mixiユーザー(id:4535387)

2020年10月11日07:35

19 view

『峠の思想』の作家、秩父困民党蜂起事件研究の泰斗、井出孫六氏を悼む

フォト


先日、笑点の大喜利メンバー林家たい平師匠の落語CD「芝浜」を聴いた。

「芝浜」は憲さんが、「文七元結」「子別れ」と並んで大好きな三大江戸落語である。

うーん!

唸った。

いい!

上手い。

「名人上手」といってもいいくらいに脂が乗った芸だった。

憲さん車を運転しながら聴いていたが、思わず落涙してしまい、運転がままならなかった。

(´Д`)=*ハァ〜

この芝浜は年末に高座にかかるのが常であり、大晦日を舞台にした噺である。
この噺、夫婦の情愛、酒飲みの業をよく表している。酒飲みの憲さんはこの噺をきくと酒飲みの酒に対する執着心に対して「わがる、わがる〜」と頷いてしまう。

そして、この噺何よりも労働讃歌なのである。

働くという人間の根源的欲求と労働の尊さを巧みに表現している。

この噺、落語中興の祖三遊亭圓朝が三題噺で即興で作ったとの伝説があるが、もし本当にそうなのであるなら圓朝は天才というよりは、神様に近い。そう思う。

その芝浜を演じた、たい平師匠であるが、ムサビ(武蔵野美術大学)出身だけあってイラストが上手い。CDジャケットのイラストは師匠の手描きらしい。
また、笑点をみている人は知ってると思うが物真似が上手であり、本当に芸達者である。

その笑点で、小遊三師匠とのいわゆる「秩父VS大月代理戦争」で知られる通り、たい平師匠は秩父の出身である。

実はこのCDの最後には「おまけ−実況?秩父夜祭り」という音源が入っている。

CDのジャケットの本人解説にはこう書いてある。

「子供の頃から学校の休み時間に友達とやっていたお祭りごっこ。それがまさかこんな形になるとは思っていなかった。ふるさと秩父では落語会の最後に『一人秩父夜祭』をやらないと帰してもらえない。」と書いてある。
この「一人秩父夜祭」の出来は秀逸である。
本当に12月3日の秩父団子坂にいるような錯覚に陥る。

是非ともみなさん、生で聴いていただきたい。

と、ここまでが落語でいうところの「まくら」である。

この毎年の年末に行なわれる「秩父の夜祭」のエネルギーと1884年に秩父で巻き起こった秩父困民党蜂起(いわゆる「秩父事件」)についての関連性を熱く語る作家がいた。

井出孫六氏である。

その井出孫六氏が亡くなった。享年89才。

最近、新たな著作が世にでなくなって久しいので失礼ながらもう鬼籍に入られていると勘違いしていた。

この井出孫六氏、憲さんと同じ「秩父困民党マニア」であり、それを題材とした著作が数多い。

憲さんも何冊か拝読させていただいている。

井出氏は、秩父出身ではない。
秩父から西に山を隔てて峠を越えた長野県の佐久平、臼田町を代表する名家で生まれ育っている。

信州生まれなのである。
なので、秩父困民党においても、信州北相木村出身の蜂起後半に信州に転戦した際の参謀長菊池貫平や同じ苗字でもある軍用金集め方の井出為吉に対する思いがことのほか強い。

何よりもこの孫六氏が凄いのは、この困民党信州転戦(いわゆる佐久「長征」)組の心情を理解するために、自身も秩父から佐久まで、困民党が通った十石峠を己の足で踏査したというのだから、凄まじい。

それも、現在は全面舗装されている新道ではなく、当時人一人通れるくらいの杣道である、旧道を通ったというのだから恐れ入る。(この旧道も今は林道として整備され車が通れる。憲さんも2013年に通っている。)

ただ机の上だけで創作する東大出のインテリ作家ではないのである。

彼はこう言っている。

「90年前に雄叫びをあげて峠道をかけてくだり、かけ登った秩父戦士たちの心情に幾分でも接近するたもには、トヨタ、ニッサン等の製品にはたよらぬこと、これである。」

実は私もこの「秩父戦士たちがかけ登り、かけ下った峠道」を何回か踏査したのだが、その際は「ホンダの二輪」や「ニッサンの四輪」などの「製品」に依存してしまい、己の脚では未だに歩いたことはない。
しかし、これでは「秩父戦士」の心情には迫れないのである。

私もいつか歩いて踏破してみたいものだ。

このように、孫六氏はこの事件を取材してからなのか、峠に対する思い入れが深い作家であり、「日本百名峠」という著作もある。

私も峠は好きで、特に埼玉から長野に抜ける三国峠、群馬から長野に抜ける前述の十石峠、ぶどう峠、山梨から長野に抜ける大弛(おおだるみ)峠などを若い頃は二輪で駆け巡っていた。

井出孫六氏も自身の出生地佐久平から秩父を望むと、そこには峠があった。

彼は著作の中でこう書いている。

「(前略)私の生まれた信州佐久地方というのは『秩父騒動』が秩父に敗退して『暴徒』が峠を越えてかけくだってきた最後の地であった(中略)。『暴徒』のなかには佐久側から馳せ参じたものが何人か入っていた。(中略)地元でこの(中略)人について語られる語調には、なにやら畏敬の念がこめられていたようなのが、私には不思議だった。」

「私の不思議をかきたてるもうひとつの事柄があった。明治10年代の自由民権運動といえば、その政治思想的位相は時代の最先端をゆくもっとも新しい政治運動であったはずだ。ところが、その新しい政治運動を担った菊池貫平や井出為吉の出身地といえば、山に囲まれた信州佐久地方でもことのほか交通不便な山間の僻地である北相木村という寒村であった。(中略)北相木村という山間の僻地になぜ時代の最先端を行く自由民権運動の思想が飛火のように燃え上がったかが理解できなかった。」と

私も孫六氏と同じ疑問を持っていた。

北相木村にも何回か行ったが、本当に何にもない過疎の山村なのだ。

そこに、なぜこのような先進的な思想が伝播されたのか憲さんも本当に不思議でならなかった。

しかし、孫六氏はそれを自らの脚で解明してくれたのである。

それは「飛火」ではなく必然だったのである。

その謎を解くキーワードが「峠」なのである。

彼はこう解説している。

「私の不審は、明治の中期に開通した信越線という鉄道によってつくられた文化伝播概念に慣らされたところから生じたものであったにちがいない。(中略)町に生まれた私たちは、周辺の村々よりもより中央文化に近いことによって疑似優越感に酔うことができたのだ。私が秩父事件の参謀長菊池貫平や軍資金集め方井出為吉の先進性にいだいた不思議は、そのような疑似優越感に支えられたものだったことが、峠を歩むことで確かめられたのである。」と。

そして、秩父困民党蜂起における「峠」の位置付けをこう解説している。

「秩父事件といわれるものは、(中略)きわめて広範にわたる地域農民闘争だったといわなければならない。むろん電信・電話などの連絡機能のありようもないこれらの山間にあって、コミュニケーションの手段は、唯一、峠を伝わってのマンツーマンで、困民党の組織は拡げられといたったのである。(中略)峠の道は、当時、米にしても絹にしても、農民の生活レベルでそれはいきいきと息づいていたのであり、峠のルートを通じて、人々の生活は結びあわされていた。」

「峠に立てば四界が一望できた。峠の西も東も北も南も見通せた。峠は情勢に通ずる交差点でもあったであろう。秩父事件における農民たちは、この峠をおのれの手中にしっかりとおさめていたのである。」

「秩父事件にこの峠がさまざまな影をなげかけているのはいうまでもない。人々は峠を熟知していたから、あるときは峠は重大な情報のもたらされるルートであり、ときには見知らぬ同志たちがはじめて密会する会同の場にもなった。秩父困民党の組織過程から峠を除いたら、それはクリープのないコーヒーというコマーシャルを思い起こさせる。」

この比喩は置いとくとしてもこれこそ憲さんをして「峠の思想」の作家の面目躍如である。
このように、孫六氏は「明治維新」以来の近代化の歴史において、「峠」が「扼殺(やくさつ)」されていき、ひいてはそれが農村の過疎化、耕作放棄地の増大、さらには、漁村の荒廃や都市の人口集中などの社会問題となり、われわれ現代人に大きな皺寄せとなっていると喝破してくれるのだ。

彼の思想はまさしく、憲さんと同じ、反文明、反近代化、反「明治維新」の思想に貫かれているのだ。

彼はその思想の中心に自身と馴染みの深い「峠」を置いた。

そしてその思想は「電信柱」に対しても貫かれており、「(民衆蜂起)鎮圧の道具としての電信柱」など、なぜ「送電柱」である電柱がいまでも「電信柱」と呼称されているのか?との論考なども興味深い。
また、秩父困民党蜂起を裏切った板垣退助率いる自由党に対する評価の視座も憲さんと全く同じである。

このように、井出孫六氏は一貫して民衆の立場にたち、起ち上がり弊れていった名もなき人に寄り添い著述を続けた不世出の作家であると憲さんは確信している。

晩年にはその著作が減ってしまい、いまやその作品の多くが図書館の閉架に追いやられているのは残念でならないが、その功績は不朽のものであることに変わりはないであろう。

今ごろは、泉下において菊池貫平や井出為吉と会って握手を交わし、その健闘を称えているに違いない。

そう想像し、私の偉大な作家への手向けの言葉にかえたい。

合掌。

※画像は憲さん座右の井出孫六氏の名著「秩父困民党」
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する