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2020年08月15日14:02

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マルクスVSウェーバー (マックス・ウェーバー没後100年)

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憲さんの日々随筆

「醒酔庵日乗、どーよ!どーなのよ?」

今日のお題

「マルクスVSウェーバー (マックス・ウェーバー没後100年) 」

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが没して今年で100年となるそうだ。

8月11日の東京新聞の特報記事で知った。

しかし、こういう記事をデカデカと掲載する東京新聞特報部の切り口には感心する。
他紙などは取り上げているのであろうか?

マックス・ウェーバーは現在でも日本では読み継がれ、最近でも二冊の評伝がでたそうである。

いま、マックス・ウェーバーがプチブームになっているようである。

マックス・ウェーバーは言わずと知れた『プロテスタンティズムの倫理と資本の主義の精神』(プロ倫)が著名である。

憲さん邸の書棚を漁ったら、あったので憲さんも学生時代に何かの授業で購読を勧められて購入して、「ページを繰った」のであろうが、全くもって中身は記憶にない。

(´Д`)=*ハァ〜

記事では、評伝を書いた大学の先生が、ウェーバーをこう評している。

「資本主義や宗教についてさまざまな情報を吸収し、濃密な文章で表現した学者。あれほど知的発信力がある人はなかなかいない」としている。

そんなに偉大な学者なのか。

この記事の後半で、なぜマックス・ウェーバーの著作を読むのかとの問いに、違う大学の先生は答えている。

その主旨はこうだ。

現代の日本における、疲弊した官僚組織、安倍一強政治にたいする閉塞感、規制緩和や市場原理を推し進め、格差が極限まで広がる、新自由主義経済政策。それら現代に突き付けられた問題に対して、問い直すヒントをウェーバーは与えてくれるというのだ。

学者はさらに指摘する。
「コロナ禍で、政治家の判断が命や生活を左右しかねないと実感した人は多い。こうした状況で、政治に選択肢はないのか問い直すことも重要だ。」
「『自分の力ではどうやっても社会を変えられない』と閉じこもらないために、どうすればいいか。政治家と官僚の関係を巡るウェーバーの思想を振り返ることには意味があり、考えるヒントになる」そうだ。

ウェーバーは「現代の問題」を「問い直し」「社会変革」の「選択肢」を探す「ヒント」を提示してくれているらしい。

これまた、本当か?

では、ウェーバーの代表作、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(プロ倫)には何が書かれているのか、記事から読む。

「『プロ倫』は工業大国になりつつあった19世紀末〜20世紀初頭のドイツ帝国で、成功する商工業者の多くがキリスト教・プロテスタントであることを指摘。禁欲的プロテスタントが、どのような心理的過程を経て『資本主義の精神(合理主義の精神)』を編み出したかを考察している。」そうだ。

「『プロ倫』によると、プロテスタントの間には神が人間の中から救済する者を選ぶ『予定説』の発想がある。彼らは自分が救われるか分からない不安から孤独になり、神から救われる確証を得たいがために働く。こうした生活様式が、合理性を重視する活発な経済活動を生む。」とウェーバーは考えたようである。

はー。

そうですか?

でも、プロテスタントを信じる憲さんの同僚は、確かに禁欲的ではあり、「予定説」なるものも信じているようだが、少なくとも「合理性を重視」しているとは思えない頑固者なのですが…。

これって、その前提がもう崩壊していませんかね?

このウェーバーを紹介した学者も「『プロ倫』には論理の飛躍や想像もある」と認めているが、それは飛躍しすぎじゃないの?って憲さん思いますよ。

しかし、この『プロ倫』憲さんの書棚にもあるくらいだから、日本中古今東西老若男女に読み次がれてきたようである。

記事にはこうある。

「日本では明治維新以降、西洋にならい、追いつこうとした。」そして「戦後、学者ら知識人の間で西洋の近代化を捉え直す機運が高まった。近代的な諸制度を輸入するだけではなく、それを生んだヨーロッパの『精神』を把握するためにウェーバーに手がかりを求めた」とある。

ということは、現在の日本の近代化や資本主義化は仏教徒である私たちの先代が「プロテスタンティズム」を学んだからなのか?

にわかには信じがたい。

しかし、政治学の権威丸山真男は「プロ倫」をして「社会科学の主食中の主食」と評し、さらに驚くことに、1984年にドイツの出版社でウェーバーの全集が刊行されると、注文の3分の2が日本からだったそうだ。

そんなにすごいのか?

ウィキペディアの「マックス・ウェーバー」の見出しにはこうある。

主な業績

ヴェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放(die Entzauberung der Welt)」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年−1905年)である。この論文の中で、ヴェーバーは、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。この論文は、大きな反響と論争を引き起こすことになったが、特に当時のマルクス主義における、「宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される」という唯物論への反証としての意義があった。

(中略)

日本においては、丸山眞男や大塚久雄や川島武宜をはじめとして、多くの社会科学系の学者に強い影響を与えた。ヴェーバーの日本における受容は、日本が太平洋戦争で敗北したのは「合理主義」が欠けていたためであるという問題意識と、社会科学におけるマルクス主義との対置という文脈、という2つの理由が大きかった。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC

このように、ウェーバーの思想はマルクス主義に対するアンチテーゼとしての意味合いが強いと思われる。

しかし、マルクスが言う「『宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される』という唯物論」のほうが憲さんにとっては圧倒的な説得力を有していると思いますな。

そもそも、一地域の宗教にすぎないキリスト教カルバン派の教義を、世界的に普遍性のある資本主義の本質に適用させること自体無理があるのではないか?

しかし、なぜその理論に日本人が飛び付いたのかも謎である。

敗戦の日だから言うのではないが、「日本が太平洋戦争で敗北したのは『合理主義』が欠けていたためであるという問題意識」を仏教徒が主流の日本にプロテスタンティズムをあてがってもその答えは出ないのではないか?

私はそう考える。

デスクメモにはこうある。

「コロナ禍の夏休み、時間はたっぷりある。脳の劣化は進んでいるだろうが、30年ぶりに(『プロ倫』を)再挑戦してみるか」と。

いま、再挑戦すべきなのは『プロ倫』ではなく『資本論』ではないのだろうか?

私はそう確信する。

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像はくだんの特報記事と憲さん邸の書棚にあった『プロ倫』。旧漢字で書かれているので漢字マニアの憲さんにはたまらない。
(´艸`)くすくす
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