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2020年11月19日13:53

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憲さん、2018年のはじめに考える−会津戊辰戦争敗戦150周年の節目の年を迎えて

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※画像はくだんの東京新聞新年社説

※この随筆は、2018年1月3日に執筆したものに加筆修正しました。

新年あけまして、おめでとうございます。

旧年中は憲さんの日々随筆「醒酔庵日乗、どーよ!どーなのよ?」のご愛読ありがとうございました。

今年も憲さんの日々随筆

「醒酔庵日乗、どーよ!どーなのよ?」

をご愛読よろしくお願いいたします。

さて、私の新年の楽しみといえば、新聞全国紙主要各社の年頭社説読み比べです。

年始号の一面と社説には各社並々ならぬ気合いで臨んできます。

で、今年の各社社説、読みました。

勿論、憲さん愛読紙東京新聞が最初です。

今年の東京新聞、年頭社説、結論から言います。

駄目です。

丸で駄目男です。

これ、誰が書いたんだよっ!

論説主幹か?

こんな作文書いてるようじゃクビだな!貴様。

責任者呼んできなさいよっ!

って感じだね。

こんな年頭社説書いてると、ホント読者離れちゃうよっ!

東京新聞の読者は一癖も二癖もあって、うるさいよ〜。

読売や朝日の洗剤欲しい読者とは違うからねっ!

心して書きなさいよ。

社説をっ!

って言ってもいいくらい、ダメダメ社説。

俺が書いてやるよーっ!って、葛西の中心で叫んじゃうよっ!

今年は「明治維新」150年(憲さんから言わせれば会津戊辰戦争敗戦150周年)という節目の年ということで、憲さん当然各社それへの論及を期待して年頭社説を読んだが、それに触れたのは、東京、毎日、日経の三社のみ。

平成も終わり近く、「明治は遠くなりにけり」の感が否めない。

まー、それはいいや。

ただの数字的節目に過ぎないから。

そんななか、東京だけは「年のはじめに考える明治150年と民主主義」と題して「明治維新」150年を真正面から取り上げてくれた。

おーっ!

なかなか、やるな!東京新聞!

と見出しだけみたら憲さんは思ったが、問題はその中身。

正月ということもあって、ここは長くなるがじっくり考察、批判していこう。

お付きあいのほどを。

まずはリード。

曰く

「明治150年といいます。明治維新はさまざまなものをもたらしましたが、その最大のものの一つは民主主義ではなかったか。振り返ってみましょう。」

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

明治維新が民主主義をもたらした?

もう、「明治維新」礼賛?

まじ?

リードで雲行きが怪しくなってきたよ。

まー、いいや、読み進めよう。

「明治憲法つくった伊藤」と見出しがあり、社説は堀田善衛(よしえ)の『広場と明治憲法』なる随想を軸に論を進める。

参考

【堀田善衛】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%84%E8%A1%9B

社説曰く

「主役は伊藤博文。初代内閣総理大臣、枢密院議長として明治憲法起草の演説。渡欧し憲法とは何かを研究してきた。」

だと。

けっ!伊藤博文が主役かよ!

とんだ田舎芝居か?と思いながら社説を読み進めた。

社説曰く

「武士最下級の足軽出身の伊藤が総理、公爵、枢密院議長へと上り詰めようと、彼は広場の民衆(ここでいう『広場の民衆』とは、堀田善衛いうところのベネチア共和国のサンマルコ広場。それは、重大事が起ったときに、共和国の全市民がこの広場に集って事を決議し、決定をし、その決定を大聖堂が祝認するといった政治形式)を果して無視できただろうか、と。

はい、無視したでしょ。彼は。

完全無視ね。

帝国憲法成立の過程でもそれは如実に表れているんじゃないの?

だから国会の開設をあれだけ遅らせたんでしょうに。

そんなの小学校の歴史で勉強しなかった?

続けて社説曰く

「強大な幕府の打倒は志士に加えて豪農富商、それに民衆の支えがあってこそ実現したのです。」

でた!

典型的薩長史観!

江戸時代=暗い時代、夜明け前

明治維新=日本の夜明

典型的な思考停止史観!

まじかよ!

東京新聞!

大丈夫か?

で、つづけてこういい放つ。

「幕末期の民衆は当然のように欧米に追いつこうとしていたのです」

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

だれだよ?

そいつ

連れてきてくれよ。

ここに。

そんな「幕末期の民衆」!

新潟の稲作農家の権兵衛さんか?

江戸の二八蕎麦屋の弥助か?

吉原の花魁高尾太夫か?

どこのどいつだよ?

幕末期に「欧米に追いつこうとしていた」民衆ってえのはよっ!?

黒船で密航を企てた大たわけ吉田松陰じゃあるまいし。

参考

「下田踏海〜吉田松陰と金子重輔が密航を試み失敗」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3736

えーっ?

確かに江戸時代、鎖国などはしておらず、細々ながらも長崎出島を通じてオランダと貿易をしていたから、「欧(米)」の情報は入ってはきていたが、それに触れていたのは幕府や武家、一部知識階級の特権階級でしょ?

そこらの権兵衛さんや弥助なんかは「欧米」なんて概念なんて無いか、あってもおどろおどろしい異国人との感情しか持ってなかったのじゃないのですかね。

それが証拠にペリー来航時に描かれたペリーの絵みてみなよ。

あれ、人間じゃないでしょ。

鬼が化物でしょ

参考

【ペリーの似顔絵】
https://www.shimoda-museum.jp/ippin/2020/04/01/1518/

ま、「幕末」といっても長いから「幕末後期」にはまれにそういう「民衆」が数人はいたかもしれませんが、数人でしょ?

数人。

だから、幕末期の民衆は欧米という概念も曖昧で「追いつこう」となんてさらさら思っちゃいませんよ。

特に江戸っ子は。

だから江戸っ子は彰義隊を支持してたでしょうに?

さらには、なんたって、特権階級の権化、孝明天皇がそうだったでしょ?

ならば民衆をや。

そう思ったのは一部特権階級だけです。

はい、これ正解!

続けよう。

社説曰く

「維新後、各地にわき起こった自由民権運動とは、その名の通り人民主権を求めました。日本には欧州の広場こそなかったが、民主主義を求める欲求は全国に胚胎していたといってもいいでしょう。」

幕末期の民衆から自由民権運動とは随分と飛びますね。それって、「戊辰戦争」「御一新」さらには「西南戦争」を挟んで隔世の感じゃないの?

それに自由民権運動なんかも板垣などの土佐藩閥と薩長藩閥との権力闘争の延長線上の感が否めないでしょうに。

さらには、細かいことだが、確かに広場ではないが、明治17年の秩父の農民は官憲の目を逃れるために、山あいの「耕地」で山林集会を開いていたのですよ。この社説の筆者は知らないかもしれないけどね!

だから、「民主主義を求める欲求は全国に存在していた」の。秩父や信州の山あいの村でもね!

それは事実ですな。

で、これからが核心なんだけど。

社説曰く

「その延長線上に明治憲法はつくられました」

だと!

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

「その」って、何のだよ?

何をさす指示代名詞?

「伊藤」の延長線上か?

「自由民権運動」の延長線上か?

あれは「伊藤」の延長線上だろ?

あれは、自由民権運動の敗北の産物でしょ?

天皇主権の大日本帝国憲法って!

続けて社説はこうのたまう。

「絶対天皇制ではあるが立憲制と議会制をしっかり明記した。日本民主主義のはじまりといわれるゆえんです。」

だと!

でたっ!

思考停止が。

これぞ、憲さん名付けて「時代が遅い方がよりよい制度史観」!

なんで、明治憲法が民主主義のはじまりなんだよ?

こいつ大日本帝国憲法読んだことあるのかよ?

ここにコピーしてやるから、よく読めよ。

特に第一章を!(一部)

第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

第5条天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ

第6条天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス

第7条天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス

第8条天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス

第9条天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス

第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル

第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

第13条天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス

第14条天皇ハ戒厳ヲ宣告ス

2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第15条天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス

第16条天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス

2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

参考

【大日本帝国憲法】
https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%86%B2%E6%B3%95

どーよっ?

どーなのよっ?

これのどこをどう読んだら民主主義なのよ?

どこをどう読んでも見事なまでの天皇主権。

それともあなたの読んだ明治憲法には違うことが書いてあるの?

教科書違うの〜?

見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし。

大したもんだよ蛙のしょんべん

天皇=伊藤=薩長閥=勝てば「官軍」でしょ?

これのどこをとって民主主義のはじまりなんだよ?

こんな憲法だったらまだ武家諸法度、公家諸法度のほうが百倍ましじゃないの?

権力者の倫理規範としては?

この明治憲法の元で民衆がどれだけ抑圧され、数多の戦死者を出したかあなたは知らないわけがないでしょうに。

私たちがまがりなりにも「民主的」な現行憲法を手に入れるには、敗戦を経験し、帝国憲法下の第90回帝国議会(昭和21年5月16日〜同年10月11日)が開かれ、そこで、明治憲法の改正が議決され、現行憲法が制定されるのを待たなければならなかったのである。

社説は続ける。

「明治憲法はプロシアをまねた。プロシア、今のドイツは当時、市民階級が弱く先進の英仏を追う立場でした。追いつくには上からの近代化が早い。国家を個人より優位に置く官僚指導型国家を目指さざるをえない。

国家優位、民主制度は不確立という、今からみればおかしな事態です。広場は不用、もしくは悪用され、やがてドイツも日本も国家主義、軍国主義へと突き進んで無残な敗北を迎えるわけです。」

そう、ここでしょ!

大日本帝国憲法の核心は。

民主主義のはじまりではなく、国家主義、軍国主義の始まりが大日本帝国憲法であり、「明治維新」でしょうに。

その認識が、この社説からはスッポリ抜け落ちているのよ。

「夜明け前」の封建的で前近代的な江戸時代を方法はどうあろうと、とにもかくにもこじ開けたから明治は少なくとも江戸時代よりはましなのよ。

って発想でしょ?

(´Д`)=*ハァ〜

こんなこと言ってたら明治維新150年キャンペーンを展開する伊藤と同じ長州出身の安倍に負けちゃうよ

大丈夫か?東京新聞!

これに関しては毎日の年頭社説のほうが断然優れていますな。

少し長いが、毎日新聞の年頭社説を引用する

この社説でも伊藤に言及する。

以下、引用。

「明治憲法を起草した伊藤博文は、『国家の機軸』を天皇に求めた。欧州のキリスト教に相応するのは『皇室のみ』と考えたからだ。こうして憲法の施行直前に発せられた教育勅語は天皇を精神的支配者にした。

三谷太一郎・東京大名誉教授は『一般国民に圧倒的な影響力があったのは憲法ではなく教育勅語だ』と指摘する。昭和期の軍部はそこにつけ込み、日本を破滅に導いた。」

以上、引用終わり。

ここでしょ?伊藤が作った明治憲法の行き着く先は。

日本の破滅的状態よ。

軍国主義と国民が壊滅的ダメージを受ける敗戦という。

毎日新聞の年頭社説はさらに続けて「国民国家」をキーワードに沖縄の明治初期の琉球処分にも言及しつつ、「民主主義の持つ統合機能」を論じている。

今年の年頭社説では最優秀賞ですな。

山田くん!

毎日新聞に座蒲団三枚!

さらに、読売新聞も年頭社説は北朝鮮の危機を煽る安倍のご用論説ではあるが、文化欄に「『明治』の持つ意味とは 江戸が育んだ『人間性』開花」という評論家・渡辺京二さんの論評を載せて、これが読ませた上で興味深い。

これも長いが引用する。

論評曰く

「明治維新で、政府も啓蒙的思想家も、それ以前の日本を全否定する必要がありました。江戸時代は野蛮な時代、まさに、『夜明け前』と言われて、それを戦後マルクス主義史学が受け継ぎました。」

んだ、んだ。

確かに日本のマルクス主義者は江戸〜明治の社会の変化、いわゆる「明治維新」に対する歴史的総括をしてこない、もしくはそれが薄いよな〜。

だから、日本のマルクス主義って結局敗北を喫したんじゃないかって考えちゃうよな〜。

彼らロシアや中国の革命史は熱く論じるが、自国の歪んだ社会変革の歴史はきっちりと総括してないんじゃないの?

憲さん浅学だから、もししっかりした論考があったら紹介してくださいな。

で、ここからがこの論評の白眉なのだが、続けて(心して読んでちょうだいね!)

「ところが、幕末や明治初期に来日した外国人が記録にとどめた日本の姿を見てみると、全然違います。みんな『幸福感あふれた社会』と言っているんです。英国公使のオールコックは、手工業の段階として日本は最高段階だと認め、農民の生活はヨーロッパよりずっと幸せだと言っています。16世紀末頃から日本は農業生産力も上がり、豊かになっていきました。フォーチュンという英国の園芸家は日本の田畑を見て『フィールドでなくガーデンだ』と美しさに驚いています。

8代将軍徳川吉宗の頃には本当に平和になりました。人々の生活は楽になり、楽しみも増えたのです。」

これのどこが『夜明け前』なのでしょう?

きっぱりと夜はあけています。

藤村に問いただしたいくらいです。

正月だから、ご祝儀にもう一脱線していいですか?

みんな、元旦に放映されたNHK新春時代劇みた?

みなもと太郎原作の『風雲児たち』の「解体新書編」

参考

https://www.nhk.or.jp/jidaigeki/fuuunjitachi/

これ、よかったわ。

杉田玄白、前野良沢らがオランダから取り寄せた『ターヘルアナトミア』を『解体新書』に訳して出版するまでの奮闘を活写しているのですが、『解体新書』と言えば、安永3年(1774年)の出版であるから、江戸幕府が崩壊する約100年も前の田沼意次の時代である。

この時代にこうもいきいきと蘭学の翻訳に励み、それが町中の書肆で売られていたこと自体、『鎖国』が嘘っぱちであることがよくわかる上に、「夜明け前」というか「夜明け」から100年前の江戸の市民にある程度の「表現の自由」が認められていることもわかる。

何より、杉田玄白や前野良沢らの並々ならない学問に対する探究心に触れ、感情移入せずにはいられなかった。いい作品でした。

思うに、江戸はいい時代でした。だれでも「医者」の看板を掲げて商売ができた。

考えようによっては、現代の一部金持ちのエリートぐらいしか医学部にいって学ぶことができず、国家資格がとれない現代より「職業選択の自由」があったかもしれません。

もちろん、それでまともに生計をたてられるか否かは別の話ですし、杉田玄白や桂川甫周級の御殿医レベルはこれまた特権階級で、次元は違うかと思いますが…。

それにしても、みなもと太郎氏、そして三谷幸喜氏共にいい仕事してますな〜。

話を読売新聞の文化欄に戻して、中略して先を読む。

「だから明治維新とは何かと言えば、『緊急避難』です。ペリー艦隊は砲艦外交でした。維新の志士が求めたのは政治的統一であり、その前提となる蒸気船と大砲でした。荒々しい国際社会に羽織袴で出ていくわけにいかず、武装のために近代産業が必要だったのです。何も、文明開化を求めたわけではなく、文明開化は後から来たんです。」

だと。

そうなのよ。

近代産業は武装のために必要だったのであり、平たく言えば「人を殺す技術のための」近代産業だったのですよ。

これは、まがりなりにも「平和」となった今から考えたら誉められた話ではないことなど小学生でも理解できることでしょうに。

論評曰く

「日本の近代は何か空虚で、根がないところにあります。西欧の帝国主義のただ中にあった、いわば『泥棒国家』のまねだったわけですから」

よくぞそこまで言ってくれた!

見直したぞ!読売新聞!

山田くん!読売新聞と渡辺京二さんに座蒲団2枚!

「ただ、そういうマイナス評価も、今だから言える後知恵なのでしょう。」

そうだよ。!

歴史を見る目なんてすべて後知恵でしょ?

その後知恵がすんごく大事なんでしょうが。

このセンテンスは蛇足ですな。

(´Д`)=*ハァ〜

長くなったので、最後に話を東京新聞年頭社説にもどしましょう。

社説は最後にこう締めています。

「思い出すべきは、民権を叫んだ明治人であり、伊藤が立ったかもしれない広場です。私たちはその広場の一員なのです。」

「民権を叫んだ明治人」って誰だよ?

板垣退助や大井憲太郎、氏家直国か?

違うでしょ、明治17年に秩父で立ち上がり斃れていった名もなき農民たちでしょうに。

で、なんでここに「伊藤が立ったかもしれない広場」が出てくるのよ。

伊藤は広場には一歩も立ってないでしょ?

広場に立つのは私たち今を生きる「民衆」であり、伊藤でもなく安倍でもないのよ。

伊藤にしろ安倍にせよ、奴等はその広場の「破壊者」でしかないことを知っているのは、私たちと共に歩んだ東京新聞じゃないの?

それとも百年後の東京新聞の社説にはこうとでも書くのかよ?

「思い出すべきは、基地反対を叫んだ沖縄の人々であり、原発で住むべきところを失った福島の住民であり、当時の偉大な首相安倍が立ったかもしれない広場です。私たちはその広場の一員なのです。」とでも。

それじゃ、百年一歩たりとも前に進んではいないでしょうに!

東京新聞よ!

数年前に掲載され私が絶賛した、あの輝かしくも時代を照らす社説(2008年、年頭社説「『反貧困』に希望が見える」)のような素晴らしい社説をもう一度私たちに読ませてくれ!

参考

「東京新聞元日社説「『反貧困』に希望が見える」に希望が見える」
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-fbef27.html

そして、これからの時代の先を明々と照らし続けてくれ!

そう願わずにはいられない2018年の元旦であった。

どーよっ!

どーなのよっ?

という訳で新年早々だいぶ長くなってしまいましたが、今年もよろしくお願いいたします。

m(_ _)m

おわり

※この随筆は憲さんの極めて偏った史観に依って書かれています。客観的な批判、反論をお待ちしています。

※画像はくだんの社説

以下、参考(社説全文)

社説 明治150年と民主主義 年のはじめに考える

明治百五十年といいます。明治維新はさまざまなものをもたらしましたが、その最大のものの一つは民主主義ではなかったか。振り返ってみましょう。

日本の民主主義のはじまりというと、思い出す一文があります。小説・評論家で欧州暮らしの長かった堀田善衛氏の「広場と明治憲法」と題した随想です(ちくま文庫「日々の過ぎ方」所収)。

明治憲法つくった伊藤

主役は伊藤博文。初代内閣総理大臣、枢密院議長として明治憲法起草の演説。渡欧し憲法とは何かを研究してきた。

起草演説の明治二十一(一八八八)年、伊藤四十七歳、明治天皇はなお若き三十六歳。

何しろ東洋初の憲法です。欧米に伍(ご)して近代国家をいかに創出すべきか。頭をふり絞ります。

そこで堀田の随想は、悩める伊藤をたとえばベネチアのサンマルコ広場に立たせてみる。

広場はベネチア共和国総督府の宮殿とサンマルコ大聖堂の並び立つ下。政治経済を行う世俗権力と聖マルコの遺骸をおさめる聖なる権威の見下ろす広場。

堀田はこう記します。

<重大事が起(おこ)ったときに、共和国の全市民がこの広場に集って事を議し、決定をし、その決定を大聖堂が祝認するといった政治形式を、(伊藤は)一瞬でも考えたことがあったかどうか>

堀田は大聖堂の権威に注目し、同じ役割を皇室にもたせるべく明治憲法はつくられたと考えを進めるが、その一方で、こんな想像はできないでしょうか。

武士最下級足軽出身の伊藤が総理、公爵、枢密院議長へと上り詰めようと、彼は広場の民衆を果たして無視できただろうか、と。

強大な幕府の打倒は志士に加え豪農富商、それに民衆の支えがあってこそ実現したのです。幕末期の民衆は当然のように欧米に追いつこうとしていたのです。

民衆の側からみる歴史

歴史の多くは支配者の側から書かれます。そうであるなら民衆の側からでないと見えない歴史があるはずです。

支配者のいう民衆の不満とは、民衆にいわせれば公平を求める正当な要求にほかなりません。

維新をじかに体験してきた伊藤は、民衆の知恵も力も知っていたにちがいないと思うのです。つまり広場の意義もエネルギーも知っていたのではないか、と。

維新後、各地にわき起こった自由民権運動とは、その名の通り人民主権を求めました。

日本には欧州の広場こそなかったが、民主主義を求める欲求は全国に胚胎(はいたい)していたといっていいでしょう。

その延長上に明治憲法はつくられました。絶対的天皇制ではあるが、立憲制と議会制をしっかりと明記した。日本民主主義のはじまりといわれるゆえんです。

明治憲法はプロシアの憲法をまねた。プロシア、いまのドイツは当時、市民階級が弱く先進の英仏を追う立場でした。追いつくには上からの近代化が早い。国家を個人より優位に置く官僚指導型国家を目指さざるをえない。

国家優位、民主制度は不確立という、今から見ればおかしな事態です。広場は不用、もしくは悪用され、やがてドイツも日本も国家主義、軍国主義へと突き進んで無残な敗北を迎えるわけです。

むろん歴史は単純ではなく明治憲法は大正デモクラシーという民主主義の高揚期すら生んでいます。それはやはり社会を改良しようという民衆のエネルギーの発奮でしょう。

戦後、両国ともあたらしい憲法をもちます。

日本では“押し付け”などという政治家もいますが、国民多数は大いに歓迎しました。

世界視点で見れば、一九四八年の第三回国連総会で採択された世界人権宣言が基底にあります。人間の自由権・参政権・社会権。つまり国家優位より個人の尊重。長い時と多くの犠牲を経て人類はやっとそこまで来たわけです。

振り返って今の日本の民主主義はどうか。

たとえば格差という問題があります。広場なら困っている人が自分の横にいるということです。資本主義のひずみは議会のつくる法律で解決すべきだが、残念ながらそうなっていない。

広場の声とずれる政治

また「一強」政治がある。首相は謙虚を唱えながら独走を続けている。広場の声と政治がどうもずれているようだ。

社会はつねに不満を抱えるものです。その解決のために議会はあり、つまり広場はなくてはならないのです。

思い出すべきは、民権を叫んだ明治人であり、伊藤が立ったかもしれない広場です。私たちはその広場の一員なのです。

以上
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