昔は、在来線の水上という駅がありました。面白いもので、特急が停止する停車駅があるとそれだけで、客が降ります。ただし、駅の近くに温泉があれば。
昭和ヒトケタ生まれの人から、良く話を聞きました。
駅前の、土産物屋や駅弁屋、つまらない鍋焼きうどんを出すようなそば屋、理髪店…そういうものの集合体が、旅情といういささか寂しげな気分を掻き立てます。
人は、旅の人という無色透明な人間になり、そこからキッチュな街並みや品物をみようとしているのではないでしょうか。一種の人工的な、記憶喪失です。
温泉を描いた文芸作品では、「国境の長いトンネル」の向こう側の越後湯沢を舞台とした、ノーベル賞を取った『雪国』が有名ですが、あそこに描かれる賢い女、登場人物たちの怜悧な感性の応酬、むき出しの本音の感情の露出は一般の旅情とは違うと思います。
だからこそ、『雪国』の主人公島村は、駒子に身請けの話を出して彼女との距離を縮めたくなかったのでしょう。あの世界を架空のものにするためです。
同じ温泉を描いていながら、『雪国』の作品世界は、例外です。
普通、温泉街を旅する人は、ありきたりの旅をして、
やがて家に帰っても、すばらしい温泉や美人の芸者、東京では飲めない地酒…といった体験がありながら、「やっぱり、我が家が一番だ」という気持に浸ったことでしょう。そこには、明らかに、都会と(遅れた土地としての)秘境の二項対立があります。
ところが、今は、旅館から車で送迎するのは、当然のことのなりました。だから、温泉街ではなく個別の温泉と直接つながります。新幹線の駅は、交通手段にすぎません。
上毛高原には、温泉やら沼田在住の知人やら…という目的のために行ったことがあります。
5年前になりますが、駅前の喫茶店ゼロ。喫茶店がない街で最も多く出会う確率が高いのは、そば屋ですが、一軒もありません。殺風景なバスターミナルとタクシー乗り場しかありません。
それもそのはずです。
令和元年の乗車人数は、719人です。
東武東上線各駅停車駅の大山の二十分の一です。
私なら、住人に悪いですが、駅を廃止し、その分を豪華なバスにします。
電車に乗るということが夢を紡ぎださなくなりました。
彼方にあるものが、東京とは違う異界ではなく、「大手町まで、×分」とマンションの広告と同じです。
東京から時間のロスでしかない犠牲を払っていく箱に代わったからです。駅が温泉地の象徴になり人を引き付けることはもうないでしょう。
※ 写真は、『雪国』の駒子のモデルです。
■上毛高原駅、仮称のまま40年 商工会「改名を」
(朝日新聞デジタル - 12月11日 09:30)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6338772
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