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2021年01月11日09:52

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ブラボー! イタリア学会による声明を断固支持する!

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実は憲さん、大のイタリア通である。

イタリアと言えば、憲さんの大好きな 入浴文化を、現代日本の風呂文化と古代ローマ時代の浴場とを比較文化論的に考察した漫画『テルマエロマエ』しか思いつかないくらいの通である。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%82%A8

このイタリア通の憲さんも東京新聞の記事で知ったのだが、日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会が声明を発表している。

それが、凄く格調が高い!

憲さんがこの問題で言いたかったことをほぼ完璧に代弁してくれている。

これは、歴史的文章だと憲さん確信したので、勝手に憲さん随筆にアップしちゃいます!

この声明、学問に裏打ちされた見識によって、今の政権の反動性を皮肉も交えて怒りをこめて弾劾している。

これでは、あの愚鈍な宰相ではぐうの音も出まい。

さらに、この問題を軽視する言説に対してはこれを厳しく批判し、その風潮に警鐘を鳴らしている。

やはりインテリゲンチャとはかくありなんである。

憲さんもイタリア学会に入ろうかな〜ハート

学者じゃないけどっ!

( ̄ー ̄)ムフフ

イタリア学会、Bravo!

以下、少し長いが全文引用する。

「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」

日本学術会議が推薦した第25期会員候補者105名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、これに断固として異議を唱えます。
《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが民主主義の基本だからです。情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。

令和2年10月17日
イタリア学会会長
藤谷道夫(慶應義塾大学教授)

理由
イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第3条)イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、今回の声明を発した理由を簡単に説明したい。
菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならないという誤った公民観である。
学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究とみなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、時の政権のためのものではない。判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。「国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた驚くべき官職である。
次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学
法学部名誉教授)権力が学問世界に介入する事例は西洋史に無数に見出される。1632年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世とイエズス会士はこれに激怒し、同書を禁書にした。ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》について自分の権限で判断したと告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解される存在ではない》と認めたのである。問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1人につき月 2万円余の交通費を用意する程度のことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の何ものでもない。」(小林節名誉教授)
私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)と見解を示している。しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前59年)、まずカエサルが決めたことは、元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)これが民主主義への第 1 歩である。それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。一方、その時代から2000年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、人事異動のプロセスも民草には窺い知ることもできなかった。
おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。
人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。二人はKra/toj(クラトス)とBi/a(ビアー)という名だが、ビア
ーの方は劇中で一言も言葉を発しない。ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。ギリシャ語のビアーやイタリア語のviolenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、これが現実になったのが、ソヴィエトである。ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。なかには権力に忖度し、取り入る者が出て来る。こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。ましてや一部の学者の話であり自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。公金は自民党のためのものではなく、国民のためのものである。国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)

ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられた時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員を攻撃した時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は労働組合員ではなかったから。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。

通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、凱旋式があった。(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!あ
んたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」現代の独裁者たちに対しても同じように言うことができたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前400/4頃-325/3頃)は、世の中で最も素晴らしいものは何かと訊かれたとき、《何でも言えることだ(言論の自由parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
〜ディオゲネース・ラーエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』69〜

以上

以下、東京新聞の記事

https://www-tokyo--np-co-jp.cdn.ampproject.org/v/s/www.tokyo-np.co.jp/amp/article/77960?amp_js_v=a6&_gsa=1&usqp=mq331AQHKAFQArABIA%3D%3D#aoh=16102714459992&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&share=https%3A%2F%2Fwww.tokyo-np.co.jp%2Farticle%2F77960

これも、時間がたつと消えちゃうので全文添付しておきます。

以下

日本学術会議の会員任命拒否をめぐるたくさんの抗議声明の中で、博識に裏打ちされた豊かな表現で異彩を放っていたのが、イタリア学会の声明だった。語られていたのは、古代ローマ以来の民主主義の在りかたでもある。執筆した会長の藤谷道夫さん(62)に聞いた。

◆菅義偉首相のやり方は「神官政治」
 あれは臨界点でした。安倍晋三政権からずっと民主主義の扼殺やくさつが続いていました。特定機密保護法、安保関連法などが法治主義を骨抜きにして成立しました。そして、ついに学問の世界にまで手を突っ込んだのが、日本学術会議の会員6人の任命拒否でした。
 イタリア学会創立70年の歴史で、声明を出したのは初めてのことです。恩師でイタリア学会員だった須賀敦子先生が生きていらしたら、きっと同じように思われたでしょう。
 民主主義はギリシャと古代ローマで芽生えました。物事を法律化することで、少しずつ闇をなくしてゆく。法がない時は、神官の胸三寸で決まっていました。今回の菅義偉首相のやり方は、ある意味、神官政治です。理由は誰も知らない。知っているのは菅首相のみ。まさに「神のみぞ知る」なのですから。
◆古代ローマでは「国家=みんなのもの」
 ローマ法の体系づくりは、地中海の明るい光を当てて闇を除去する作業でした。ローマ人が目指したのは「光の政治」です。一方、安倍政権では隠す、改ざんする、破棄すると、どんどん「闇の政治」の拡充に努めてきました。
 紀元前59年、執政官に選出されたカエサルが最初にしたことは、情報公開です。元老院の議事録を公開し、帝国中の人が属州であっても誰でも読めるようにしました。これが世界初の新聞「国民日報」です。
 古代ローマには、権力から国民=弱者を守る制度もありました。「護民官」です。元老院の決議や執政官の命令にも拒否権を発動できました。古代ローマで、国家という言葉は「みんなのもの」という意味です。政治とは「みんなのため」の活動であり、特定の権力のためではないのです。
◆気づいたら「ゆでガエル」に!?
 学術会議は医者、政府は患者のようなものです。専門知識のない患者を医師が診断し、診断書や処方箋を書き、時に患者を説諭する。なのに、思うような診断や処方箋が出ないと、金を出したのになぜ言う通りにしないのかと患者が医師に怒る。菅首相の姿は、治療費を払ってるんだから、自分の言う通りに治療しろという常識外れの患者にそっくりです。
 イタリアでは学者が政権を批判することは全く問題になりません。それどころか、批判しなければ役目を果たしていないとみなされるでしょう。イタリア人には、教えを請う側がなぜこうも威張っているのか理解できません。
 政府には自由に軍需産業を育てたいという思いがあるんでしょう。だから、目の上のたんこぶである学術会議の歯止めをなくしたい。法制局のトップに政府の考えに近い人を選ぶようになり、客観的な法律判断ができなくなりました。検察もそうなりそうでした。ムソリーニは暴力でファシズムを広げましたが、日本では暴力を伴わない「静かなファシズム」が進行しているようです。気が付いたら、私たちは「ゆでガエル」になっていないか、危惧しています。
◆民主主義はロゴス(言葉、論理)であるべき
 民主主義は多数決ではなく、逆に多数決を捨てることです。プラトンは民主主義を批判しました。民主主義の名の下に、多数決でソクラテスが殺されたわけですから。
 現代の民主主義はロゴス(言葉、論理)主義であるべきです。論理に従って議論し、たとえ少数派であってもより正しく合理的な方が勝つ。数ではありません。議会は、そのためにあります。拙速に多数決で決めて間違うより、じっくり考えて正しい道を選んだ方がいい。多数決が正しいなら、天動説が正しかったことになります。
 「間違うのが人間だ」というローマ人のことわざがあります。間違うことから逆算して考える。イタリアには原発が1基もありません。チェルノブイリの事故の後で全部やめました。自分たちは間違う可能性があると考えたからです。失敗から逆算する発想です。だから、議事録も取るのが当たり前。失敗したら、それを振り返って参考にする。日本には無謬主義がはびこっているため、隠蔽や改ざん、破棄が起きる。
 日本はローマやイタリアから、まだ学ぶべき点がたくさんあると思います。

 ふじたに・みちお 1958年生まれ。慶応大教授、ダンテ研究の第一人者。イタリア学会会長として、日本学術会議会員任命拒否問題で政府に抗議声明を出す。学生時代に故・須賀敦子さんに師事し、後にダンテ『神曲』の共訳を出版。

以上

どーよっ!

どーなのよっ?
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