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2021年03月15日12:52

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8月15日敗戦後の地上戦−映画『樺太1945年夏 氷雪の門』をみて 2

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(続き)

憲さん実は女優の藤田弓子さんのファンである。

あのポッチャリした「お母さん」然の容姿もさることながら、 『赤貧洗うがごとき田中正造と野に叫ぶ人々』などのナレーションなど、社会派作品にも多く出演し、彼女の戦争に反対する考え方など多く共感するところがある。

そんな彼女が若い頃に出演していた映画を先日図書館で見つけて借りて観た。

それがこの映画である。

『樺太1945年夏 氷雪の門』

詳しい内容はサイトに譲るとするが、その内容を簡単に言うと1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後(敗戦後)も継続された、ソ連軍の樺太(現サハリン)侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の最期(真岡郵便電信局事件)を描いているのだ。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA1945%E5%B9%B4%E5%A4%8F_%E6%B0%B7%E9%9B%AA%E3%81%AE%E9%96%80

真岡郵便電信局事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この映画に若き頃の藤田弓子さんが集団自決した真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の一人を演じているのだ。
(もう一人に、木内みどりさんが演じている。)

この映画を観ると、戦争の愚かしさと残酷さがこれてもかと画面に表現されている。

太平洋戦争において「国内唯一の地上戦」と言われてきた沖縄戦であるが、これは正確な表現ではない。

交戦時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があり、また現在も日本領である東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、「唯一の地上戦」という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定しているのだ。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6

それも、樺太での地上戦は1945年8月15日以降に本格化したのである。

そして、この映画を観るとソ連兵の残虐さが強調されている。

これを観た憲さんでさえ、このソ連兵の悪逆非道さにたまらずテレビのブラウン管に怒りに任せて箸を投げつけてしまったくらいである。

この映画を理解する上では昭和に入ってからの樺太の歴史をさらっていないとなるまい。

1938年の岡田嘉子さんらの越境事件を受けて、1939年(昭和14年)特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法を制定した。

(逆にそれまでは日本では珍しい陸続きの国境を観光で見に来る「国境観光」が盛んに行われ、子供たちの遠足の場所にもなっていたのだ。)

参考

https://kadobun.jp/trial/Saghalien/95e2q92rbgo4.html

ちなみに蛇足だがこの樺太の北緯50度線における国境線には幅10メートルの林空が開かれたほか、4基の天測境界標、17ヶ所の中間標石、19ヶ所の木標が立てられたそうだ。そしてその天測境界標のレプリカを東京で見ることができる。それが神宮外苑にある明治神宮聖徳記念絵画館前である。
実は憲さん、この模造品の実物?を見たことがある。

明治神宮聖徳記念絵画館に「敵情視察」した帰りに大きな標注があり興味深く観察した記憶がある。

参考

https://blog.goo.ne.jp/hmb09/e/e05390b31d08c2c9e5f5d3574ab9a3b7

南樺太の古地図

http://kam-r.sub.jp/ainu/tizu.html

そしてその年(1939年・昭和14年)に今まで軍隊が駐留していなかった南樺太にはじめて軍隊が駐留する。5月23日に上敷香に樺太混成旅団が新設された。

1941年12月日米開戦

1943年(昭和18年)4月1日樺太が正式に内地編入される。
11月豊原市を中心とした南部の防衛を任務とする第30警備隊を新設。
1945年(昭和20年)2月28日 樺太混成旅団を基幹に、歩兵第306連隊(第30警備隊改編)と迫撃砲1個大隊を加えて、豊原にて第88師団が編成された。

8月9日ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略開始(ソ連対日参戦、樺太の戦い 。本土最後の地上戦の開始。)
8月20日真岡郵便電信局事件が起こる。
8月22日三船殉難事件が起こる。
参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E6%AE%89%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

8月25日ソ連赤軍が樺太全島を占領し停戦合意。(本土最後の地上戦の終結)。民間人の死者は三船殉難を含め3,500〜3,700人と推定される。

以上が、本土最後の地上戦である「樺太戦」の経緯である。

この樺太戦の経緯を映画『樺太1945年夏 氷雪の門』は丁寧に追っている。

ただし、この映画要注意はソ連軍の悪逆非道さを強調し、日本軍を美化している嫌いがある。

それが証拠にこの映画、靖国神社における戦争肯定博物館「遊就館」で近年上映されているし、公開当時は自民党よりも反共右翼でならした民社党が同盟と共に全国上映運動を積極的に行なったのである。

参考

https://gamp.ameblo.jp/poko-pokocyan/entry-12489529614.html

で、今回の本題であるが、なぜソ連軍は日本の敗戦後も樺太で地上戦を展開し多くの非戦闘員を虐殺したのか?という疑問が残るのである。

憲さんその答えをこれまた図書館で発見した。

それが、これ!

NHKスペシャル『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』である。

https://www6.nhk.or.jp/special/sp/detail/index.html?aid=20170814#

これを元にした書籍も出ているので参考にされたい。

https://www.kadokawa.co.jp/product/321712000272/

これによると、樺太地上戦の悲劇が単にソ連軍の非道さに起因しているとは言い切れないことがわかる。

それを今回紐解いていこう。

樺太地上戦の悲劇は1945年8月8日、ソ連の日ソ中立条約の一方的破棄により、日本に宣戦布告し進攻したことが要因であるとの文脈で語られる。

確かに政治的背景にはその要因がある。

では、その間の政治的背景をおさらいしよう。

1945年2月にクリミア半島のヤルタ島でアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、そしてソ連のスターリンが会談をもち対ドイツ戦後処理問題等を話し合った。その際の対日秘密協定でソ連の対日参戦と千島・南樺太の領有を連合国も了承していた。
この、時点で南樺太のソ連占領は決定付けられていた。

そして1945年7月にはベルリン郊外ポツダムでアメリカのトルーマン、チャーチル、スターリンが対日戦争の終結方針を討議しポツダム宣言を採択、7月26日にこれに基づき日本に降伏を勧告した。

日本はこの勧告を一度は無視、そして広島と長崎に原爆が投下され8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定した。

それ以前8月8日にソ連は中立条約を一方的に破棄し、対日参戦を布告、そして長崎に原爆が投下されたその日、8月9日にソ連は北樺太から国境線を越え南樺太に進攻した。

しかし、ソ連の領土奪取の野望はヤルタの秘密協定以上のものであり、それは北海道北部の占領にあったのだ。
それが、留萌−釧路ライン以北である。

そして、スターリンは日本敗戦後の8月16日に連合国側に北海道北部のソ連占領について提案している。

これに対してのアメリカのトルーマン大統領の回答は「NO!」であった。

トルーマンの、回答はこうであった。「(ソ連の北海道占領について)これに関しては措置がとられている。北海道、本州、四国、九州の日本本土の、日本軍はマッカーサー将軍に降伏する」と。

これに対してクレムリンのスターリンはトルーマンに「不満を覚える」との書簡を送ったが、日本との戦争での一番長い当事国であり犠牲者も多大に出ているアメリカにこの件で逆らえる訳もなく、ソ連の北海道北部占領の野望はトルーマンの政治的判断で潰えていたのである。

しかし、このソ連の北海道占領の野望を異常に深く警戒した日本軍の軍人が一人おり、その軍人の、憲さんから言わせれば「暴走」により、樺太のソ連軍による日本人虐殺の悲劇が起こったと推察されるのである。

その軍人が札幌第五方面軍司令官、樋口季一郎陸軍中将である。

当時樺太の防衛は樺太第88師団が担っていた。その師団を指揮する上級組織が札幌にある第五方面軍であり、その管轄は北海道、南樺太、千島列島であった。
そしてさらにその上級組織が大本営である。

8月15日の日本の敗戦を、もって大本営は全軍に「即時戦闘行為を停止すべし」との命令が下される。
これは、圧倒的に正しい、というより当然の判断である。
しかし、それを受けても第五方面軍司令官の樋口中将はソ連の北海道占領を警戒して樺太第88師団に対して「自衛戦闘を継続せよ」とのにわかには理解出来ない命令を下しているのだ。

樋口は戦後、この命令の意図について以下のように回想している。

「私自身はソ連がさらに進んで北海道本土を進攻することがないかという問題に当面した。ソ連の行動如何によっては自衛行動が必要になろう」(樋口季一郎遺稿集)

この判断は明らかに間違いである。

樋口季一郎という人は、ナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、実際に難民と化したユダヤ人をいわゆる「ヒグチルート」で助け出すなど人道的な?軍人であったらしいが、ことこの敗戦時の判断は明らかな勇み足であろう。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E

敗戦を受け入れた国の軍隊は直ちに武装解除するのが定石である。

しかし、樋口は上級組織の大本営の命令に逆らって8月16日に樺太第88師団に「自衛戦争の継続」=武装解除せず、戦闘継続を指示したのである。

この命令を聞いて驚いたのが樺太第88師団のNo.2鈴木康参謀長である。
彼はその手記『樺太防衛の、思い出』に以下のように書いている。

「『自衛戦闘はあくまでも継続すべし』の電報の軍命令が、届いた。『今頃何事ぞ』と怪しみ考えてみたが、合点がいかない。戦闘継続になれば、解散や召集解除した兵員は?武装解除した武器や棄てた陣地は?配備や戦闘法は、どんなものにするのか。疑問が続出する。」

これは、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』でも丹波哲郎がその命令を聞いた衝撃をオーバーな演技で演じている。

それほど、衝撃的なで意味不明な命令がだったのだ。

そしてこの8月16日に以降、樺太ではソ連軍を相手にした停戦交渉が失敗した。ソ連軍は「日本軍が武器を捨てて投降すれば住民の命は保障する」という要求に対して樺太第88軍はこれに応ぜず、結果的に戦闘は続き、犠牲が拡大していったのである。

まさに、沖縄が本土の防波堤となり犠牲になった構図が、敗戦後の樺太では本土(北海道)防衛の防波堤とされ、その住民は犠牲になったのである。

ここでも日本軍は住民の命を守るどころか、犠牲としたのであり、その元凶が樋口季節一郎第五方面軍司令官であったのだ。

この、説を裏付ける証言がある。それも、『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』に書かれている。

その一つは日本敗戦後も実際にソ連軍に対して先制攻撃を日本軍が仕掛けていたという事実である。

敗戦翌日の8月16日、南樺太西岸の街恵須取(えすとる)で、上陸しようとしたソ連軍が日本軍の攻撃を受けたのである。

それは日本が「無条件降伏」した後にも関わらずである。

その戦闘に参加した日本軍の航空兵はこう語っている。

「ソビエト兵が100名以上はいたと思うんだけど、海岸に次々と上がってきたんですよ」

「でも全然戦闘の体勢じゃないんです。マンドリンの銃口はみんな下を向いていた。砂浜に鼻歌交じりで上陸してきたんだ」

「何の抵抗もしていないソビエト兵を、“撃てーっ”と言われて撃ったんだ。日本側300人が一斉に発射したから、音といったら莫大なんだ。(中略)向こうの兵士は私が確認できただけで7人死んで、慌てて退却したわけさ」

これにはソ連兵も驚いただろう。
無条件降伏したはずの国の軍隊が先制攻撃を仕掛けてきたのであるから。
これが、前述した「自衛的戦闘の継続」に他ならなかった。

まさに、狂気の沙汰である。

その後、ソ連軍が少なくとも樺太においては戦争が終結していないと認識するに余りある事件であろう。

ちなみに、この戦闘を仕掛けた日本兵は敗戦の事実を知らされていなかったらしい。

さらにもう一つソ連軍が樺太の民間人をも標的にする要因があった。

それが、本土決戦を見据えて設けられた「特設警備隊」と「国民義勇戦闘隊」である。

特設警備隊は戦争末期、日本軍が本土の沿岸警備などを目的に新設した。
平時は一般市民として労働に従事する男子を必要な時に臨時に動員する正規部隊であり、「兵士」と「一般住民」の境界を曖昧にし、民間人をゲリラ部隊として戦争に動員する仕組みであり、前述した8月16日の恵須取での戦闘部隊もこの特設警備隊であった。

この特設警備隊は沖縄戦と樺太の戦い、ソ連の満州侵攻で地上戦に参加している。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%AD%E8%AD%A6%E5%82%99%E9%9A%8A

そしてもう一つが女子や子供までもが本土決戦に動員するために作られた「国民義勇戦闘隊」である。

これは、戦争末期に展開された沖縄地上戦での「鉄血勤皇隊」を見本に、沖縄戦終結の6月23日に施行された「義勇兵役法」により新設された非正規部隊である。

特設警備隊

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%AD%E8%AD%A6%E5%82%99%E9%9A%8A

鉄血勤皇隊

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E8%A1%80%E5%8B%A4%E7%9A%87%E9%9A%8A

国民義勇戦闘隊

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8A#%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%BE%A9%E5%8B%87%E6%88%A6%E9%97%98%E9%9A%8A

このように、戦争末期に血迷った日本軍は国民皆兵と称して女性や子供までもを兵士に仕立て上げ、竹槍や包丁等を武器に戦争へと動員したのである。

よって、敗戦後に樺太に上陸したソ連権が民間人と兵員の区別がつかず無差別に殺戮したのではないかとも推察されるのである。

このように、樺太での悲劇は米ソの大国の政治的思惑を背景にしながらも、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』で語られるような悪逆非道なソ連軍が無辜の民間人を殺戮したというだけではなく、その背景には日本軍の「同胞を守るための軍隊」の原則を捨て去り、ただただ「国体の護持」のために民間人をも根こそぎ動員し、戦争に駆り立て、さらには軍隊としてあるまじき「指揮命令系統」の逸脱をも重なった無能な日本の軍隊のなせる業であったと結論つけざるを得まい。

戦争とはそれほど人間を狂気に陥れるとんでもない愚かな行為なのである。

竹槍をもって「鬼畜米英」を打倒する「本土決戦」など普通に考えれば尋常な思考と精神を持った人間など思いもつくまい。

と、このような悲惨な経緯を経て樺太は1952年に発効したサンフランシスコ平和条約により、正式に日本が樺太を放棄した。そして事実上全てソ連の土地となり、現在に至るまでその後継国家ロシアが実効支配している。

そして、現在の日本はそれについて黙認して樺太についての領土の問題は存在しないとしている。

これをみても日本の政治的中枢が樺太を本土の捨て石としたことがよくわかる。

と、以上述べたように樺太戦の悲劇を描いた『樺太1945年夏 氷雪の門』は戦争の愚かしさを描いた優れた作品ではあるが、それが単に「ソ連憎し」「ロシア憎し」となってはならないのである。

そもそもその戦争を引き起こした当時の日本の指導部に対する批判的な視座を失っては絶対にならないのである。

そして、さらに言うのであればそもそも樺太はアイヌはじめ少数民族が住む土地であった。それを帝国主義的野心で掠奪した日本にせよロシアにせよ本来そこの土地を我が物顔で住み続ける権利などないはずである。

私は願う。

樺太がアイヌはじめ原住民も日本人もロシア人も仲良く暮らせる土地となることを。

樺太戦で亡くなった全ての人に哀悼を込めて。

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像は映画『樺太1945年夏 氷雪の門』のポスター
若き藤田弓子が可愛いハート

(続き)は戦前の樺太境界標石

参考文献
『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』NHKスペシャル取材班
(これは、憲さんの樺太戦の史観に沿った内容)

『知られざる本土決戦南樺太終戦史 日本領南樺太十七日間の戦争』藤村健雄著

(この本は在野の樺太戦研究者の649ページにわたる大部の書だが、88師団はじめ軍部に対して肯定的に捉える書き方をしている。しかし、各方面に取材し各種資料に多くあたり大変読ませるのだが、何せ誤字誤植が多い。例えば、20ページに「樺太東海岸の国境の村、安別では」とあるが、安別は明らかに樺太西海岸である。その他本著においては誤字誤植が多数散見された。これは著者の責任というよりは出版社の問題ではなかろうか?全く校閲してないのではないかと疑ってしまう。こう誤字誤植が多いとその著作に対する信頼性も揺らいでしまう。著作物を世に問うのであれば、せめて校閲はしっかりしてもらいたいものである。)
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