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2021年02月14日15:36

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彷徨える三島由紀夫の亡霊−我が母校、今は亡き先輩との対話

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昨年、11月25日は作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺を遂げたいわゆる「三島反革命」から50年の節目の年であり、テレビや映画、出版物においてはいろいろと三島について特集が組まれていた。

憲さん、以前にも随筆で書いたが三島の文学にはほとんど興味がなく全然読んでいない。

参考

https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-4441bf.html

しかし、彼がなぜ45才で切腹するに至ったか、そしてその三島がなぜ今に至るまで影響力を持ち得るのかということには大変興味を覚え、東京新聞の書評欄に載ったこともあり一冊の本を図書館で借りて読んだ。

西法太郎著『三島由紀夫事件50年目の証言』である。

東京新聞の書評がこれだ。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/68364

これを読むと、サブタイトルに「警察と自衛隊は何を知っていたか」とあるように、著者が「裁判記録の閲覧を申し出て読み込み、自衛隊と警察の関係者に直あたりし、当時の防衛庁長官・中曾根康弘の回想を逐一検討し、様々な文献資料に露頭する事実も手がかりに、事件の生々しい現場と、事件を可能にした大きな背景の双方を描き出そうとしている。」ことがよくわかる。

なかなか読ませる力作である。

その本筋は「死を賭した戦後日本への三島の問いかけは、著者の推論によれば、国家権力に利用され、周到に封印された。」とある。その詳細については是非本著を読んで確かめてもいたい。

今回ここで、触れるのはこの「三島事件」においての脇役、三島の民兵組織、「楯の会」のメンバーについてである。

三島事件において自衛隊に押し入ったのは三島由紀夫と楯の会のメンバー四人である。

そのメンバーの内の一人、楯の会の学生長森田必勝は事件当日、三島を介錯したのち自身も割腹して果てた。

そして、残る三人は腹を屠(ほふ)ることなく縛(ばく)についたのだ。

その三人は古賀浩靖、小賀正義そして小川正洋の「憂国三銃士」である。

今回憲さんが言及したいのはこの内の一人、小川正洋氏についてである。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E6%B4%8B

実はこの人はもう鬼籍に入られてしまったのだが、憲さんの母校の千葉県立船橋高校の出身者であったのだ!。

これは、この本を読んではじめて知った事実である。

本著の165ページにこうある。

以下、引用。

県立船橋高校時代の小川について担任教員は、「あることで正洋君を叱ったら、非を認め『なぐるならなぐってくれ、そのほうが気が済む』とこたえたことがありました。ふだんは無口な性格でしたが、ホームルームでは活発に発言し、ときには強引に自分の主張を押し通すことがあったと思います」という。

以上、引用終わり。

結構暴力的な性格であったようだ。

しかし、この担任教員は誰なのだろうか?

憲さんの入学時点にもいた教員だろうか?

まだ、ご存命なのだろうか?

ちなみに小川氏は1948年(昭和23年)年生まれなので、憲さんより19才年長である。

千葉県山武郡松尾町で誕生し、千葉市仁戸名町で育っている。

1967年(昭和42年)3月に千葉県立船橋高等学校を卒業後、4月に明治学院大学法学部に進学したそうだ。憲さんが生まれた年に船高を卒業している19期上の先輩である。

本著の第二章「『市ヶ谷』に果てたもの」は事件で生き残った「楯の会」の3人の裁判での直筆で書かれた上申書の内容を詳しく紹介してくれている。

この中に小川氏の上申書の中身も箇条書きで紹介している。

憲さんが興味をひいたところを憲さんのツッコミ付きで抜粋する。

以下、同書158ページより

・中学2年生の時、同級生が「天皇は税金泥棒だ」と言ったことに腹が立ち、その同級生を思わず殴ってしまったことがありました。(中略)自分の行為に自分でも驚きました。

→中学2年生で国粋的な思想をもっていたとは驚く。
これは、Wikipediaに書いてあったことだが、「正洋は子供の頃に(教師の)母親から、木口小平、広瀬武夫、乃木希典の話を聞かされ、一緒に映画『明治天皇と日露戦争』『敵中横断三百里』を見たことから、日本の歴史に興味を持つようになった」そうだが、そのような幼児教育が影響しているのであろうか?

・高校二年生の時、教室にビートルズの写真が貼ってあったのを私が破ったことから(別にビートルズが嫌いであった訳ではなく教室に貼ることに不満だった)どこでどう問題がこじれたのか、天皇と自衛隊についてクラス討論が行われました。

→これはまさに我が母校船高での出来事である。

彼が高校2年生だから、1965〜66年にあたる。

ビートルズは1962年デビュー、1966年日本公演であるからビートルズの日本での人気のまさに絶頂期であった。
しかし、タレントのポスターを教室に貼るという文化は憲さんの高校時代にはなかったであろう。
それも、ビートルズのポスター破り事件から「天皇と自衛隊」についてクラ討に発展するとは、どういう経緯なのであろうか?大変に興味深い。
当時、我が船高でもビートルズフィーバーと「政治の季節」が同時に到来していたのであろうか?

・自衛隊については「憲法を改正して軍隊にすべきだ」という私の意見と「自衛隊も必要ない、非武装中立になるべきだ」という意見にわかれ、討論しましたが、私の意見に賛成する者はいませんでした。

→「非武装中立論」については、実は憲さんも日本国憲法前文と第9条を根拠に自衛隊と在日米軍の存在が憲法違反であり、日本の安全保障政策として、自衛隊の廃止と、在日米軍を肯定する日米安全保障条約の廃止を主張する強固な「非武装中立論」原理主義者である。

( ̄ー ̄)ムフフ

日本の「非武装中立論」は198
0年の日本社会党の石橋政嗣委員長(当時)が主張した「非武装中立論」が有名である。
しかし、1960年代当時においての「非武装中立論」は社会党左派系の社会主義協会に属した山川均の非武装中立論であろう。これは永世非武装国家を志向したものではく、日本が復興する間のみでの非武装(復興時非武装中立論)を説いただけで、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。軍備偏重であった戦前の社会を反省し、社会資本を復興に集中するねらいがあったとみられているらしい。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%AD%A6%E8%A3%85%E4%B8%AD%E7%AB%8B#:~:text=%E9%9D%9E%E6%AD%A6%E8%A3%85%E4%B8%AD%E7%AB%8B%EF%BC%88%E3%81%B2%E3%81%B6%E3%81%9D%E3%81%86,%E3%82%92%E8%A1%8C%E3%81%86%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

しかし、いずれにせよ当時の船高で「憲法改正して自衛隊を軍隊にする」意見より「自衛隊廃止、非武装中立」の意見が圧倒的に多かったのは憲さんにとっては心強い限りであるが、今の船高生ならなんと答えるであろうか?

少なくとも「非武装中立」とは答えないだろうな〜。

(´Д`)=*ハァ〜

・私は「俺は天皇を崇拝している。自分でも何故だか判らない。日本人としての血がそうさせるのだろう。日本は一民族一国家一言語だ。建国以来延々と続いてきた神秘こそ、我々日本民族の宝で精神のよりどころだ。天皇を一個人の人間としかとらえることができないのは心が貧しいからだ。天皇に類いするものが他にあるだろうか」と答える程度でした。

→1966年といえば戦後21年もたち、新憲法が制定されてからも19年も経っている。
彼は「教育勅語」で育ったのではなく、「日本国憲法」の洗礼を受けて育ったはずだ。
にも、関わらずこのような皇国思想に染まるとは何故なのだろうか?

彼の中学時代に「天皇は税金泥棒だ」と言った同級生の方がまともな感覚であろうし、大きな声では言えないが憲さんもそう思っている。

(´艸`)くすくす

「日本は一民族一国家一言語」とは、どこかで聞いた話だ。

そうだ!以前、ボンクラ副総理の麻生が言っていた!

しかし、この「日本単一民族論」は、まずもってでたらめである上に、日本人古来の思想でもなく、最近になって語られるようになった歴史の浅い浅薄な概念である。

『日本は一つの民族』『日本は単一民族』という物言い、あるいは『自分たちは単一で、同質的な集団だ』という考えは、つい最近、特に高度成長期に広がったものなのだ。

それは、明治20年代(1880〜90年代)くらいから、日本列島に住む人々を一つの『民族』とみなす考え方が現れ、『民族』という言葉自体も、そのころの造語である。もともとは天皇の下で団結している集団、欧米の植民地化の脅威に対抗する団結の単位と考えられていた。

すなわち、外国と接したことが少なかった明治期以前までの日本では、「民族」という枠組みで考える必要がそもそもなかったのだ。

しかしその後、日本が帝国主義化するなかで、日本は台湾、朝鮮を併合し、『多民族帝国』になった。その時代には、日本は『混合民族』の国だ、という論調が当然ながら支配的になった。『日本人』は中国大陸、東南アジア、朝鮮半島などさまざまな地域から列島に渡来し、天皇の下に『帝国臣民』として同化してきた、という考えである。日本は『民族のるつぼ』で、米国のようだと例えられたりもしたのだ。これなら台湾、朝鮮の人たちが国内にいても、天皇の下で団結している、と主張できたのだ。

だから、『日本は一つの民族が一つの言語で……』という単一民族国家論が既成事実として一般化したのは、日本の敗戦を経て、アジアの日本の植民地が解放され、さらにテレビが普及し、言語や文化の均質化が進み、貧富の格差が以前ほど目立たなくなった高度成長期、60年代からなのである。

そこで、三島由紀夫や石原慎太郎などが『日本は単一民族単一言語で文化的共通性があった』などと、肯定的にこの言葉を使い始めてからなのだ。

よって、この我が先輩小川氏の神がかった信仰にも似た「天皇崇拝」「日本単一民族論」はまさに戦後経済成長のおける新しい浅薄な概念であり、また、その師三島由紀夫の影響に依るもの大なのだ。

しかし、高校の同級生にこんなことを言う奴がいたら正直、気持ちが悪い・・・。

((( ;゚Д゚)))

参考

https://mainichi.jp/articles/20200204/k00/00m/010/113000c

・三島先生は「楯の会の目的は間接侵略に対する民間防衛である。(中略)1970年に新左翼の力が強大となり、警察力では押さえられなくなった時に、自衛隊の治安出動が考えられるが、簡単にはいくまい。(中略)その間に共産党側の平和勢力の名においての行動が起こるはずだ。その時こそ盾の会の働く時である。憲法改正しなければならないことはいうまでもない。(中略)改正できる唯一のチャンスは治安出動しかない。その治安出動を行わせる為に、我々は捨て石になるのだ。」と明らかにされました。

→「1970年に新左翼の力が強大となり、警察力では押さえられなく」なる。とはまさに隔世の感であるが、当時はそのような騒然とした情勢だった。
しかし、この一文に三島由紀夫と「楯の会」の反動的正体が凝縮されている。

ちなみに、日本ではこれまで安保闘争、1960年代の学生運動、労働争議、新宿騒乱、あさま山荘事件等への対応やオウム真理教事件における教団への強制捜査において治安出動が検討されたことはあり、治安出動の請願が地方議会で可決されたこともある。しかし、“軍隊”の実力を騒動鎮圧や治安維持に用いるのと同じなので、実際に治安出動が発令されたことは一度もない。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E5%87%BA%E5%8B%95

憲さんは当然ながら自衛隊の治安出動には断固反対である。

というか、自衛隊の存在にも反対である。

というか、自衛隊は違憲の存在だと思っている。

全ての自衛隊は「災害救助隊」に再編すべきだと思っている。

この「災害」の中には「外患」も含まれる。

・天皇観そのものについて(楯の会)は水戸学から民社党までと言われるように、絶対神とする者や現人神とする者様々でした。

→この時代に「水戸学」を信奉する者がいたとは驚きである。

「現人神」や「絶対神」という感覚もまさしく神がかりである。

ビックリ!

興味深いのは「民社党まで」と言っているところだ。
この小川氏も事件後旧民社党の議員の秘書をされていたようである。
この、今はなき「民社党」という政党は大変面白い政党であった。

1960年の結党であるが、民主社会主義に基づき、混合経済による福祉国家建設を掲げるが、共産主義に対する強い敵意を特徴とする強固な反共政党であった。
安保防衛政策では、日米安全保障条約のより一層の強化、有事立法制定を掲げて自民党以上に右翼的・タカ派的であったのだ。
憲さんも学生時代に民社党員とイデ討したことがあるが、その反共・反動ぶりは凄まじかった!

この、民社党のDNAを引き継いでいるのが、かの日本会議であることを見てもその政党がいかなるものだったか想像できるであろう。

参考

https://www.tokyo-np.co.jp/article/3319

この政党の「天皇観」とはどういうものであったのかは言わずもがなであろう。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E7%A4%BE%E5%85%9A

・(三島由紀夫)先生「右翼と左翼の違いは、“天皇と死”しかないのだ」とよく説明されました。

→これは、天皇制がその「暴力」を拠り所としている証左であろう。
三島はその暴力を己が肉体に行使したのだが・・・。

・「(三島由紀夫先生は)(前略)朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは、自分だと思うことが武士道なのだ」と教えてくださいました。

→憲さんも日本の武士の生き様には共感するところがある。
しかし、武士道はその後日本の皇民化教育に利用され、戦後はこのように右翼の行動倫理として活かされているところが悲しい現実である。

・“知ハ行ノ始メニテ行ハ知ノ成ナリ”この陽明学の知行合一を説いた言葉は常に私の頭の中にありました。

→江戸幕府が正学とした普遍的秩序を志向する朱子学に対し陽明学は革命の行動理論として発展した。

幕末の歴史を学ぶ上ではこの陽明学は避けて通れない。

憲さんは陽明学は「両刃之剣」であると考える。

陽明学を学んだ歴史的人物でも憲さんの評価する人物と嫌いな人物の両極端に別れるからである。

評価する人物
大塩平八郎
河井継之助
幸徳秋水
彼らは全て非業の死を遂げている。

嫌いな人物
吉田松陰
高杉晋作
西郷隆盛
佐久間象山
おしなべて薩長の連中である。
佐久間象山は水戸学に影響を与えた。性格が傲慢で嫌味な奴である。

陽明学を学んだ者でもその社会変革の方向性は大きく異なった。
しかし、その方法の激しさは朱子学の比ではない。

ちなみに、大石内蔵助も陽明学を学んでいたと思われる。
あのような「討入り」などという突拍子のない行動は、陽明学のなせるわざなのかも知れない。

・天皇の御存在は共和制とか君主制とか、全てを超越しているもので、多数決とか国民の総意とかで決めるものではありません。文化・伝統・歴史の象徴であられる天皇が御存在することは、日本の誇りであり倖であります。

→小川氏は天皇制を盲目的に信奉するにも関わらず、その存在を「象徴」と何度も述べている。これは、戦後憲法の「象徴天皇制」の影響を受けての発言だろうか?

・(前略)自分がここで日本を守らねば駄目だという使命感です。それが、日本人としての信義であり誠だと信じました。

→これは、学生運動の高まりに恐怖する右翼学生の背中を後押した行動原理であろう。
しかし、当時の革命を志向する学生運動に身を投じた人たちとも「革命を起こさねば駄目だという使命感」に駆り立てられていたのであろう。

・明治の文明開化に於ける西欧絶対の思想が未だはびこり、民族の主体性を圧殺された。言いかえるなら、日本人が日本人たることを忘れ、日本人の魂を失くし、名誉白人になることを押しつけられた屈辱感以外の何ものでもない現憲法、(後略)

→民族の主体性云々は抜きにして、「明治の文明開化に於ける西欧思想の絶対化」というくだりは憲さんも共感できる部分はある。

しかし、そう考える小川氏はなぜ白人が設立したクリスチャン系の大学、明治学院大学を選んだのかは謎だ・・・。

・その国体を守るべき軍隊は、憲法で保障されず、米軍の一部隊としての位置しか与えられず、かつ、建軍の本義である天皇を中心とした文化・歴史・伝統を守ること、即ち、忠誠の対象も与えられることなく、ただ、四次防、五次防と装備を与えられているに過ぎません。

→これは、当時の日本の右派の焦燥感をよく表しているのではないだろうか?
それだけ憲法9条を守ろうという大衆の声が大きかった事が窺われる。

以上が、我が高校の先輩小川正洋氏の「三島事件」での裁判での上申書の抜粋である。

三島由紀夫の割腹から50年、三島の呼び掛けに応えた自衛官は幸いながら一人もいない。(田母神なる怪しい人物が、出てきたこともあったが・・・)

しかし、この三島と楯の会の野望は安倍晋三などに、脈々と受け継がれているのもまた事実である。

小川氏は裁判で懲役4年の実刑判決を受け、1974年に仮出所した。

その後「行動の純粋性を保つ意味でも、かつ、自分自身の純粋性を保つうえでも沈黙を守るのが生き残った者の唯一の道」と述べ黙して語らず、2018年に死去した。

享年70歳

この本の著者は小川氏の沈黙についてこう書いている。

「はたしてそれでよいのだろうか。」

高校の後輩として憲さんが小川氏にかわって答えよう。

「よかったのだ。」と。

三島由紀夫死後50年にして、奇しくも思想こそ違え、今は亡き高校の大先輩と対話することができた。

この本の著者に感謝。

是非一読をお勧めします。

それにしても我が母校は右か左かは別としても両極端に大きく振れる人を排出しますな!

あの、どっちつかずの第二自民党ドジョウ宰相なんかよりは全然小川氏の方が人間的ではないだろうか?

参考

https://toyokeizai.net/articles/amp/248638?display=b&_event=read-body

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像は本著
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