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2021年03月10日19:44

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小田原名物「石垣山一夜城」

ワシよ〜
昨日はオートバイに乗って
小田原の早川に在る石垣山一夜城に
行ってきたのじゃよ。
ここを訪れるのは20数年ぶりよ〜

ここは市の公園として整備されており
今では50〜60台もの車が停められる
無料の駐車場があり
リードを付けてルールを守れば
公園内の犬の散歩も可能のようだ。

ここは豊臣秀吉が天正18年(1590年)の
小田原征伐の際に、
箱根外輪山の南端の「笠懸山」の山頂に構築した(標高257m)
関東では最初の総石垣の城である。
着工よりわずか80日で完成されており
秀吉の本陣が置かれていた。

完成後木を切り倒して姿を現し
まるで一夜で完成したように演出したため
それが一夜城と言われる由縁であるという・・

この小田原征伐に秀吉が動員した人数は
陸・海合わせて22万人とも言われている・・・

城の石垣作りは 穴太(あのう)衆の技術で作られた
本格的な野面(のづら)積み(もしくは穴太積み)である。

穴太衆とは・・・
近江国 琵琶湖の西岸の
比叡山の麓は 日吉神社の在る 坂本辺りの
穴太に暮す 石工集団のことで、
彼等は代々伝承されてきた石組みの特殊技術を持つ
職能集団である。

普通石組みは石を加工して行われるのだが、
彼等の技術は大中小様々な大きさの自然石を
まったく加工せずに 独特な方法にて組んでゆき
堅牢・強固な石垣を築いてゆくのである。

信長の安土城や 天空の城として知られる
但馬の竹田城などが有名である・・・

もしかしたら
穴太衆が直接手掛けた生粋の野面積みの石垣は
関東以東ではここだけかもしれない・・・

この城が出来てから元々「笠懸山」と呼ばれていたこの山は
「石垣山」と呼ばれるようになったという・・・

小田原征伐の役目を終えた後は ほぼ放置され
荒れるに任せてあったのだろう
笹薮に覆われていたらしいが、
ここ数十年で発掘され整備されてやっとここまで復元
されているのである。石垣が崩れているのは
小田原は3枚の地殻プレートの境界面に在って
70年周期で大地震に見舞われてきたからであり、
その中でも最大のプレート境界型の大地震・関東大震災の
震源地がここ小田原であったためだと思われる。

それでも一部損壊で済んでいるのは
野面積みの強固さの証明であろうかと思う。

今や崩れた石を積みなおさなければならない必然性はなく
先ずそれは穴太衆でなければ出来はしない・・

この頃の小田原城は今の位置にある
天守閣や内堀の在る平城ではなく(それが作られたのは江戸時代)
今の小田原高校の辺りに在った山城だったとのこと・・

城址が再現されてよく残っている三島市の山中城(北条の支城)
と この秀吉の城を比べると
東西の城の違いがよくわかる。
それは土塁と石垣の違いであり
財力や技術の違いが歴然なのでる・・・

山頂に位置するこの城の特徴は
井戸曲輪が在ること。
その井戸はすり鉢状に石組みがしてあって
同じようなものは世界のどの城にも見られないものという。

今は整備中で立ち入り禁止なので
次回また来た時に紹介しようと思うゼ〜

ここの眺望は抜群によい!
乗用車で来るならわけがないのだが
バスは通っていないど田舎なので
最寄りの駅からは
タクシーか徒歩でアプローチするしかない。
標高257mは徒歩で60分ほどじゃよ

ハイキングには最高のコースであるサ〜



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