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2021年03月06日07:17

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消された『軍神』−幻の軍神白神源次郎の謎

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皆さん、この歌をご存知だろうか?

https://youtu.be/BNC_znB7HuI

歌詞も引用しよう。

以下

むかしぼくが優秀な軍隊の隊員だった時
月夜の晩にルイジアナで演習をした
隊長はぼくらに河を歩いて渡れと言った

ぼくらは膝まで泥まみれ
だが隊長は言った進め! 

隊長危ない引き返そうと軍曹が言った 
行くんだ軍曹俺は前にここを渡ったぞ
ぬかるみだけど頑張って歩き続けろ

ぼくらは腰まで泥まみれ
だが隊長は言った進め!

隊長こんな重装備では誰も泳げません
そんな弱気でどうするか俺についてこい
わしらに必要なのはちょっとした決心さ

ぼくらは首まで泥まみれ
だが隊長は言った進め!

月が消え溺れながらの叫びが聞こえて 
隊長のヘルメットが水に浮かんだ
みんな引き返そうと軍曹が言った

ぼくらは泥沼から抜け出して
隊長だけ死んでった

裸になって水にもぐり死体を見つけた 
泥にまみれた隊長はきっと
知らなかったのだ
前に渡ったよりもずっと
深くなってたのを

ぼくらは泥沼から抜け出した
進め!と言われたが 

これを聞いて何を思うかは
あなたの自由だ 
あなたはこのまま静かに
生き続けたいだろう
でも新聞読むたび蘇るのは
あの時の気持ち

ぼくらは腰まで泥まみれ  

だが馬鹿は叫ぶ進め!

ぼくらは腰まで泥まみれ  

だが馬鹿は叫ぶ進め!

ぼくらは 

腰まで 

首まで  

やがてみんな泥まみれ
だが馬鹿は叫ぶ進め!!

以上、引用終わり。

この歌は『腰まで泥まみれ』という歌で、元ちとせさんが2015年のアルバム『平和元年』に収録しているカバー曲である。

日本での初出は中川五郎で、岡林信康等も歌っているが、オリジナルは『Waist Deep in the Big Muddy』としてアメリカのフォーク歌手ピート・シーガーが1966年に書いた楽曲である。

この歌の物語は、1942年にルイジアナ州のある川で、偵察行動の訓練として渡河を行なおうとした小隊のことを語っている。軍曹の心配を高圧的に無視した大尉(隊長)は、先頭に立つ自分に続いて前進しろと命じ、最後は首まで泥に浸かる状態になる。突然、大尉は溺れ、軍曹は直ちに小隊にもとの川岸まで戻るよう命じる。上流で流れが合流し、水深が深くなっていたことに大尉は気づいていなかったのである。語り手は、この話の明らかな教訓を改めて語ることはせず、その代わりに、この国(アメリカ)が権威主義的な愚か者によって同じような危機にあると新聞で読んだと述べる。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B0%E3%81%BE%E3%81%A7%E6%B3%A5%E3%81%BE%E3%81%BF%E3%82%8C

1942年といえば、日米開戦翌年のことである。

この、「『進め!』と叫ぶ馬鹿」は現代日本でオリンピックを強行しようとし、Gotoトラベル政策なる愚策を推し進めて第三波のコロナ感染拡大を招来した、現代の日本の為政者達にも通ずるところがある。

話が飛ぶが、以下のフレーズを知っている人はかなりの年輩の方であろう。

キグチコヘイ ハ テキ ノ
タマ ニ アタリマシタ ガ、
シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。

もうこの木口小平陸軍二等卒の「逸話」の修身の教科書を使って育った人も少なくなってしまったが、この話は明治35年から昭和20年までの長きに渡り小学校の修身教科書に掲載されていた。木口小平陸軍二等卒は戦前の日本においては広く知られた「英雄」であった。

憲さんは、当然ながらこの教科書は使ってはいないが、靖国神社の遊就館展示室「日清戦争」の説明パネルで知っていた。しかし、遊就館の展示など真面目にみてなかったからか、この方日中戦争で戦死したとの時代をだいぶ錯誤しての曖昧な記憶であった。

木口小平は明治27年(1894年)7月29日の日清戦争、成歓の戦闘で戦死した日本陸軍兵士である。ラッパ手として、死しても口からラッパを離さなかったとされ、その逸話は大日本帝国陸軍が最初に創りだした「軍神」であり「英雄」である。

しかし、実はこの「軍神」の喇叭卒は当初違う兵士であったが、取り違えられていたのか他に理由があったのかは謎だが、途中で訂正がされ「軍神」の喇叭卒は木口小平となったのである。

そして、当初取り違えられて伝えられた「軍神」が白神源次郎(しらかみげんじろう)という兵士だったのである。

先日のこの随筆で触れたが、憲さんと同じ「秩父困民党マニア」の井出孫六さんが亡くなった。

彼は憲さんと近い歴史観の人物なので、彼の逝去を悼み、秩父困民党以外の著作にも触れておこうと、図書館で彼の著作を借りた。
その大半が中央図書館の書架に追いやられてしまっているのが残念でならないが、その中の一冊『明治民衆史を歩く』を借りた。

彼も憲さんと同じように、薩長が権力を暴力的に奪取して出来上がった「明治政府」、さらには「明治時代」を民衆が抑圧されていく時代であると規定し、その中で起きた「生の民衆の歴史」の現場をフィールドワークしてレポにまとめた貴重な一冊である。

参考

https://huruhon.shop-pro.jp/?pid=108463806

その中の一章に「喇叭卒の謎−木口小平と白神源次郎」という章があった。

この、白神源次郎という明治時代の青年も、冒頭に紹介した歌のように「『進め!』と叫ぶ馬鹿」の命令で『腰まで泥まみれ』になりながら、儚く己の命を奪われてしまったのではないだろうか?
憲さんはそう感じた。

木口小平が修身の教科書に載る前、日清戦争当時に編纂された『尋常小学読書教本、第七』の第二十三課に「成歓の喇叭卒」として次の一文が掲げられている。

「(前略)遂に全く声なきに至れり。人々走りよりて見れば、無惨や、銃丸にて、其の胸をうちぬかれ、喇叭を口にしてたふれ居たり。(中略)此の喇叭手の名は、白神源次郎といひて、岡山県の人なり」

どうやら、明治37年最初の国定教科書に「キグチコヘイ」が認知されるまで、「シンデモ クチカラ ラッパヲ ハナサナカッタ」喇叭手は白神源次郎であったことがうかがわれるのだ。

そして、この二人の喇叭卒を巡って、明治34年の『尋常終身教科書教員用』ではこう解説されているのだ!

「・・・此の事実は、白神源次郎にあらず、というものあり、併し、修身上の話としては誰にても宜し。唯、此の事実が貴きなり」

語るに落ちるとは、まさにこのような事を言うのであろう。

国家にとって、「軍神」にまつりあげる対象はその個人のキャラクターなどどうでもいいというのだ。
ただ、美談としての「物語」さえあれば、その個人の名前が「白神」であろうが、「木口」であろうがそれは「誰にても宜し」いのである。

その「物語」で、民衆の戦意がただ高揚さえすれば・・・。

それが、まさに人を人とも思わず、駒のようにしか考えない「軍隊」と「戦争」の本性なのである。

白神源次郎は1869年(明治2年)、現在の岡山県の貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた。1894年(明治27年)、広島の歩兵第21連隊に入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く、21連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが満期除隊した。日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征。7月29日、成歓の戦いにおいて武田秀山中佐率いる右翼隊第21連隊第9中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり溺死した。享年27。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%A5%9E%E6%BA%90%E6%AC%A1%E9%83%8E

そう、白神源次郎は成歓の戦闘で「腰まで泥まみれ」になりながらクリークで溺死したのが真相であるようなのだ。

彼の生まれ故郷は現在の倉敷市船穂町水江東端・堅盤谷(かきわだに)地区であり、そこの墓地に今も墓がある。

堅盤谷地区は倉敷市街からは高梁川を渡り川の北側、現在の山陽新幹線が走っている近くである。

井手孫六氏がこの本を著した時はもうすでに白神源次郎の生家はなく「花筵(はなむしろ)」の工場になっていたようである。

白神源次郎がなぜ「軍神」から追い落とされ、「キグチコヘイ」にとって変わったのか?

その、疑問は昭和の戦後になってようやく何人かの追求者を得て明らかにされていったようである。

1977年に『二人の喇叭卒の謎』という論考が著さたそうだ。

参考

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7928125?tocOpened=1

それによると、白神源次郎の除籍簿には「明治廿七年七月廿九日朝鮮国京畿道成歓駅ニ於戦死」とあるが、連隊戦死名簿には「白神源二(ママ)郎 歩兵連隊第九中隊喇叭卒 明治二十七年七月十三日千秋里にて溺死」となっている。

しかし、朝鮮の仁川付近には「千秋里」の地名もなければ七月十三日にクリークで溺死するような戦闘があった記録もないのだ。

そもそも、七月十三日は日清戦争開戦の半月も前である。

では、白神源次郎は演習での徒河訓練で溺死したのかとの疑念も残る。

さらに不思議なことに、白神源次郎の戸籍には「明らかに別人の筆跡で“戦”が抹消され、“死”の下に“亡”が加筆されていた」そうなのである。

この改竄は誰がどのような指示を受けてされたかは今もって謎である。

しかし、このような白神源次郎の甥の証言があるそうだ。

「わしが子供の自分にゃあ、源次郎にまちがいはねえと言うて見に来る人もありましたが、木口小平が有名になりましてなあ、木口にゃあ株内に有力者が居って、運動をしたそうですなあ。それからは話にも出ません。」

「軍神」への道も権力やコネが必要のようである。

おそらく幾ばくかの現金も飛んだのではなかろうか?

「『軍神』への道も金次第」なのかも知れない。

世知辛い。

かくして、このような摩訶不思議な経緯を経て白神源次郎の「神話」は教科書から消え去り、かわって「キグチコヘイ」が「軍神」として確立しその「神話」は1945年の日本の敗戦まで長きにわたり国定教科書により日本の津々浦々に滲み渡っていくのであった。

白神源次郎も木口小平もほぼ明治と共に生まれた若い労働者であった。かたや貧しい舟人足、かたや貧しい鉱夫として辛酸を嘗めたあと、彼らの前には日本軍の兵営があり、そして「無惨な死」が待っていたことには甲乙なかったのである。

そして、その無惨な死はその後日本においては敗戦まで、そして世界ではなお今に至るまで貧しいものに強制されているのである。

「腰まで泥まみれ」になっての無惨な死が。

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像は初代「軍神」白神源次郎 『白神源次郎物語』より

参考文献 『明治民衆史を歩く』井手孫六著
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