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2020年07月17日05:58

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新型コロナウイルスと志賀直哉

1919年4月に「白樺」で発表された短篇・流行感冒は、志賀直哉が千葉県我孫子市に居を構えていた36歳の時の作品で、スペイン風邪が日本を襲った時の事を鮮明に描かれています。また、天気予報の生みの親である岡田武松博士も我孫子市出身です。

「スペイン風邪、猛威を振るう」(消防防災科学センタ)の中の記述では、大正7年早春、米国で発生した流行性感冒は、翌8年にかけてスペイン、フランス、イギリスなどヨーロッパに広がり、スペイン風邪と呼ばれた。同時に中国、日本へも侵入し、全世界を覆い、空前絶後の惨禍となった。日本での流行には三つの波があった。

第一波は、大正7年3,4月ごろ、日本に侵入し、初夏には止んだ。第二波は、その年の9月中旬から10月上旬にかけて全国に広がった。これは過去数100年間の疫病のうち、最も劇的な大流行であった。

第三波は、翌大正8年1月下旬から2月にかけて日本中に蔓延した。スペイン風邪による全世界の患者6億人、死者2300万人。日本では国民の5人に2人にあたる2100万人が発症し、約38万人が死亡したといわれる。この時、我孫子での志賀家には大正6年生まれの次女がおりました。

しかし、前年に生まれた長女を2か月足らずで失ったこともあり、この子供ためには病気を恐れていました。小説では、流行性の感冒が我孫子の町にもやってきたが、主人公はそれをどうかして家に入れないようにしたいと考え、運動会は誰もやらぬ事、女中にも町の使いで話しこんだりしない事や夜の旅芝居の見物も禁じていました。三週間ほど経った。

流行感冒もだいぶ下火になった。私は気をゆるした。木を植えるためにそのころ毎日2、3人植木屋がはいっていた。手伝いなどで昼間は主に植木屋と一緒に暮らしていた。そしてとうとう流行感冒に取り付かれた。植木屋からだった。私が寝た日から植木屋は皆来なくなった。40度近い熱は覚えて初めてだった。腰や足が無闇とだるくて閉口した。

しかし一日苦しんで、翌日になったら非常によくなった。ところが今度は妻に伝染した。妻に伝染する事を恐れて直ぐ看護婦を頼んだが間に合わなかったのだ。この上はどうかして佐枝子にうつしたくないと思って、東京からもう一人看護婦を頼んだ。

一人は妻に一人は佐枝子につけておく心算だったが、母と離されている佐枝子は気難しくなって、なかなか看護婦には附かなかった。間もなくして女中が変になった。半里ほどある自身の家へ送ってやった。しかし暫くするとこれはとうとう肺炎になってしまった。

今度は東京からの看護婦にうつった。今なら帰れるからとかなり熱のあるのを押して帰っていった。しまいに佐枝子にも伝染ってしまった。あとがきに、志賀直哉は事実をありのままに書いたと記しております。スペイン風邪の伝染力の凄まじさや怖さは、今の新型コロナウイルスと同じではないでしょうか。

100年前の出来事であり、今の世代では知る人はいなくなっています。だが、小説とはいえ大変貴重な資料だと思い紹介しました。ちなみに「白樺派」である武者小路実篤氏の屋敷は私が住んでいるところから歩いて5分ぐらいのところにあります。

大正時代を中心に白樺派の嘉納治五郎、柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチ、杉村楚人冠、村川堅固など多くの文化人や企業化が居宅や別荘を構えました。また、我孫子にゆかりのある著名人として血脇守之助、中野治房、柳田國男、岡田武松などが挙げられます。

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