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2020年08月18日14:21

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燃え尽きる学者の肖像(『幸福の増税論』を読んで)

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憲さんの日々随筆

「醒酔庵日乗、どーよ!どーなのよ?」

今日のお題

「燃え尽きる学者の肖像(幸福の増税論を読んで)」
先日、随筆で「消費税増税に未来はあるのか?」という随筆を書いた。

東京新聞で経済学者の井手英策氏の紹介インタビュー記事が載っていたからだ。

基本的に批判的に書いたが、やはり気になった。

そこで、先生の著作を二本図書館で借りて読んだ。

『幸福の増税論−財政はだれのために』(岩波新書、2018年)

参考

https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b378373.html

と、

『ベーシックインカムを問いなおす−その現実と可能性』(法律文化社、2019年)

参考

https://m.facebook.com/horitsubunkasha/photos/a.881489298594470/3191152677628109/?type=3

である。

冒頭、些末なことかも知れないが、先生に一言苦言を呈したい。

前者の著作は、一人称が全て「僕」「僕たち」になっているが、これはすごく読みづらい。

憲さんより年下とはいえ、50近いそれも東大を出た超インテリの大学の先生が、自分をしての一人称に「僕」はないのであろう。

小学生の「ぼくちゃん」ならいざ知らず。

以前、どこかにも書いたが、「僕」という一人称は吉田松陰が作り出したものである。

これを裏付けるのが松陰が唱えた「一君万民論」という考え方で、それはただ一人の君主にのみ生来の権威・権限を認め、その他の臣下・人民の間には原則として一切の差別・身分差を認めないとする思想・主張である。
この、一君とは天皇のことであり、その下では武士も農民も商人も職人もすべて身分に関係なく同じ下僕である。だからみんなが「僕」となる。

そこから来ている。

「リベラル」を自認する著者がまさか、自分を「天皇の下僕」とは考えているまい。

それに「僕たち」という表現も性別に関する社会的規範(いわゆるジェンダー)に抵触しよう。

まさか、自分を「僕」と呼称する女性が多数派とは思えない。

日本には「私」という立派な一人称があるのだから、是非ともこの言葉を使っていただきたい。

と、苦言はこのくらいにして、憲さん、これらの本、経済音痴なので一読しただけでは深く理解したとは言いがたいが、感想を述べる。

なるほど、この先生、ベーシックインカムより、ベーシックサービスを推薦している。

まずは、ベーシックインカムが財政学的にいっても、非現実的であるのはよくわかった。

確かに、ベーシックインカムより、ベーシックサービスのほうが断然優れているのであろう。

ただ、これについてはベーシックサービスを受ける必要のない若年かつ単身で健康な低所得者層に対する配慮はほとんどないが、それはそれで消費税増税は甘受し、がむしゃらに働けということなのだろうか?
将来的にベーシックサービスを受けるためにも。

私はそう受け取った。

ところで、彼の理論は以前紹介した『希望の資本論』で佐藤優氏が発言した、以下の流れに沿った考え方であると思われる。

「資本主義はそう簡単には壊れない。(中略)が、このシステムには相当問題がある。それは人間をボロボロにする危険性がある。だからとりあえずうまくつきあっていかなければいけない。もしかしたら、いつかこのシステムはなくなるかもしれないが、それは近い未来には来ないような感じがする。それでも、資本主義にとらわれないような生き方はできるわけです。」

先生は少なくとも、「いつかこのシステム(資本主義)はなくなるかもしれない」という前提には立ってはいない。故に、この資本主義体制のなかで財政社会学的にこの「貧富の差」「生きづらさ」をいかになくすのかが課題となる。

その解決の方策が先生の言葉を借りると「尊厳ある生活保障」と「品位ある命の保障」からなる「生の保障」である。

これにより、誰もが自由に生き、可能性にむけて挑戦できる社会が誕生すると言うのである。

イメージするのは北欧型の高福祉高負担型の社会である。

政治的には社会民主主義なのであろう。

その「高負担」の財源に「消費税増税」を充てるというのである。

そして、消費税の増税のみならず、所得税の累進強化や、法人税の課税見直しなども含めてパッケージで財政の転換をはかるべきだと提言する。

それはそれで説得力がある。

なるほど、憲さんももしこの資本主義がなくならないのであれば、少なくとも北欧型の社会のほうがより良いと思う。

そして、この著書は憲さんが疑問に思うことにも一つ一つ丁寧に答えてくれている。

その見出しだけでもあげよう。

・消費税は格差を大きくするのではないか?
・中小企業の負担が大きくなるのではないか?
・(企業の)内部留保をまず吐き出させるべきだ。
・消費税は景気を悪くするのではないか?
・(そもそも)なぜ消費税はあるのか?
・ムダを削れば財源が出るのではないか?
・防衛費と公共事業費はどうか?

等々…。

ほとんどが憲さんの問題意識と合致するものである。

これに対してこの著書は学者だけあって、いろいろな統計などを駆使して説明してくれる。

全部が全部納得できたわけではないが、それなりの説得力はあるように思える。

そして、憲さんが一番重要視している「消費税反対論」に対する設問と回答も彼は用意してくれている。

それが…、

・信頼できない政府に税を払うのか?である。

ここである。憲さんが一番問題視しているのは!

今の自民党政権に対して、消費税の増税を提言するのは「敵に塩をおくる」行為である。税を執行する政権と財務省官僚が根本から変わらなければ、その政策そのものが画餅となるのではないか?

これに対して先生は歯切れが悪くこう切り返す。

「その拒絶によって、この社会がいったいどのようによくなるのだろうか。」と。

そして、「信頼できない政府がどうすれば自分たちの期待どおりに行動するようになるか」を考えるほうがはるかに大事なのではないだろうか。と書いてオランダ経済政策科学局の例が提示されている。

しかし、日本でも当然「信頼できない政府がどうすれば自分たちの期待どおりに行動するようになるか」をずっと考え続けてきた結果がこの体たらくだったのではないだろうか?

そして、いままで私たちは自民党の政治と財務官僚の狡猾さにまんまとやり込められているのである。

やはり、いまの日本を支配してる政権と官僚体制をすべてご破算したうえでの先生の議論には魅力があるかもしれないが、今の「政府がどうすれば自分たちの期待どおりに行動するようになるか」なんて甘っちょろいことを言っていたら、私たちはまたまたしてこてんぱんにやられるのがオチではないのか?

この本の最後を先生はこう締め括っている。

「僕たちはあらたな文明社会を切りひらくのだ。高らかに自由と共存の旗を掲げながら。さあ、選択不能社会を終わらせよう。可能性への闘争をはじめよう。いますぐに。」と。

はー。闘いの武器(理論)はあるが、これでは敵が誰で、どう闘えばいいかの戦略はよくわからない。

先生の「おわりに」の文章を読むと、その実践的結論が「民進党の政策作り」であったとしても、並々ならない決意が読みとれて少なからず感動を覚える。

しかし、最後の一文に愕然とする。

「この本とともに、僕は自分を燃やし尽くすことだろう。愛する家族へ。大切な仲間たちへ。もうすぐ変えるよ。」である。

かれの帰る場所とは「学問の場」すなわち象牙の塔なのである。

彼はこの著書で明日のジョーばりに「真っ白な灰」となり、ただ象牙の塔から闘いを呼び掛けるだけとなるのであろうか?

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像は『幸福の増税論』
※この井手さんの主張をさらに左から批判する論調を知りませんかね?
少なくとも私にはぐーの音もでません。

※先生の論は、「働かざるもの食うべからず」論者や、「このような制度は勤労意欲をなくす」などと考えている人たちにとっては、いい刺激になると思います。
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