久しぶりに啄木を開いた。
冒頭は有名な
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
こうして書き写してみると、
白浜じゃなくて 白「砂」だったのか
「われ」は「我」でなく かな文字か
確かに その方がいいな。
などと 改めて 気づく。
二番目は
この歌集の題名となった「一握の砂」という言葉が含まれた歌
4番目に、
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
ん?あれ?
なんか、これに似た表現をどこかで聞いたような・・
石原裕次郎の歌だ
確か、
砂山ーの砂ーをー 指で掘ってたらー
真っ赤にー錆びたー ジャックナイフが出てきたよー
これ、啄木のパクリじゃない?
しかも 歌の二番には
「小島の磯(だー)」という部分まである。
Googleで グリグリ
http://www.tahara-kantei.com/column/column476.html
やっぱりなー
しかも 作詞が四国、香川県の人だった。
と、いう事は この歌の海は、啄木の詠んだ太平洋に対して、瀬戸内海と言う事になる。
今、富津岬に家を持ち、
海の砂が身近になった私が改めて歌集を読むと、それまでと違ったものが見えてくる。
「一握の砂」という歌集の冒頭は
10句 全てに「砂」という言葉が入っているのに気づく。「海」や「岩」でも良かろうに「砂」が必然だったらしい。
啄木、曰く、
砂は、「ひと夜さ」に「砂山」を作り、「錆びしピストル」や「流木」を吐き出して置き去りにする 海の力と共にある。
しかし、砂 そのものは
「握れば指の間から落つ」「いのちなき かなしきもの」であり、「墓」とも思えるが、自分の「なみだを吸へ」ば 「玉」にもなり、「なみだは重きもの」と気づかせてくれる。
砂の上に「腹這い」になったりして、「大海にむかひて七、八日」 「一人」の時間を過ごした挙げ句 、
啄木は、家族の元に帰るのだ。
「砂の句」の最後、10番目、
大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来たれり
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