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2020年09月12日12:17

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考察、高尾太夫と久蔵は後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんだのだろうか?(落語「紺屋高尾」考)

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「醒酔庵日乗、どーよ!どーなのよ?」

今日のお題

「考察、高尾太夫と久蔵は後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しんだのだろうか?(落語「紺屋高尾」考)」

浅草寺の裏手にある吉原の特殊浴場街に「三浦屋」というソープランドがあるのをご存知だろうか?

赤線マニアの憲さんは以前、遊郭の痕跡を探すために吉原界隈を散歩していて気がついた。

http://www.kadoebi.co.jp/miuraya

実はこの「三浦屋」というソープランドはあの有名な「角海老グループ」の店である。

角海老グループとは、ソープランド32軒や宝石店やボクシングジム、不動産会社、バスタオル洗濯会社などを擁するグループで、その創業者・経営者は「ソープの帝王」と呼ばれているそうだ。

そして、その「角海老」とは、明治期に吉原遊廓に存在した屋号である。明治時代に吉原で奉公していた宮沢平吉なる人物が「角尾張楼」という見世を始め、その後「海老屋」という見世を買い取り、そこに「角海老楼」という時計台付きの木造三階建ての大楼を建てたのが起源とされる。当時の「角海老楼」は総籬(そうまがき)の高級見世で、歴代の総理大臣(あのスケベ宰相、伊藤博文か?)が遊びに来るような格式の店であったとそうだ。

この角海老楼、今の角海老グループとは直接関係ないそうだが、その屋号を譲り受けたそうである。

では、いまやその角海老グループの一員の「三浦屋」とはどんな屋号なのか?

それは、角海老楼を遡ることはるか江戸の昔、新吉原にあった妓楼の屋号である。

この、三浦屋に代々伝わる太夫の大名跡が「高尾太夫」である。

この「高尾太夫」は吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名であり、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された源氏名で、京都島原遊廓の吉野太夫・大坂新町遊廓の夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれている。

吉原の太夫は江戸前期での高級遊女であり、当時の主たる客層は大名などの武士層や豪商であった。

しかし、宝暦5年(1755年)に三浦屋は廃業してしまったそうである。

おそらく今の角海老グループの「三浦屋」という店はこの以前の「三浦屋」という妓楼の屋号にあやかってつけた店名だと思われる。

落語「紺屋高尾」はこの新吉原の三浦屋にいた歴代の高尾太夫の一人(六代目高尾太夫といわれ、宝永年間1704年〜正徳年間1711年に太夫をはっていたらしい)、紺屋に嫁いだ高尾太夫の噺である。

おーっと!

前ぶりが長くなってしまった。

いや〜、しかし、悔しいっ!

何が悔しいかって、これだけ難しい江戸落語の人情噺を上方の噺家にあれだけ上手くアレンジされて、あれだけ上手く語られるっていうのは、江戸落語ファンの私としては、悔しいと地団駄を踏むしかなかろう。

関西に住む高校の同級生に勧められて、上方の噺家桂春蝶さんのネタおろしを東京でやるというので、神保町の落語カフェまで出掛けた。

生で落語を聴くのは小朝師匠以来、20年ぶりくらいかもしれない。

当日いってみると、小さな会場満員に人が入っている。

圧倒的に女性が多い。

前座は江戸落語の三遊亭とむさんの噺『荒茶』であった。

参考

http://oedosoho.info/wp/20080705/

この噺、憲さんはじめてきく。
今となってはあまり、高座にはかからないそうだ。

とむさん、元お笑い芸人から噺家になられたようであるが、滑舌がよく、言葉がはっきりしていて聴きやすい。

噺も決して前座噺ではなく、結構難しい本格的な噺だ。

是非、頑張ってもらいたい。

とむさんが終わると、真打ち登場。春蝶さんである。

この、春蝶さん3代目であり、落語家の2世である。父親が2代目春蝶だが、師匠は父親と同じ3代目春団治。よって父親とは師弟関係ではなく、兄弟弟子の関係となる。

しかし、彼は父親が亡くなってから噺家を目指したそうである。

私も以前、何回か父親の2代目春蝶の噺はテレビで聴いた記憶があるが、当代の春蝶は知らなかった。

1970年生まれのいま脂がのった噺家である。

一席目は『ぜんざい公社』である。

この噺は新作の中の古典?である。「ぜんざい」がモチーフとなっているので、上方由来かと思っていたが、江戸でも口座にかかる。
憲さんは昔々亭桃太郎師匠の高座で聴いた。

日本のお役所仕事のありかたを三公社であった、「専売公社」をもじって痛烈な批判をこめた社会派のネタである。

この、ネタ父親の2代目春蝶の得意とした噺であるようだ。

さすが、関西人だけあって、ぜんざいを美味そうに食べる。

憲さんはぜんざいも汁粉も甘過ぎて苦手だ。

さらに、マクラには上方落語の有名噺家の裏話がちりばめられていて、嬉しい。

憲さんの好きな、枝雀師匠、人間国宝の米朝師匠と米団治親子、さらにざこばさんのハチャメチャな話。噺家の息子ではないと経験できない話などは興味深い。

一席目の高座が終わり、とむさんとの軽いトークのあと、中入り。そしていよいよ、春蝶さんのネタおろし、「紺屋高尾」である。

ちなみに、この「紺屋高尾」は生粋の江戸落語であり、いままで上方では全く語られていないようである。

この噺、当然ながら前述したように江戸の新吉原、三浦屋の大名跡の太夫、「高尾太夫」の噺であるから舞台は江戸になる。
この噺をどうやったら上方に移植するのかと興味津々であった。

そもそも紺屋とは「こうや」と読み、江戸弁で江戸時代の染め物屋をさした。

「紺屋」で思い出される言葉は「紺屋の白袴」であり、技能で生計を立てるものが却って自分に技能を適用できないことを表し、また、紺屋は特殊な技能を必要とされる上、流行に左右される商売で多忙であったことを表し、「医者の不養生」と同じ意味で使われる。

この紺屋という職業、春蝶さんがマクラでも触れていたが、上方のほうが歴史が古いようだ。

紺屋高尾に出てくる、紺屋の久蔵は神田紺屋町に住み働いている紺屋の職人である。

この紺屋町の界隈は、慶長年間(1596年〜1615年)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた町であった。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになったのである。

今でも神田紺屋町の地名は残っている。

都営新宿線岩本町駅の南側、神田お玉が池のあった場所から昭和通りを挟んだ西側にある。

江戸落語の「紺屋高尾」の久蔵もここに住んでいる設定だ。

まず、噺をきいて面喰らうのは、久蔵が大阪弁で話をするところである。親方も大阪弁である。

さすがに、高尾太夫を上方に持っていくわけにはいかないので、春蝶さん、久蔵を上方から持ってきた。

上方の紺屋職人が江戸にでて、上方出身の親方に集まってきたという設定にアレンジしているのである。

大阪弁の久蔵とは新鮮かつ衝撃的である。

この、紺屋高尾主人公は久蔵の熱愛に絆(ほだ)されて久蔵に嫁ぐことになる高尾太夫であるが、なんといっても春蝶さんの噺の圧巻は、久蔵の高尾太夫にたいしての愛の告白である。

憲さんが、いままで知りうる男性が女性に対する愛の告白で最高峰と思うのは、映画『男はつらいよ』第1作の博がさくらにフラれたと勘違いしながらも思いのたけを告白するシーンであるが、この紺屋高尾の久蔵が高尾に対して愛の告白をするアリア(独唱)もこの博の台詞に負けず劣らず素晴らしい。

江戸落語でのこの久蔵の告白は結構あっさりと語られるのだが、春蝶噺はここがじっくり、語られる。自身の生い立ちから、なぜ一目見て高尾太夫に惚れたか、これは是非とも春蝶さんの噺を聴いてもらいたい。

よく練られたアリアになっている。

高尾太夫が絆(ほだ)されるのも頷ける。

江戸落語の噺家でもこれだけ久蔵の独白を語れる人はそう多くなかろう。

憲さん、不覚にも落涙してしまった。

「紺屋高尾」で落涙したのははじめてである。

この、久蔵の独白が圧巻すぎて、そのあとの高尾太夫の台詞や仕草が思い出せない。

春蝶さんの久蔵は主役の高尾太夫をそれだけ気迫で凌駕していた。

このように、春蝶噺はそうとう練ったアレンジがほどこされており、私としては元の噺によりも、よりリアリティーが増している。

ところで、この「リアリティー」について、春蝶さんの「紺屋高尾」を聴いていて気になる点があった。

その辺りを語ると「野暮」の謗りを受けそうであるが、あえて触れさせてもらう。

それは、久蔵はその夜は初会とも思えないもてなしぶりで、その夜高尾太夫と枕を共にして、本懐を遂げたことになっている。

江戸落語での「紺屋高尾」では、この本懐を遂げるパターンと遂げないパターンの二種類が存在する。

もう1つは、「松の位(江戸時代、江戸吉原や京島原大坂新町における官許の遊女で最高位にある者への呼び名。)の決まりとして、初会では客に肌身は許さないから今日はこれで終わり。花魁が型通り『今度はいつ来てくんなます』と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。」と演出する場合がある。

一般的に言われる遊郭においてのしきたりは、初会(1回目)、遊女は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしない。この際、客は品定めをされ、ふさわしくないと思われたらその遊女とは付き合うことができなかった。客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
裏(2回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
3回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。通常は、3回目でようやく床入れ出来るようになる。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%AD%81

しかし、こういう指摘もある。

以下

「初会〜裏〜馴染み」のようなしきたりは実在が疑問視されている。また実在したとしても、あくまでも大名や豪商が主たる客層であった江戸前期(元禄ごろ、17世紀末)の全盛の太夫に、そのような接客を行った者もいた程度の特異な例であると考えられる。
理由として安価に利用ができる飯盛旅籠(宿場女郎)や岡場所の隆盛したことや、主たる客層が武士層から町民層に移ったことなどにより、煩雑な作法や格式と高価な吉原の運営方式が敬遠されるようになった。 それは宝暦年間には吉原では高価な揚げ屋遊びの消滅や、歴代「高尾太夫」を抱えていた高級店「三浦屋」の廃業、そして太夫の位も無くなるなど顕著に現れ、宝暦以降の吉原は旧来の格式や作法は解体され大衆化路線へと進んだ。

以上

また、他のサイトにもこうある。

以下

下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、高級遊女を揚げるには様々なしきたりが存在していたといわれる。

大店には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。
座敷では、遊女は上座に座り、客は常に下座に座っていた。花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
初会(1回目)、遊女は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。この際、客は品定めをされ、ふさわしくないと思われたらその遊女とは付き合うことができなかった。客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
裏(2回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
3回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。通常は、3回目でようやく床入れ出来るようになった。
馴染みになると、客が他の遊女に通うのは浮気とみなされる。他の遊女に通ったことがわかると、客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。客は金を支払って詫びを入れたという。ただし宝暦(18世紀半ば)以降ではこのような廓の掟は廃れている。
馴染みの客の指名がかち合うこともある。その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。(ただしこれは花魁に限ったことではない)
ただし上記の宝暦以降の記録では高級遊女であった呼び出し昼三(花魁)も初会で床入れしており、『古今吉原大全』などこの時期の文献にも「初会〜馴染み」の手順は記載されていない。少なくとも「太夫」に代わり「花魁」の呼称が生じた宝暦以降では、上述のようなしきたりの一般化は考えられず、後世に誇張された作法として伝わったものと考えられる。

『古今吉原大全』によれば「初会で床(とこ)に首尾(しゅび)せぬは客のはじ、うらにあわぬは女郎のはじと、いゝつたふ」とあり、初会の客をつなぎ止めなければ遊女の落ち度となるとされていた。

なお現存する錦絵や歌舞伎芝居や落語、講談、映画やテレビドラマなどの、フィクション世界での遊女の姿は文化・文政期(19世紀初め)の風俗を参考としており、対していわゆる廓の掟と称されるものは宝暦(18世紀半ば)以前の作法に由来するものが多く、虚像と実像には時代的に大きな開きがある点も注意が必要である。(参考:永井義男『図説吉原入門』学研)

確かに、男の本懐を遂げるまでに三回も通わなければならないというのは今から考えると、悠長すぎるとは思われる。しかし、やはりこれは最高ランクの遊女と遊ぶ、大名や豪商などの「お大尽」の遊び、それは閨(ねや)を共にするだけではなく、一種の文芸サロン的な文化を楽しむ場所でもあり、このまどろっこしさも含めて、「遊び」の一貫なのであろう。

ところで、この高尾太夫が三浦屋で太夫をはっていたのはこの廓の遊びが大衆化された宝暦年間の40〜50年くらい前と言われている。

この時代における、吉原の御大尽遊びと言えば、まだ引手茶屋全盛ではなく、揚屋が残っていた。
客はまず揚屋にあがり、太夫を指名する。揚屋は「揚屋差紙」の証文を遊女屋に送り、遊女屋は指名された遊女を揚屋に差し向ける。この移動を吉原の中にある「京町」から「江戸町」などへの東海道の旅に見立てて「道中」(揚屋入り)と称した。

ちなみによく「花魁(おいらん)道中」と称しているが、遊女を「花魁」(おいらん)と称するようになるのは、宝暦年間になり、揚屋も太夫も廃絶してしまった後であり、一番古い文献の記述で明和年間(宝暦の次の元号、1764年〜)であり、引手茶屋が隆盛を極め、遊女遊びが大衆化されてからの名称となるから、まだ「高尾太夫」がいた頃には「花魁」という呼称は存在していなかったと思われる。

と、このような事実を正確に確認するのはタイムマシンがなければ不可能なので、これらをどうこう言うのは、まさしく野暮な話であろう。

では、この「紺屋高尾」という落語において、高尾太夫は「初回」の久蔵と一夜を共にしたかどうかを、物語としてどう考えるかになってくる。

そこで、古典落語としての「紺屋高尾」における、高尾太夫のこの台詞が決め手となる。

高尾太夫は久蔵の告白をきいてこう答える。
「源平藤橘、四姓の人(どこの誰でも)に、枕を交わす賎しい身を、よくも三年の間思ってくれた。」と。

これは、遊女に身を落とし誰とでも枕を共にする、高尾太夫自身が自身の境遇を嘆いているのである。

この噺のマクラや最後に語られる「傾城に真なしとは誰が言うた」ではないが、遊女にも誠があるのである。

だから、遊女といえども、本当に自分を惚れてくれた男に誠を尽くして、年があけたら夫婦となるためには、心は「処女」のままで嫁ごうと高尾太夫は思ったはずである。

だから、当時のしきたりともあいまって、初回の時は久蔵とは閨を共にしなかったとするほうがぐっとプラトニック感が高まり、その後の年があけて輿入れするまでの、久蔵のワクワク感が高まるはずであり、さらに大人のお伽噺としての効果も高まるはずである。

しかし、例えば故歌丸師匠の「紺屋高尾」では、ここをこういう風に演出している。

「さあその晩はご亭主以上の扱いを受けて、烏かあーで夜が明けます。」

これで、この噺は大人のお伽噺(メルヘン)から、一気に「艶噺」になるのである。

この甲乙、良し悪しは聴くものに委ねられるだろうが、私は圧倒的に前者を支持する。

「紺屋高尾」は「艶噺」ではなく、大人のメルヘンであってほしいのである。

だから、結論としては、高尾太夫と久蔵は会ったその日には後朝の別れを惜しむことはなく、高尾太夫は精神的には「処女」として久蔵に嫁いでいくのであって、私もそうあってほしいと思う。

ちなみに、「後朝の別れ」とは、「男女が互いに衣を重ねて共寝した翌朝、別れるときに身につける、それぞれの衣服が別れることから、 相会った男女が一夜をともにした翌朝。また、その朝の別れ。を言う。

紺屋高尾一席でここまで長く語ってしまった。

しかし、繰り返すが悔しい限りである。

上方に江戸落語をここまで上手くアレンジされ上手く語られるとは。

それほど江戸落語ファンの私を唸らせる、春蝶さんの至極の芸でした。

春蝶さんと、それを紹介してくれた同級生に感謝。

高座の最後に春蝶さん、「この噺になにか、疑問やおかしいと思うことがあったら、直接私のところまできてください。みっちり語り合いましょう」と私の顔を見ながら言っていました。

私の顔に何か書いてあったのでしょうか?

芸に対する真摯な姿勢も好感が持てました。

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像は桂春蝶さん

※参考文献
・安藤優一郎著『江戸の色町、遊女と吉原の歴史』
・つだかつみ、中沢正人著『競作かわら版』落語と江戸風俗
・桂歌丸著『歌丸ばなし』
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