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2020年08月11日00:20

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講座派か労農派かそれが問題だ!『希望の資本論』を読んで

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憲さんの日々随筆

「醒酔庵日乗、どーよ!どーなのよ?」

今日のお題

「講座派か労農派かそれが問題だ!『希望の資本論』を読んで」

【国家独占資本主義】

学生の頃、仲間と議論していてこの単語を聞いて全く意味がわからなかった。

今もあまりよくわかっていない。

Web版経済用語辞典にはこうある。

「国家独占資本主義とは、国際的競争や政治的危機、社会問題の激化によって膨張した資本主義諸国の官僚機構が、住民に税負担を課しながら財政資金によって合法的に巨大独占へ利潤を保障する体制のこと。国家独占資本主義は、資本主義の最高にして最後の段階であり、もっとも社会主義に接近した資本主義である。官僚機構の技術的構成が高まり、巨大独占の国家への寄生性がつよまるので、公務労働の重要性が高まり、住民と公務労働者の同盟によって独占を規制し、官僚機構を改革する条件の成熟した資本主義である。」

「資本主義の最高にして最後の段階であり、もっとも社会主義に接近した資本主義」?

本当か?

ウィキペディアにはこうある。

「マルクス経済学者たちが主張する概念である。巨大独占資本が現れて資本主義経済の矛盾が顕在化したため、その矛盾を解消するために持続的成長を目指そうと、国家・政府が積極的に経済に介入するようになった資本主義の状態を指す。独占資本主義が更に一歩進んだ状態のことである。元来はレーニンの用語であるが、その規定についてはいくつかの説がある。ケインズ経済学やニューディール政策を、マルクス経済学の立場から批判する用語としても用いられた。」

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%8B%AC%E5%8D%A0%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

これは帝国主義とはどう違うのか?

それとも帝国主義の一形態なのか?

アメリカの1930年代のニューディール政策がそれなのか?

現在、国家独占資本主義体制の国家はどこなのか?

日本もそうなのか?

新自由主義経済との関係はどうなのか?

手元の経済用語辞典にはこうある。

「帝国主義最後の小段階で、独占資本が資本主義の基本的矛盾の破局の到来を延ばすために、国家的権力を強力に利用する体制。生産全般に対する国家統制、ときには産業の国有化、社会政策、管理通貨制度などを特徴とする。」

この説明が一番シンプルでわかりやすい。

とにかく、レーニンが言い出したマルクス経済学の用語であるらしい。

マルクス主義経済学を学んだ池上彰氏

この人はこの難解な「国家独占資本主義論」を大学の卒論テーマにしたらしい。

あの池上彰氏である。

池上彰氏といえば、元NHKのニュース解説者で、今はフリーで解りやすくニュースを解説してくれるおじさん。という認識しかなかったが、実は彼は大学でマルクス経済学を学んでいたようなのだ。

彼は高校生のときに、「経済学は金儲けのためのものではなくて、なんでこんなに貧富の差があるんだろう、なぜ世の中にこんな問題があるんだろうというのを解明する学問なんだということがわかった」ようで、マルクスの『資本論』に興味を持ったようである。

そして、高校生の時に高内俊一の『現代日本資本主義論争』なる本を読みその論争の主体たる労農派と講座派どちらが、日本経済を分析するのに優れているのか悩んだというからかなりマセた高校生だったようだ。

そして、「なんとなく労農派のほうが正しいような気がして」労農派の先生のいる大学をと選んだのが、慶応大学の経済学部だったようだ。

当時、慶応の経済ではマルクス経済学を教えていたようだ。

意外である。

その池上彰氏が佐藤優氏と2014年に対談した内容をまとめた本を図書館で借りて読んだ。

『希望の資本論』である。

参考

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=18115

これは、「知の巨人」とも言われる佐藤優氏の圧倒的知識と池上彰氏の学生時代から持っているこのような問題意識と知識を擦り合わせ、当時話題になったフランスの経済学者トマ・ピケティ氏の著者『21世紀の資本』を批判的に解説しながら、マルクスの『資本論』へと誘う導入書の役割を担っている。

「日本資本主義論争」

この本で、私が一番刺激を受けたのは、池上彰氏が高校生の時に悩んだ、講座派と労農派の「日本資本主義論争」についてである。

私も学生時代からこの論争の存在を承知はしていたが、どちらが正しいのかで悩むことはなかった。

しかし、齢50を過ぎてはじめて、この論争を真面目に学んでみようかと思う。

というのは、本書のこの部分を読んだからである。
「では、理屈として両者の何が違うのか。講座派も労農派も本当は革命論を扱いたいのですが、革命論を扱うと当局に捕まるので、主として明治維新の性格をめぐる論争をしていました。(佐藤)」

「明治維新」については憲さんも当然ながら一家言ある。

野呂栄太郎や羽仁五郎らを中心とした共産党系学者が中心となり『日本資本主義発達史講座』に集ったのが「講座派」であり、それに対し「労農」という雑誌に集ったのが、非共産党マルクス主義者の「労農派」で向坂逸郎などが中心であった。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AB%96%E4%BA%89

そして本書にはこうある。

「明治維新というのは、ブルジョア革命(市民革命)だったのか、それとも絶対主義を強化する一種のクーデターなり権力闘争だったのかという論争で、講座派は明治維新を権力闘争であり市民革命ではないとする後者の見方だった。」

これに対して「労農派の考え方は、明治維新は基本的に市民革命だった。というものです。」

これについては、明らかに講座派が正しいでしょう。

そもそも市民革命(ブルジョア革命)とは、ブルジョアジーを中心とする市民階級による社会革命であり、イギリスの名誉革命、アメリカの独立戦争、フランス革命に代表されれる。
絶対主義体制を倒し、議会政治の採用、市民的自由の実現など、国民主権と基本的人権の尊重を基調とした近代民主政治を生み出し、資本主義の確立、発展におおきな影響を与えた。とある。(山川出版『政治・経済用語集』)

そして、わが国の「明治維新」を振り返ると、それはあきらかに「市民(ブルジョアジー)」による革命ではなかった。

そもそも、幕末において西洋における、近代市民社会を生み出したといわれる商工業者はいるにはいたが、その「市民」としての意識は低く、「ブルジョアジー」として「自律的、主体的に行動する」までには成長はしていない。

「明治維新」とは明らかに講座派が言うように当時の特権階級の武家の権力闘争であり、政治支配者層内における非合法的武力行使による政権移譲でありまさしく「クーデター」であり「市民革命」なんてものではさらさらなかったのだ。

確かにそのクーデターに資金的に援助をした「商人」たとえば、長州藩を資金援助した豪商、白石正一郎などいるにはいるが、それは少数であり少なくとも「明治維新」の主体たる勢力ではなかった。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E6%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E

また、「明治維新」を側面から支援したといわれる幕末期の民衆蜂起、すなわち武州一揆を代表する「世直し一揆」が存在するが、これはいわゆる「明治維新」とは政治的、思想的には全く連携されておらず、またその主体たるは貧農であり、半プロレタリアート階級であったのだ。
そして、皮肉にもその「世直し一揆」を農兵として弾圧していった階級こそが、後に自由民権運動を担う「ブルジョアジー」階級へと成長していくのである。

よって、結論としては「明治維新」はブルジョア革命などどはなく、支配階級内の非合法武力による権力奪取、いわゆる「クーデター」なのである。

結論がでたところで先に進もう。

「明治維新」を市民革命ではないと規定した講座派は、ではどのような実践的結論に至ったのか?

市民革命ではない「明治維新」を経た日本はそれまでの徳川将軍家が支配する封建制から絶対主義的天皇親政体制が支配する新たな封建制となった。
だから日本に資本主義や市民が育とうとしても、この絶対者義的天皇制により抑圧され、育たない。だからまず市民革命を起こして、自由や平等、資本主義の確立を目指す。その後に社会主義革命をやるという二段階革命論をとるのだ。

これに対して「明治維新」=市民革命論をとる労農派は、日本は民主主義的な選挙もできているし、いろいろな問題があるにしても、基本的には資本主義国で、それもかなり高度に発達した帝国主義国である。だから、当然ながら革命は社会主義革命を目指すのだ。という主張である。

すなわち、講座派は日本の資本主義は絶対主義的天皇制により封建制が強化されたことにより特殊なシステムとなった。と考え、労農派は、日本の特殊制はあるには、あるが、基本的には世界資本主義システムという普遍的な体制に組み込まれていると主張しているのだ。

これは、圧倒的に労農派の主張が正しいであろう。


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