mixiユーザー(id:4535387)

2020年10月12日21:46

26 view

遺志を引き継ぐ者−赤松小三郎と大石誠之助の生きざま

フォト


※画像は赤松小三郎の東京新聞記事

※この随筆は2018年1月8日に執筆したものに加筆訂正しました。

憲さん、年末年始に遊び呆けたツケで、未読の東京新聞がたまってしまい、現在必死になって読み返しています・・・。

ということで、1867年、慶應3年は憲さんが生まれるちょうど100年前にあたる年ですが、奇しくもこの年にこの国において有能かつ有用なる人物の生命が交差している事実を、それぞれ別の記事で知り感慨を深めました。

その一人は、1867年に暗殺されこの世から生命を不条理にも抹殺された人物、上田藩出身の兵学者、赤松小三郎です。

参考

【赤松小三郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%B0%8F%E4%B8%89%E9%83%8E

去年の12月15日の東京新聞夕刊の文化欄に「再評価進む民主思想−幕末の兵学者・赤松小三郎」という記事がでていました。

憲さん赤松小三郎については、高校の同窓生のN女史に紹介され名前は知っていましたが、あらためて調べてみました・・・。

そこで、彼(赤松小三郎)の纏めた文章を紹介します。

以下、引用

「御改正口上書」   

一、天幕御合体諸藩一和御国体相立候根本は、先ず天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に国事を議し、国中に実に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。蓋し権の帰すると申は、道理に叶候公平之命を下し候へば、国中之人民承服仕候は必然之理に候。

以上、引用終わり。

この文章を読んでもわかるように彼は、天皇家と幕府と諸藩の融合を説く、当時もっとも現実的でソフトランディングなおとしどころである「公武合体」を説いています。

参考

【公武合体】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93#:~:text=%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93%EF%BC%88%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%B6%E3%81%8C,%E8%AB%96%E3%80%81%E6%94%BF%E6%B2%BB%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%82%92%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82

もっとも彼は、「天朝の権を増し」と主張しているのを見ても明らかなように、公武合体の末に天皇の権力を増し、幕府に関しては自然消滅を考えていたようなので、それはいわゆる「大政奉還論」に近いのですが、彼らしいのは、天皇を「政治利用」する勤皇派と違い、天皇に対して神聖な絶対的権威を認めていない点です。

天皇に「権の帰する」は、天皇が「徳を備え」「道理にかない」「公平の命令を下す」という三条件を満たさねばならない。そして、誰が見ても道理にかない、「公平に国事を議す」ために、天皇は「少しも背く事能はざるの局」を新たに設置せねばならない。この「局」とは、二院制議会です。これをして「国中の人民は承服」するのであって、それなしに無条件に天皇の絶対的権威を認めているわけではないと説いているのです。

当時の政治状況の中でこれだけの国家構想をもち、提案をしているとは驚くべき先進性です。

しかし、かれのこの構想も彼自身も日の目を見ることなく抹殺されてしまいます。

彼自身は薩摩藩において、東郷平八郎などに砲術を教えていたそうだが、慶応3年8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固める中、内戦の危機を回避しようと、「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松清廉、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していたようです。

しかし、上田藩への帰国の直前、薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺されました。薩摩の武力討幕路線に反対の立場で、議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われます。

これは、現在においても確証はないですが、この暗殺の黒幕は言わずとしれた「奴」に間違いないです。

ほら、昨日からはじまったドラマの主人公・・・。

赤松と同じ理由で坂本龍馬暗殺の黒幕ともまことしやかに囁かれている、今話題のあのテロリストの親玉、睾丸巨大デブですよ。

参考

【西郷隆盛】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B

中村半次郎が赤松暗殺の実行犯であるのは歴史的事実であるが、中村半次郎は奴の妄信的信者であるのは、西南戦争の中村の行動をみても明らかだ。

参考

【桐野利秋(中村半次郎)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E9%87%8E%E5%88%A9%E7%A7%8B

こうしてかくも有能な赤松は歴史の屑籠に捨てられ、かくも陰湿で悪質な輩が150年後も称揚されるこんな不条理をどうして黙っていられようか!

そしてもう一人、赤松が殺された年にこの世に生を受けた人がいる。

まずは、彼にまつわる詩を紹介しよう。

これはもしかしたら以前にも紹介したかもしれないですが・・・。

以下

誠之助の死 

大石誠之助は死にました

いい気味な、

機械に挟まれて死にました。

人の名前に誠之助は沢山ある、

然し、然し、

わたしの友達の誠之助は唯一人。

わたしはもうその誠之助に逢はれない、

なんの、構ふもんか、

機械に挟まれて死ぬやうな、

馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。

それでも誠之助は死にました、

おお、死にました。

日本人で無かつた誠之助、

立派な気ちがひの誠之助、

有ることか、無いことか、

神様を最初に無視した誠之助、

大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、

その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、

忠良な日本人は之から気楽に寝られます。

おめでたう。

以上

これは与謝野鉄幹が友人であり大逆事件ででっち上げされ刑死した新宮市出身の医師、大石誠之助を悼み、その痛切なる思いを、官権の検閲を憚り反語で詠んだものである。

参考

【大石誠之助】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%AA%A0%E4%B9%8B%E5%8A%A9

以前、佐高信氏が「週刊金曜日」でこの詩を額面通り読んでしまい、話題になりました。

参考

バトル!「大逆事件と佐藤春夫・与謝野鉄幹」
http://blog.livedoor.jp/kurekami/archives/51714155.html

この大石誠之助を出身地の和歌山県新宮市が名誉市民に推す動きがあると、一昨日の東京新聞「こちら特報部」が伝えている。

新宮市、天晴れである。

東京新聞の記事にはこうあります。

「1867年に新宮市で生まれた大石は(中略)新聞への寄稿で『人間は平等』『貧困の原因をなくさんがために力を尽くす』などと政府批判を繰り返し、地域の人びとにも非戦や人権の大切さを説いた大石だが、1910年、身に覚えのない罪で逮捕される。明治天皇の暗殺を計画したとする大逆罪だった。大石や幸徳ら12人に翌年、死刑が執行された。」

地元市民団体「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」の会長はこう言っている。

「大石は政治的圧力で冤罪に巻き込まれた。明治政府が軍国主義に傾く中、帝国主義を真っ向から批判する幸徳と歩調を合わせたことで命まで取られた。無念だったろう。大逆事件という国家の間違いがあったにもかかわらず、いまも共謀罪で自由な議論も押さえ込もうとしている。首相は『明治百五十年』を強調しているが、明るい面ばかり見ようとしていないか。反省がない限り、前には進めない。」

蓋しもっともである。

大逆事件(幸徳事件)とは言わずとしれた社会主義者を文字通り抹殺するための国家権力による一大フレームアップ事件であり、この事件一点みても、明治の国家権力がどれだけ凶暴かつ汚辱にまみれたものかはっきりしている。

参考

【大逆事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

そもそも天皇暗殺といえば、明治政府をつくった岩倉具視などは、未遂どころではなく実行して孝明天皇を暗殺したではないか。

参考

岩倉具視、孝明天皇暗殺犯人説
https://taigadorama.xyz/segodon/segocast/180826-1/

このような連中が、「尊皇」を喚き、幼帝(明治天皇)の神輿を担ぎ上げ、絶対制天皇制国家を作り上げたのが「明治」なのである。

明治などは司馬遼太郎がなんといおうと、NHKがどんな大河ドラマを垂れ流そうと、何回唾棄しても、したりない汚物にまみれた時代なのだ。

しかし、私たちは決して忘れてはならない。

その明治がでっちあげられる前に、新しい社会を真剣に考え、そして「明治」に殺された人間がいることを。

そして、その明治の中で、権力の横暴に抗い、闘いそして「明治」に殺され斃れていった人がいたことを。

そして、前者が亡くなった年、後者が生まれた年から百年後にその遺志を引き継ぐ憲さんが生まれたことを・・・。

何人も決して忘れてはならない・・・。

どーよっ!

どーなのよっ?

それにしても昨日のNHK大河ドラマ、みていて血圧あがったよ!

参考

【西郷どん (NHK大河ドラマ)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E3%81%A9%E3%82%93_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

※東京新聞赤松小三郎記事全文

再評価進む民主思想 幕末の兵学者・赤松小三郎 先進性「龍馬らと並ぶ」

2017.12.15 

 幕末の兵学者・赤松小三郎(1831〜67年)が今年、没後150年を迎えた。選挙による議会制の導入など時代に先駆けた政治思想を唱え、近代民主主義の重要さを説いた最初の日本人の一人だ。その業績は長く埋もれていたが、近年は歴史学者などの間で注目が集まっている。(大町通信局・林啓太)

 赤松は上田藩(長野県上田市)の出身。江戸や長崎で蘭学や英学を習得し、世界の情勢に通じていた。幕藩体制が揺れて日本の針路が問われる中で、朝廷と幕府が一体となった政府のもと、二院制の議会制度を取り入れる構想の実現に向けて活動した。

 「赤松は誰でも被選挙権を持つ普通選挙を想定していた」。そう説くのは、拓殖大の関良基准教授(48)。昨年刊行した自著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)では、封建時代にいち早く民衆の政治参加を唱えた先進性を高く評価する。

 門閥貴賤を問わず

 その根拠は、赤松が六七年にまとめた「御改正口上書(ごかいせいこうじょうしょ)」。幕府や、薩摩藩の島津久光ら有力大名に提出した政治改革の建白書だ。この中で赤松は、新しい政府には天皇を長とする行政府の「天朝」と、立法府に当たる「議政局」を設けることを説いた。

 議政局には、公家や大名ら三十人の「上局(上院)」と、中選挙区ごとの百三十人による「下局(下院)」を設置。下局は「道理に明なる人」を「入札(選挙)」で選び、門閥貴賤にとらわれるべきではないとも明記している。

 また、幕末維新史が専門の岩下哲典・東洋大教授(55)も「坂本龍馬らと並ぶ先進的な志士」と評する。

 来年一月下旬に刊行予定の論集『東アジアの秩序を考える』(春風社)に執筆した論文で岩下教授は、同じ口上書について検討。この中で注目したのは、議政局の決定が天朝の意に沿わなくても、議政局が再審議して認めれば拒否できない−とする仕組みを取り入れていることだ。この点を岩下教授は「米大統領と議会の関係と同じ。西洋の議会制度を熟知した赤松ならではの発案」と説明する。

 全国に教育機関を設けて国民の教育に当たることなど、口上書でさまざまな提案を打ち出したその改革の志は、しかし実現をみなかった。

 討幕派が危機感?

 明治維新の中心となった薩摩藩の西郷隆盛らを描く司馬遼太郎さんの小説『翔ぶが如く』に、こんなくだりがある。京都の薩摩藩邸で砲術を教えた「赤松某(なにがし)」に幕府の間諜との噂が立ち、藩士の桐野利秋(中村半次郎)が一刀のもとに即死させた、と。「人斬り半次郎」の異名を取る桐野の逸話として登場するだけの「赤松某」こそ赤松小三郎なのだ。

 では、赤松はなぜ暗殺されたのか。岩下教授は「朝廷と幕府が一体の政府をつくるべきだとの意見が現実味を帯び、同藩の討幕派が危機感を抱いた」とみている。

 実際にその後、薩摩藩は討幕に成功。同藩や長州藩が主体となった明治新政府は自由民権運動を弾圧し、日本の民主主義は苦難の道を歩む。こうした中、赤松の存在やその思想は忘れられていった。

 記者から150年節目に問う

 私が赤松に関心を持ったきっかけは、母校・長野県立上田高の出身者を中心に2013年に始まった「赤松小三郎研究会」だ。入会したものの名ばかりの会員だったが、異動で同県内での勤務となってからは、報道の立場でその顕彰活動に注目している。

 赤松暗殺の翌年、明治時代が始まって来年で150年。政府はその関連事業で「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」という。だが明治という時代が一方で持っていた暗部に目をつぶり「美しい国」の自賛に終わらせるべきではないだろう。日本の進むべき道が再び問われる今、民主制の先駆者である赤松の再評価が求められる。

※東京新聞大石誠之助記事全文

反骨の医師 名誉市民に 大逆事件で処刑 大石誠之助 和歌山・新宮市議会が推挙 「平和揺らぐ今こそ志継ぐ」

2018.01.05
 
 明治天皇暗殺を企てたと明治政府が捏造し、社会主義者らが処刑された一九一〇〜一一年の大逆事件で、命を落とした一人で医師の大石誠之助=写真=を出身地の和歌山県新宮市議会が名誉市民に推している。安倍首相は年頭所感で、今年は明治百五十年の「節目の年」と強調したが、歴史の教訓を正確にとらえているのはどちらか。(池田悌一)

 「大石を名誉市民とすることは、明治政府の非をただすことにもつながり、小さなまちとしては勇気がいることかもしれない。でも大石が唱えた自由や平等、非戦の思いは、今こそ再評価すべきではないか」

 そう訴えるのは、新宮市の上田勝之市議だ。

 一八六七年に新宮市で生まれた大石は、渡米して医療を学び、九六年に故郷で医院を開業した。貧しい人から治療費を取らないなど「大石ドクトル」として慕われていたが、感染症研究でインドに留学した際、横行する身分差別に触れ社会主義に共鳴。帰国後、社会主義者の幸徳秋水と親交を深めた。

 新聞への寄稿で「人間は平等」「貧困の原因をなくさんがために力を尽くす」などと政府批判を繰り返し、地域の人びとにも非戦や人権の大切さを説いていた大石だが一九一〇年、身に覚えのない罪で逮捕される。明治天皇の暗殺を計画したとする大逆罪だった。大石や幸徳ら十二人に翌年、死刑が執行された。

 上田市議によると、「名誉市民に」という動きは以前からあったが、市民らには「医師としての功績は認めるが、罪を犯した人」というイメージが残り、市も及び腰だった。

 だが、上田市議は「安倍政権による改憲が現実味を帯びている。平和が揺らいでいる今こそ、大石の思想を見直すべきだ」と考え、仲間の市議らと先月の定例会で大石を名誉市民に推挙した。議案は賛成多数で可決され、市秘書課の担当者は「遺族の意向を確認した上で、市長がそう遠くないうちに最終決定すると思う」と前向きに話す。

 地元の市民団体「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」メンバーの中森常夫さん(73)は「市議会の動きはとてもありがたい。大石は人道主義者であり、権力に屈しない人物でもあった。私たちも彼の志を継ぎたい」と評価する。

 同会会長の二河通夫さん(87)は「大石は政治的な圧力で冤罪(えんざい)に巻き込まれた。明治政府が軍国主義に傾く中、帝国主義を真っ向から批判する幸徳と歩調を合わせたことで命まで取られた。無念だったろう」とした上で、安倍政権に疑問を投げかける。

 「大逆事件という国家の間違いがあったにもかかわらず、いまも共謀罪で自由な議論を抑え込もうとしている。首相は『明治百五十年』を強調しているが、明るい面ばかり見ようとしていないか。反省がない限り、前には進めない」

 安倍首相は今月一日の年頭所感で「明治維新から百五十年の節目の年」と切り出し、当時は植民地支配の波が押し寄せる危機だったとした上で、「日本人の力を結集し独立を守り抜いた」「先人たちと同じように行動を起こせるか」と明治の精神をたたえた。

 広島大の小池聖一教授(日本近現代史)は「モノが言いにくくなっている時代だからこそ、言論や個人主義を守ろうとした大石を再評価するのは意味のあることだ」と受け止める。

 その上で「明治は国家が全体主義に傾き、戦争へと向かっていった時代だ。安倍首相の年頭所感は負の側面に触れておらず、復古主義的な面ばかりがにじんでいる」と指摘した。

以上
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する