党右派)やエスエル(社会革命党)に握られていた。
彼らの指導するソビエト執行部は、二月革命を労働者革命へ発展させること、つまりブルジョアジーの政府である臨時政府を打倒してソビエトが権力を握ることに反対した。こうしてロシアは、臨時政府とソビエトの「二重権力状態」となっていた。
 こうした中で4月3日に社会民主労働党ボルシェビキ派の指導者レーニンは亡命先のスイスからロシアに帰国し、翌日に「四月テーゼ」を発表する。この四月テーゼにおいて、レーニンは「臨時政府打倒=全権力をソビエトへ」の路線で党を再武装する。

参考

【四月テーゼ】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9C%88%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC#:~:text=%E5%9B%9B%E6%9C%88%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC%20(%E3%81%97%E3%81%8C,%E3%81%AB%E5%85%A8%E6%96%87%E3%82%92%E5%BC%95%E7%94%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

そしてボルシェビキがソビエトの主導権を握ったことをもって、レーニンは「武装蜂起=権力奪取は可能である」と判断しし、10月10日のボルシェビキ中央委員会は、10月25日開催予定の第2回ソビエト大会までに武装蜂起を決行することを決議しする。
臨時政府は24日早朝にボルシェビキの機関紙印刷所を襲撃・占拠。軍事革命委員会はこれを契機に武装蜂起、26日未明には臨時政府の閣僚が全員逮捕され、1917年11月(ロシア暦10月)、十月革命は歴史上まれにみる「無血革命」として勝利した。
そして、25日夜に始まった第2回ソビエト大会で新政府=「人民委員会議」の議長にレーニンが就任した。
このように、世界初の帝国主義戦争は、レーニンおよびボルシェビキの指導と労働者の力で、「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンの下、世界初のプロレタリア革命に転化され、史上初の社会主義国家が誕生した。

以上が、ロシア革命の簡単なおさらいである。

この、世界初の「赤色革命」に震え上がったのが日本を始め各国の帝国主義者たちであった。

ロシアの権力を奪取したボルシェビキの指導者レーニンは第一次大戦の終結を優先させ、ドイツなど敵であった同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国)側と単独の講和条約を結ぶ。(ブレスト=リトフスク条約)。これに慌てたのが英仏などの連合国(協商国)であった。

参考

【ブレスト=リトフスク条約】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84

ロシアの戦線離脱により同盟国の中心であるドイツが西部戦線に兵力を集中することを懸念し、英仏の連合国の指導者はパリで最高軍事会議を招集した。

この会議で、英仏は連合国の日本とアメリカに、シベリアへの派兵を要請する。

これに対してアメリカは当初自国はもとより日本の出兵にも反対する態度をとっていた。

しかし、日本の陸軍はアメリカの反対を押しきってでもシベリアに出兵すべきだと主張した。

これは、英仏のシベリア出兵の要請を梃子(てこ)にシベリアの植民地化、あわよくばシベリアに反共の傀儡政権を樹立させたいと目論む算段であったことは言を待たない。

事実、日本の陸軍参謀本部は「居留民のため極東露領に対する派兵計画」を策定し、参謀次長の田中義一(後の内閣総理大臣)が中心となりバイカル湖以東の極東シベリアに反革命政権の独立自治国家を形成させたいと目論んでいたのだ。

そして、1918年4月ウラジオストクで日本人殺傷事件が起こると、ウラジオストク港に係留して上陸の機会をうかがっていた日本海軍は「待ってました!」とばかりに陸戦隊を上陸させた。

これに対してレーニンはウラジオストクのソビエトに宛て電報で日本が本格的干渉に乗り出すことを予想し、「幻想を抱くなかれ、日本は間違いなく突進してくる」と警告を発し、日本の干渉への抵抗を説いている。

また、日本の陸軍は1918年1月に親日傀儡政権の樹立のための工作をするため、特務機関を設立した。そして、反革命政権を目指すバイカルコサック出身のアマタン・セミョーノフに近づく。

参考

【セミョーノフ】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%95

日本帝国陸軍には、「日本海内海化構想」なるものがあった。すでに押さえた朝鮮半島と隣接する満洲、さらにバイカル湖以東のシベリアとロシア極東に、日本の傀儡政権を樹立して勢力圏を確保するという軍事構想であった。

また、海軍は海軍で反革命新政権を旗印に活動しているデルベルを援助し、親日傀儡政権の担い手を求めて陸軍と海軍が激しい鞘当てを演じていた。

さらに政界ではアメリカとの「協調出兵」を主張する後の首相原敬や枢密院顧問の牧野伸顕と、「主導的出兵」を主張する元内相で外相に就任した後藤新平が対立していた。

そして、1918年7月に事態は急変する。アメリカのウィルソン大統領が共同出兵を日本に打診してきたのだ。それはロシア国内の極東地域に取り残された反革命軍のチェコスロバキア軍団の救援が表向きの目的だった。

これを受けた後藤新平は「出兵すべし!」と閣議を主導しためらう寺内正毅首相を説得したのだ。

かくして、1918年8月2日寺内内閣はシベリア出兵を、宣言した。

このようにロシア極東とシベリアに干渉軍を派遣することになったのが、日本と米国の連合軍を中核とした15カ国に及ぶ「多国籍軍」であった。

これは、宣戦布告さえないものの、事実上のソ連に対する多国籍軍の干渉戦争に他ならなかった。

このシベリア出兵が宣言された翌日、富山県での米高騰に対する漁村の主婦達の女房一揆を機に全国的な米価引き下げ、安売りを要求した米騒動が起きる。シベリア出兵の報道は米価騰貴に拍車をかけたのだ。
また、この米騒動の鎮圧に軍隊も動員されていた。
このように、シベリア出兵が開始された時点で同じ軍隊の一部が国内の民衆運動の弾圧に出動し、生活難故に決起した無辜の民衆に弾圧を浴びせたのだ。この大規模な軍隊の国内治安出動は日本の民衆の軍隊観を大きく揺るがせて、さらに言えば兵士の士気にも影響を与えた。
人々は軍隊に対して冷淡となり、兵士は自分自身で惨めに万歳を唱えシベリアへと出征していったのである。

このような中、最初にシベリアのウラジオストク入りしたのは小倉の陸軍の第12師団であった。
この間日本の陸軍は特務機関によって反革命派のセミョーノフを支援し、そのセミョーノフ軍は4月にザバイカル州に攻めいったがボルシェビキ軍に撃退されている。

この頃、日本国内では米騒動やシベリア出兵の言論弾圧への反発が強まり、ビリケン(非立憲)こと、寺内正毅内閣は退陣に追い込まれ、華族の爵位を持っていない原敬が平民宰相として最初の本格的政党内閣を組閣した。1918年9月である。
また、この内閣での陸相はシベリア出兵に積極的な田中義一であった。
そして、これ以降原と田中がシベリア出兵の舵取りを担う。

この頃、ロシア領シベリア内における反革命勢力の主導権争いから黒海艦隊の元司令官(海軍中将)のコルチャークが将校たちに担がれて「全ロシア臨時政府」の最高執政官に就任した。この政権はシベリア鉄道の主要駅オムスクを拠点としたので「オムスク政権」と呼ばれた。

参考

【コルチャーク】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%AF

原内閣は1919年9月にこのコルチャーク政権支援を閣議決定した。これに対してセミョーノフ軍を支持していた陸軍参謀本部は反発するが、陸相の田中義一が参謀本部を説得してコルチャーク支援を取り付けた。

結局日本は、列強である米・英・仏・伊の同意を取り付けられず、単独でコルチャーク政権を承認し、田中義一はコルチャーク政権に対する援軍として増派を閣議に諮り、原内閣も駐米大使の幣原喜重郎を通じて米国にシベリア増兵を打診したが、アメリカは日本の増兵すら同意しなかった。

その間、コルチャークは首都をオムスクから東方のイルクーツクに移り80万人を有した軍もわずか2万人と減り事実上崩壊していたのだ。

これは、日本政府のシベリア政策が勇み足の上に見通しを誤った失策であったことからきたものであった。

そして、そのような日本の強引なシベリア出兵の中でかの尼港事件は発生したのである。

この尼港事件の首謀者が先に述べたヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィンであった。

この尼港事件とは、港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスク(尼港)を、パルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。
この中で日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、在留邦人は軍人、民間人併せてほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。

参考

【尼港事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

さらに、尼港事件の詳細はこのサイトが詳しい。参考にしてください。

http://saikondojo.g2.xrea.com/encounter8.html

と、このように尼港事件だけを切り取って描くとトリャピーツィン率いるソ連赤軍パルチザンの悪逆非道さと反人間性が際立つ事件として語られる。

事実、この事件は歴史修正主義者がよく反ソ反共反ロシア宣伝の材料に利用しているのを見かける。

参考

https://youtu.be/VnOY1u_uTkA

しかし、この事件の発端はそもそも日本のロシア革命を契機としたシベリアへの領土拡大の侵略的野望と反革命干渉戦争が引き起こした事態であるという認識を捨象してはなるまい。

また、個別具体的にもこの尼港事件へ至る過程を見落としてはならないのだ。

それが、1919年2月25日に起きた「ユフタの戦い」と1919年3月22日に起きた「イワノフカ事件」である。

靖国神社の境内に「西伯利亜出兵 田中支隊忠魂碑」という大きな石碑が建っている。憲さんも、お花見に行ったとき見かけたことがある。

参考

【田中支隊忠魂碑】
http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp/%E4%B9%9D%E6%AE%B5%E5%8C%97/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%94%AF%E9%9A%8A%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91%EF%BC%88%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89

これが、実は「ユフタの戦い」において全滅した田中支隊の忠魂碑なのである。

ユフタの戦いとは、1919年2月25日、シベリア出兵中の日本軍(田中支隊)が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対するパルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、ロシアアムール州のユフタにおいて日本軍がほぼ全滅した戦闘である。

参考

【ユフタの戦い】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%95%E3%82%BF%E3%81%AE%E9%97%98%E3%81%84

この田中支隊の全滅は、帝国陸軍始まって以来の大惨事でありこの全滅の事実の詳細は軍部によって伏せられたのだ。

そして、このユフタの戦いを受けて行われた日本軍の報復が「イワノフカ事件」である。

イワノフカ事件とは、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対するパルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、革命派武装勢力派のイワノフカ村(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)を白軍と共に焼討ちし、数百名の村民を焼殺および銃殺した事件である。

参考

【イワノフカ事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6#:~:text=%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6%EF%BC%88%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%AE%E3%81%B5,%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E9%83%8A%E5%A4%96%EF%BC%89%E3%82%92%E7%99%BD%E8%BB%8D

このように、日本軍のシベリア出兵は日本軍とそれが支援する白軍と赤軍パルチザンとの間で血で血を洗う虐殺報復戦争が引き起こされてたのだ。そしてその戦争の行き着いた先がニコラエフクスにおけるパルチザンの住民大虐殺事件である「尼港事件」であった。

なのでやはりこの事件は日本のシベリア出兵という侵略戦争に起因しているのだ。

このように歴史とは複眼的な視点で語られなくてはなるまい。

(続く)


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