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2020年08月08日02:59

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憲さん随筆アーカイブス 『海と毒薬』の真実 史実としての“九州大学生体解剖事件”

フォト


※この随筆は2018年1月29日に執筆したものに加筆修正しました。

※画像は大分県竹田の撃墜現場にある、撃墜されたB29の米兵搭乗員の出撃前の記念写真とB29に体当たりを敢行した日本海軍少年兵の写真のパネル。

まだあどけない青年たちである。

憲さん、育った場所が千葉県なので生粋の江戸っ子といえども、房総半島にはことさら愛着があり、よく遊びに行ったり、史跡や戦跡を訪れる。

そんな房総半島、B級スポットを含めくまなく巡ったつもりであるが、まだまだ知られざるスポットがある。

そんな憲さん未踏の房総半島B級戦跡スポットがある。

それが、木更津の山中にある「B29搭乗員慰霊碑」だ。

敗戦3ヶ月前の1945年5月29日の昼間、アメリカ軍によって横浜市中心地域に対して無差別爆撃が行われた。

横浜大空襲である。

参考

【横浜大空襲】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃で約8千から1万名の死者を出した。

アメリカ軍は、 燃えやすい木造住宅の密集地を事前に綿密に調べ上げ、焼夷弾で狙い撃ちにする最初から非戦闘員を狙った住民標的爆撃であり、卑劣な空爆であった。

その横浜大空襲に参加した517機のB29のうちの一機が、木更津の「高射砲」(高角砲)に撃墜された。

搭乗員12名は、即死の状態であったらしいが、遺体は殆どが大きく損傷した。そのなかで、珍しくほぼ完全な形で残った遺体は首から小さな靴を下げていたという。

この慰霊碑を現在管理してるのは、木更津市の影山順一さんで、慰霊碑を建立したのは、御父堂の影山金司さん(故人)であり、それも終戦から6年後に慰霊碑を建てたとのことであった。

以前、影山氏宅敷地内で行われた仏教式の慰霊祭では、実行委員会の挨拶の中で「当時の敵国の戦死者の慰霊を行うことについて、日本遺族会の方々のお気持ちを思うとき私たちも躊躇を感じました」という裏話が明らかにされたそうである。

確かに横浜の空襲で殺された人々の遺族からみたら、複雑な気持ちになるであろう。

また順一氏は「父親の本当の気持ちは今となっては知りようがありませんが、私にとっては叔父である弟を戦死で失っているので、この人たちも同じ戦死者、戦争の犠牲者という思いがあったのでしょう」と述べられた。そうだ。

ちなみに、この慰霊碑は近年まで藪の中に埋もれていて、その存在を地元の人すら知られていなかったようだが、館山道開通の工事で再発見されたそうである。

是非一度現地に行って見てみたいものである。

参考

木更津の山中にあるB29搭乗員慰霊碑
https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/e8338cd405157f969dcbc66176fcc0e0

この木更津の慰霊碑と同じような「敵国人」を慰霊した碑が九州は大分県竹田市にもある。

それが、

『殉空の碑』である

参考

捕虜米兵は殺傷・解剖で壮絶な最後を遂げた。B29墜落地に建つ殉空之碑【大分県竹田市】
https://sazanami.net/20201113-bungo-taketa-b29-memorial/

その碑文にはこうある。

長いが引用しよう。

以下、引用

昭和二十年五月当時日本は敗色濃厚な大東亜戦争末期の極めて悲惨な戦況化にあった。国土は連日B29に焼かれ、最後の砦、沖縄戦も絶望状態にあり一億国民は悲壮な決意をもって本土決戦を迎えねばならぬ運命にあった。

五月五日快晴午前八時すぎ、久留米郊外の大刀洗飛行場を爆撃してその帰途についたB29の編隊に対し、日本戦闘機これを追撃。熊本県阿蘇郡より大分県直入郡(当地方)上空において壮烈な空中戦を演じ、日本戦闘機はB29に体当たりを敢行。B29はたちまち火を噴きこの地に激墜した。

日本戦闘機も近くの宮城村芹川に墜落し、海軍少年航空兵は母からの手紙を胸に死亡していた。既に落下傘で降下していたB29の搭乗員十二名中多数のものは狂乱怒号の村民により暴行殺傷され、その中八名は所謂九大生体解剖実験の犠牲となった。

戦後三十三年たって当時を回想するに、これら犠牲者たちの姿が悪夢のように脳裏より去らず、ここに恩讐を越えて日米犠牲者たちの鎮魂供養の儀を行いご冥福を祈るとともに、かかる戦争の悲劇を二度と繰り返さないための貴い教訓となればと念願してこの碑を建立する。

以上、引用終わり

この竹田市にある、碑も「敵国」アメリカ軍のB29撃墜地に建つ慰霊碑であるが、ここに墜落したB29の搭乗員は12人うち9人が生存していて、それがさらなる悲劇のはじまりであった。

その生存搭乗員の末路を記したサイトを発見したのでここに引用します。

以下、引用

1945年5月5日。B29爆撃機が明治村(現在竹田市)の山中に墜落した。日本海軍粕谷二等飛行兵の乗る紫電改の体当たりにより墜落したのだ。 落下傘で脱出した搭乗員は12名。その内3名は墜落死(パラシュートが開かなかったり)。残り9名は熊本側と大分側にそれぞれ逃げ出した。これが運命の分かれ道だった。 熊本県阿蘇郡小国町薊原に逃れたウェニック伍長は村民に猟銃で撃たれ、その後、大鎌で心臓をめった刺しにされ、死亡。同小国町小原から逃走したコールホーワー伍長は後に死体となって発見される。南小国町満願寺白川から逃れていたジョンソン伍長は村民に取り囲まれ、後ろから鎌でアキレス腱を切られ、その後、懐からピストルを出して自殺。ケームス少尉は阿蘇郡産山村大利で猟銃射殺される。その死体は竹槍などで突き刺された後、墜落死したシングルデッカー少尉と共に宮地警察署前に置かれ、更に住民たちに陵辱された。 南小国町満願寺星和で捕まったウィリアム伍長と一宮町荻の草で拘束されたプランベック少尉は憲兵隊に引き渡され、上熊本駅前の電柱に背中合わせに縛られ市民に晒された後、福岡の西部司令部に送致された。 5名中3名が殺され2人が生き残った。 一方の大分側には、4名が逃れてきた。ワトキンズ大尉、フレドリック少尉、ポンシュカ二等軍曹、ザルネッキ伍長。そこでは、地元の開業医の加藤毅医師が応急処置に当たり、米兵らは、「ドクター、ドクター」と哀願の表情を浮かべ、消毒液に顔をゆがめながらも「サンキュー、サンキュー」と感謝したと言う。加藤医師は彼らと英語で軽く会話をしたらしく、子供は何人いるのか?とか、生まれはどこなのか、などを聞いたという。 その後、ワトキンス大尉は情報を得るために参謀本部(東京)へ移管される。残りの3名は福岡の司令部へ。 福岡へ送られた3名と熊本の2名は九州大学医学部で行われた生体解剖という忌まわしい人体実験に廻される。(目隠しをされてトラックの荷台で送られる途中、行き先が大学だと聞き安堵したという。哀れである。) 結局、生きてアメリカの地を踏めたのはワトキンズ大尉一人だけだった。 1981年。事件から36年後、ワトキンズ氏は竹田市民に対して感謝の言葉を寄せている。合同慰霊碑を建立し毎年弔っていることに対する感謝である。

以上、引用終わり。

参考

殉空の碑物語(2023年現在当サイトは閉鎖)

このサイトの管理人は生存乗組員9人のうち、熊本側に逃げた者5人中3人は「狂乱怒号の村民により暴行殺傷され」(碑文より)たが、大分県の竹田側に逃げた米兵は、竹田の住民に殺されなかった事を「竹田市の奇跡の出来事」と称して考察している。

確かに奇跡的なことだったかも知れないが、この撃墜されたB29の搭乗員の身に降りかかった事で後世に語り継がれるのは、この「竹田の奇跡」ではなく、もっと人間の醜さ、戦争の狂気が凝縮された驚くべき出来事

「九州大学生体解剖事件」である。

参考

【九州大学生体解剖事件】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E4%BD%93%E8%A7%A3%E5%89%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6

今月21日の東京新聞「こちら特報部」に「米兵生体解剖焼きつく記憶」と題して、その解剖実験に立ち会った医師、東野利夫さんの記事を読んで憲さん固まってしまった。

参考

同記事を採録したblog
米兵生体解剖 焼きつく記憶  戦争にともなう狂気への恐れを失った、今の日本人への警告
https://waiwai3.exblog.jp/238228755/

憲さん随筆
消えた墓碑銘 「汚名、『九大生体解剖事件』の真相」を読んで
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-d57089.html

【東野利夫】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%87%8E%E5%88%A9%E5%A4%AB

九大生体解剖実験といえば作家、遠藤周作の『海と毒薬』とそれを原作とした熊井啓監督、奥田瑛二主演のオールモノクロ映画が有名である。

参考

【海と毒薬】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%81%A8%E6%AF%92%E8%96%AC

憲さんも若い頃映画をみて、衝撃を受けた記憶があるが、今回の記事はそれ以上にショッキングであった。

遠藤の小説は「神なき日本人の罪意識を問う」という作品でフィクションの要素が多く、医師らの内面が中心に描かれているのだが、まさに、事実は小説や映画より「ショッキング」である。

九州帝大医学部に入学したばかりの東野さん(当時学生)は何もわからないで、言われるままに米兵の生体解剖の助手をやらされたのだ。

それは、海水を代用血液として使う実験、片肺を切除してどれくらい生きられるかの実験だ。

記事曰く

「『記憶なんて生やさしいものじゃない。心臓に突き刺さった。思い出すまいと思っても思い出す。焼きついとるんです、私には』血まみれの床を水で流す後片付けを頼まれて、バケツで流した後、手術台に乗った米兵から眼球を取り出すという先輩の指示で、死体を動かないように固定させられた。ショックだった。『本当に私はもう泣きたいぐらいになって……非常にこたえましたね。それはもう口では言えない』。」

そりゃそうでしょう。

大学入ったばかりといえばまだ18、19才の少年といってもいい年にそんなことさせられたら、そりゃトラウマになります。

さらに記事は続けて

「同年六月二日までの間に、さらに四人の米兵捕虜が肝臓の一部摘出や、心臓停止といった実験手術を受けさせられ、死亡した」

なんでそんな実験が必要なのよ?

医学って人を生かすための学問でしょ?

これは絶対にこの実験を指示した医者の功名心と興味本意からやってるでしょうに。

これを読んで森村誠一が『悪魔の飽食』で書いた満州731部隊を思いだし吐き気を催した。

参考

【悪魔の飽食】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%A3%BD%E9%A3%9F

当時の日本の医学会はどれだけ狂っているのかと戦慄を覚える。

さらに記事を読んだ上で調べてみて驚いたのは、この生体解剖実験が行われた九大医学部解剖実験室が今なお九大に残っていることである。

これは「九州大学医学歴史館」として再建されたレプリカのようだが、この解剖学実験室で戦時中行われたおぞましい実験についてはあまり触れられていないようだ。

参考

【九州大学医学歴史館】
https://www.lab.med.kyushu-u.ac.jp/rekishikan/

確かにこの実験室では他の有用な医師を輩出するための有意義な解剖実験を歴代行っていたかもしれないが、戦時中の生体解剖実験はその功績をチャラにした上、血塗られた負のレッテルを貼るには余りある出来事ではないだろうか?

負の遺産として後世に残すべきではないのだろうか?

記事ではこの東野さんが自ら集めた貴重な事件関係資料を展示するよう求めたのだが大学に拒否されたそうだ。

天下の九州大学の良識を疑う。

ちなみに、余話として九州大学の初代総長はかの会津白虎隊士、山川健次郎である。

参考

【山川健次郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E5%81%A5%E6%AC%A1%E9%83%8E

話をもどそう。この、東野さん現在92才で、最後の仕事として自伝を自費出版した。

タイトルが『戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない』

参考

【『戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない』】
https://book.asahi.com/sanyatsu/TOP/intro/ADTLM20180201105.html

まさにその通りである。

この九州竹田で戦闘した日本海軍戦闘機搭乗員はもちろん、B29搭乗員も皆、10代から20代前半の若者たちであった。ひとたび戦争が起きれば前途ある若者たちの尊い命が無数に失われていくという現実は今も昔も変わらない。

さらに言えば全国各地で無差別空襲で殺された人たち、そして原爆投下で殺された人たち、一人一人に人生があり家族があり将来があったはずだ。

戦争はそれらの人たちの全てを破壊し奪い尽くし、人生を狂わす。

この東野さんもそうであった。あの、解剖実験のトラウマから逃れることはできず、一生悩み続けた。彼もまた戦争の被害者である。

(東野さんは2021年4月に95才で亡くなられた。合掌。)

しかし、さらに愚劣といったら、ルメイの話を出さざるをえないでしょう。

カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)

参考

【カーチス・ルメイ】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4

こいつは、第5代空軍参謀総長を務め、第二次世界大戦時、日本本土への無差別爆撃(日本一般国民の無差別殺戮)を実行した張本人である。

さらに愚劣といったら、この鬼畜ルメイに戦後日本政府は勲一等旭日大綬章を授与したのである。

日本の航空自衛隊育成に協力があったただそうだが。

こういうのをまさに「盗人に追い銭」というのである。

さすがにこれは時のヒロヒト天皇も、勲一等は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、親授しなかったそうである。

当然だ。

記事の最後に東野さんの言葉が紹介されている。

「九十年生きてきましたが、今が一番危ないと思う。『やってやるぞ』と脅し合うアメリカと北朝鮮、そのアメリカの尻馬に乗る日本。非常時なら人は簡単におかしくなる。あんな悲惨で愚劣なことは、絶対に繰り返してはいけないんです」

経験者が語るずしりと重い言葉である。

最後に、この一文を思い起こそう。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

参考

【日本国憲法前文】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%89%8D%E6%96%87

この日本国憲法九条は私たち日本人と世界の人類が犯してきた過ちを見据え、私たちが作り上げてきた、人類史上最高にして最も崇高な条文です。

しかし、今この精神を、この憲法を破壊しようという策動がなされています。

いまこそ正念場です。

皆さんはどうお考えでしょうか?

どーよっ?

どーなのよっ?

追伸・ただ、ここで憲さん疑問なのはこのB29の搭乗員は12人。撃墜でパラシュートが開かず死亡した兵士が3名。残り9名のうち、現地で住民に殺されたり自決した兵士が3名ということは、生存者は6名、うち機長1名は東京に送られ、生き残ったので、九大に送られたのは5名のはずである。

事実、ウィキペディアの「九州大学生体解剖事件」の項にある事件の被害者の中にはこの搭乗員の記念写真にはいない人名が3名入っている。

しかし、どの資料にもこの九州大学生体解剖事件の被害者は8名とあり、同じB29の乗組員捕虜とある。

謎だ。

現在、憲さん資料を集めて調査中です。

それが、この事件の被害者へのせめてもの供養になれば・・・。

合掌。

※念のため東京新聞の記事をここでも採録しておく。

以下

東京新聞 2018年1月21日(日曜日)こちら特報部

 米兵生体解剖 焼きつく記憶
「戦争とは悲惨と愚劣以外の何物でもない」最後の生き証人 
東野利夫さん(91)

 終戦間際の九州帝国大(現九州大)医学部で、生きたままの米兵八人に生体実験を行い、死なせたとされる「九大生体解剖事件」。
その最後の生き証人、東野利夫さん(91=福岡市=が昨年12月、最後の仕事として自伝を自費出版した。
タイトルは「戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない」。
戦争にともなう狂気への恐れを失った、今の日本人への警告だ。(大村歩)

 「こう、ガラス瓶を持ったんです。『ちょっと持っててくれ』と言われて」
 東野さんは立ち上がり、ガラス瓶を高く掲げるしぐさを再現してみせた。どれくらいのあいだ持たされたのか。「30分ぐらいですね。重いから持ち手を替えたりしながら・・・」
 ガラス瓶の中身は透明な液体が入っていたが、その時点では何かは分からなかった。だが、ガラス瓶から伸びるチューブは、エーテル麻酔で眠らされ、手術台に寝かされた米兵捕虜の腕につながれ、液体を注ぎ込んでいた。
 1945(昭和20)年5月17日の昼下がり、九大医学部の解剖実験室。ここで行われた異常な手術のことを、70年以上の時を経ても、東野さんはありありと覚えている。当時の東野さんは、その年の4月に入学したばかりの「医者の卵にすらなっていなかった雑用係」だった。
 後に分かったことだが、透明な液体の正体は海水だった。海水を代用血液として使う実験だった。目の前に横たわる米兵捕虜の身体は治療すべきところも見当たらないのに切り開かれ、片方の肺が切除された。人間は片肺でどれだけ生きていられるか・・・その実験だった。
 「記憶なんて生やさしいものじゃない。心臓に突き刺さった、思い出すまいと思っても思い出す。焼きついとるんです、私には」
 血まみれの床を水で流す後片付けを頼まれて、バケツで流した後、手術台に乗った米兵から眼球を取り出すという先輩の指示で、死体の頭を動かないように固定させられた。ショックだった。
 「本当に私はもう泣きたいぐらいになって・・・非常にこたえましたね。それはもう口では言えない」。そう振り返る声が、震えている。震えていると言えば、東野さんにはもう一つ、忘れられないことがあった。「日本兵に脇を固められ、目隠しをされて連行されていた米兵捕虜が、解剖実習室に入る寸前、震えたんです。確かに震えた」
 同年6月2日までの間に、さらに4人の米兵捕虜が肝臓の一部摘出や、心臓の一時停止といった実験手術を受けさせられ、死亡した。計8人の犠牲者はいずれも、日本軍の迎撃戦闘機に体当たり攻撃されて撃墜され、パラシュートで脱出した米空軍B29爆撃機の搭乗員だった。

「非常時なら人は簡単におかしくなる」
 海水「輸血」、片肺切除、肝臓摘出・・・
 捕虜のB29搭乗員「震えていた」
「脅し合う米朝、尻馬に乗る日本 今が一番危ない」

 1948年、横浜軍事法廷でこの事件が裁かれ始めると、「生体解剖事件」として大々的に報じられた。生きている人間を医学的関心のために腑分けしたというグロテスクな印象が広まった。さらに、この事件を題材にして遠藤周作が1957年に発表した小説「海と毒薬」の影響が大きかった。
 クリスチャンの遠藤から見た「神なき日本人の罪意識」を問う作品で、フィクションの要素が大きかったが、軍部の命令、圧力といった事件の背景よりも、医学部の医師らの内面が中心的に描かれたため、「事件の主役は戦時下の異常な医師」との印象が定着した。
 一方、戦後の東野さんは訴追を免れ、産婦人科医を志した。1958年には福岡市内で開業。なぜ、産婦人科だったのかと問うと「たまたま大学の産婦人科教室の教授がいい人だったから」と言うのみだが、妻の鏡子さん(86)は「医師なのに命を奪うあの事件の体験から、命を生み出す産婦人科を志したのではないか。あの人は、中絶手術にも悩み、なるべく命を大事にしたいと常に考えていましたから」と話す。
 仕事に打ち込み、事件を忘れようと友人との交流を楽しんだこともあった。しかし、40歳の頃に心の奥の屈折に耐えきれなくなった。うつ病を患い、入院もしたが治らない。
 そのころ、事件当時の東野さんの指導教授で、ただ解剖実習室の管理責任者だったというだけで実刑判決を受けた平光吾一さんが亡くなった。病床で「キューダイ、ビー、ニジュウキュ」とうわごとを言いながらの臨終だったという。
 平光さんの死の翌年、静岡県内のヨガ道場に通ってようやく回復の糸口をつかんだとき、事件の一部始終を知る自分が事件に向き合い、真相をなんとしても明らかにすると決めた。約10年間、休日のたびに関係者を訪ね歩き、米国立公文書館にさえ足を運ぶ「取材」を重ねて七九年、それをまとめた著書「汚名『九大生体解剖事件』の真相」を上梓した。死亡した捕虜8人の上官でB29の機長だったマービン・ワトキンズさんを米国に訪ね、お互い戦争によって心の傷を負っていることを話し合った。
 それでも、まだ心の中が晴れることはない。むしろ、戦争の記憶が風化し、語られないタブーとなっていくことにどうしようもない焦りを感じている。
 3年前に九大医学部がOBの寄付などで医学歴史館を作ったとき、東野さんは負の歴史も直視せよと、自らが集めた貴重な事件関係資料を展示するよう大学側に求めた。しかし、答えはノー。現在、同館に展示されているのは事件の概要を記したパネルと、「大学50年史」の該当部分だけだ。「なぜ教訓としようとしないのか・・・」と東野さんのため息は深い。
 今回の自伝は、文字どおり人生の最後に言わなければならないことを書いたという。
 「戦争の狂気の空気感だけは、いくら口で言っても、文字で書いても伝わらないのは分かっている。目の前に焼夷弾が落ちるかもしれない、そんな極限の緊張感を分かれと言っても無理なんです」
 それでも戦争だけはやっちゃいけないという思いがほとばしる。
 「90年生きてきましたが、今が一番危ないと思う。「やってやるぞ」と脅し合うアメリカと北朝鮮、そのアメリカの尻馬に乗る日本。非常時なら人は簡単におかしくなる。あんな悲惨で愚劣なことは、絶対に繰り返してはいけないんです。
 
デスクメモ。
 過ちを直視するのはつらい。「日本スゴイ」本がはやるのも、愚かな歴史から目を背けたい社会の弱さの表れだろう。10代で巻き込まれた事件に向き合い続ける医師の人生は、本当の「敵」を教えてくれる。戦争の愚劣さは、私たちのうちにひそむ。「狂気」は人ごとではない。(洋) 2018・1・21

以上
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