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2020年12月05日17:53

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「病院」事始−順天堂大学病院の謎

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※画像は順天堂大学病院にある関寛斎が平潟口の治療所に掲げた白い「病院旗」。菊の紋がいやらしい。

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」

司馬遼太郎の小説『峠』の主人公、幕末期の長岡藩家老河井継之助は戊辰戦争における最激戦の一つとなった長岡戦争での負傷で独力では歩けず、長岡から会津へ向けて八十里峠を越える際こう自嘲の句を詠んだ。

参考

【河井継之助】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%8A%A9

【峠(小説)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A0_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

彼の世間での評価は賛否があるのは知っているが、憲さんにとっては河井継之助は薩長の連中と最後まで果敢に戦った大好きな歴史上の英雄であり、戊辰戦争敗戦140周年のおりには福島県只見町の河井継之助記念館にも行ったことがある。

参考

只見町河井継之助記念館
http://tadamikousya.sakura.ne.jp/kawai/info_access/

この河井継之助については、憲さんいつか随筆で書こうとは思っているが、今回は彼についてではない。

河井継之助が峠を越えて会津藩領に入り、只見村に着いたとき会津若松より継之助の治療に来た医者がいる。その人が松本良順であった。

継之助は、良順の治療もむなしく、そこから少し進んだ塩沢村で若くして死没してしまう。

参考

【松本良順】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E9%A0%86

松本良順は、徳川幕府の医官である奥医師となり、さらに現在の東京大学医学部の前身医学所の頭取(学長)となった傑出した人物であり、第14代将軍家茂の侍医もつとめ、第2次長州征伐で大坂に出陣していた家茂が病状悪化した際も不眠で治療に当たっている。

さらにこの松本良順が偉いところは、徳川将軍家に義理立てをして、戊辰戦争では幕府方につき歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争まで従軍しているのだ。

河井継之助を塩沢村で治療に当たったのはその際である。

実はこの松本良順、憲さんが先日診察してもらいに行った順天堂大学病院と浅からぬ関係があるのだ。

順天堂医院・・・

※順天堂は正式には「病院」ではなく「医院」だそうである。

参考

順天堂醫院の名称の由来
https://www.juntendo.ac.jp/hospital/news/046_010.html

・・・の創始者佐藤泰然は彼の実父であり、良順はまだ松本家に養子に行く前、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を勤めていたのである。

佐藤泰然とはちょっと変わった御仁である。

参考

【佐藤泰然】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%B3%B0%E7%84%B6

実の子に男子が五人いて、うち長生した者が三人いるにも関わらず、全員を他家に養子に出している。

五男の実子で、良順の実弟董(ただす)も林家に養子にいき、外交官となった。1902年に締結された日英同盟の日本側締結当事者である日本駐英公使林董がその人である。

ちなみに、この董も戊辰戦争では榎本武揚率いる脱走艦隊に身を投じ、箱館戦争を戦っている。

参考

【林董】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3

実子に優秀な医者である良順がいたにも関わらず彼は他家に養子に出し、順天堂は他家から養嗣子をとり後継ぎとしている。それが佐藤尚中(順天堂二代目堂首)である。

参考

【佐藤尚中】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B0%9A%E4%B8%AD

そしてその尚中の養嗣子が佐藤進(順天堂三代目堂首)であり、進は戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めているのだ。

参考

【佐藤進】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%80%B2_(%E8%BB%8D%E5%8C%BB)

戊辰戦争の勃発直後は、尚中は会津藩主・松平容保の依頼で江戸の会津藩邸で進とともに負傷兵の治療に務めたそうだが、佐倉藩が新政府軍に恭順、寝返ったため、新政府軍より順天堂の医師たちも従軍するよう出兵の命が下り、会津戦争の際には、さすがに尚中は病気を理由に出陣を断っているが、養子の進が尚中の代わりに奥羽追討陸軍病院頭取に任ぜられ、他の門人とともに奥州白河に向かい負傷兵の治療に当たったそうだ。

その証拠品が、先日憲さんの行った順天堂大学病院の入り口に掲げてあった。

それが画像の「病院旗」である。

そこには、こんな説明書きがある。

以下、引用

1868(明治元)年 病院旗 赤·白

戊辰戦争で官軍側の奥羽追討出張病院(野戦治療所)に掲げられた旗。 赤い「病院旗」は、順天堂第三代堂主佐藤進が頭取(所長)を務めた白河口の治療所に 掲げたもの。白い「病院旗」は、順天堂門下生関寛斎が頭取を務めた平潟口の治療所に掲げたものである。この時、日本ではじめて「病院」という言葉が公に使われた。また、この経験が佐藤進のベルリン大学留学のきっかけとなり、進はアジアで最初の医学博士となる。帰国後、進は順天堂医院長を続けながら、西南戦役、日清・日露戦争の軍医総監、東大附属 第1-第2病院の院長、天韓医院(ソウル大学前身)の設立ならびに初代院長なども務めた。

順天堂大学所蔵

以上、引用終わり。

菊の紋がなんともいやらしい。

このように、順天堂を創立した佐藤泰然を始祖とする佐藤家の人たち、泰然の実子、そして順天堂の門人たちは、戊辰戦争では敵と味方に分かれて医者として従軍しているのだ。

それも、佐藤泰然の実子は奥羽越列藩同盟側、養子はその追討側にである。

なんとも不思議な一家である。

そもそも、徳川譜代の佐倉藩主堀田家の当主正倫が、沼津で新政府軍に捕らえられ京都で謹慎させられてしまうところがどうにもだらしがない。堀田家は有力譜代大名にも関わらず、薩長の軍門に下ることとなるのだ。これが、佐倉順天堂とその関係者たちの行く末を決めたといっていいだろう。

ここで、「病院旗」の説明に出てきた平潟口の治療所の頭取で、順天堂門下生関寛斎についてだが、彼は1830年(文政13年)、今の千葉県東金市東中の農家の長男として生まれ、18歳で佐倉順天堂に学び佐藤泰然の門下で蘭医学を学んだ。

参考

【関寛斎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AF%9B%E6%96%8E

関寛斎に関する図書(東金市)
https://www.city.togane.chiba.jp/0000001284.html

戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院頭取として、野戦病院で傷病兵の治療にあたっり、「奥羽出張病院」と書かれた旗をひるがえした野戦病院は、薩摩軍従軍医師ウイリアム・ウィリス(28歳)の協力のもと、敵味方の区別なく戦傷者を治療し、後に日本初の「赤十字的」病院と言われるようになったそうだ。

参考

【ウイリアム・ウィリス】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%B9

戦地から徳島に戻った寛斎は、一時は藩立医学校の教授に就任したが、徳島に診療所を構え、以後約30年間町医者に徹した。ここでは、貧しい人からは治療費を受け取らない診療を行い、住民たちからは「関大明神」とあがめられていた。

参考

【関寛斎】幕末・明治の仁医、阿波の赤ひげ
https://www.topics.or.jp/articles/-/559554

しかし寛斉は年齢70歳にして一念発起し、突然産業発展のために必要な地と注目された北海道の開拓を志した。石狩樽川農場を開拓し、1902年(明治35年)72歳でさらに奥地の原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓いた。開拓の方針を二宮尊親が経営する二宮農場の自作農育成に求めて「積善社」を結成し、徳富蘆花との交遊を深め、トルストイの思想に共鳴し、理想的農村建設を目指したそうである。

そして82歳にして服毒により自らの命を絶ち、波瀾万丈の人生を終えたそうだ。

参考

関寛斎資料館について
https://www.rikubetsu.jp/kanko/sekikansai/

この辺りの話は憲さんは読んでいないが、司馬遼太郎の長編小説『胡蝶の夢』に詳しいようだ。この小説のもう一人の主人公が、松本良順である。

参考

【胡蝶の夢 (小説)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6%E3%81%AE%E5%A4%A2_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

当時の順天堂関係者に、もう一人長谷川泰がいる。

彼は、越後国(新潟県)長岡の漢方医の長男として生まれ、文久2年(1862)、順天堂に入門して泰然、尚中に学び、慶応3年(1867)、江戸で松本良順の西洋医学所でも学んだ。翌年の戊辰戦争では、長岡藩の藩医として従軍した。

傷を負った長岡藩家老河井継之助の最期を看取ったのが彼だったのだ。

参考

【長谷川泰】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B3%B0

このように、佐倉順天堂の佐藤泰然から始まり、順天堂関係者は良くも悪くも日本の近代医学の発展に貢献してきたのは間違いないことだろう。

はじめて順天堂大学病院に行ってその歴史の一端を垣間見れたことは収穫であった。

しかし、惜しむらくは順天堂大学のセンチュリータワーにある日本近代医学歴史館がコロナで閉館していて見れなかったのと、閉館してなくても完全予約制であまり一般には解放していないことだ。

大学の併設博物館はもっとオープンにしていただきたいものである。

参考

順天堂大学日本医学教育歴史館
http://www.juntendo.ac.jp/jmehm/sp/

最後に、この佐藤家、そして順天堂大学関係者の戊辰戦争後の生き様であるが、それぞれ医者だけあり華々しい人生を送ったようである。

負けた列藩同盟側に従軍した松本良順も明治4年(1871年)には兵部省に出仕し、明治6年(1873年)には大日本帝国陸軍初代軍医総監となり、明治23年(1890年)には貴族院議員に勅選される。

福沢諭吉の『瘠我慢の説』で批判されそうな、憲さんから言わせればあまり誉められた生き方をしていない。

参考

【瘠我慢の説】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%98%A0%E6%88%91%E6%85%A2%E3%81%AE%E8%AA%AC

いわんや、養嗣子の佐藤進なども陸軍軍医監や、陸軍病院長などに任じられて同じようなものである。

この中で、奥羽追討の平潟口の治療所の頭取で、順天堂門下生関寛斎だけは、戊辰戦争後、徳島に診療所を構え、以後30年間町医者に徹し、貧しい人からは治療費を受け取らない診療を行ったと言うから見上げたものである。

そして、思い立ったように北海道に移住し原野を開拓し、最期は82歳で服毒自殺するといったハッチャケた生き様、憲さん嫌いではない。

軍医なんぞになるよりは何倍も尊い生き様であろう。

現代の順天堂大学で学ぶ医師の卵もこのような先輩の志もって学んでほしい。

せめてこんな無様で間抜けなことだけはしないでもらいたいものだ。

これ!(順天堂大学病院新生児取り違い事件)

「裏切りばかり」の順天堂医院・新生児取り違え事件 “交渉記録映像”で明らかになった新事実
https://www.fnn.jp/articles/-/2854?display=full&pattern=B  

それにしても、大病院は待たされてかなわん!

どーよっ!

どーなのよっ?

参考(佐倉市のサイト)

幕末から明治の佐藤家・順天堂
http://www.city.sakura.lg.jp/0000026692.html
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