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2020年02月16日03:00
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新雪の倉岳山･川合峠･さよなら穂高書房
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2020年1月19日(日)
YAMAP記録
新雪の倉岳山へ･石造物めぐり･｢さよなら穂高書房｣
https:/
(写真60枚)
0、大月市 立野地区の石造物
午前7時過ぎ、中央線 梁川駅で降りるとホームに人影は無い。
ホームから南に望む「前道志」秋山山稜の山々は満遍なく砂糖をまぶしたような雪化粧だ。
西の山の端は朝陽に照らされて黄金色に輝く。
駅の改札を出ると、老夫婦ハイカーが先行していた。いきなり先を越されてしまったがおそらく御二人は月屋根沢沿いの登山道で立野峠に登るのだろう。
自分はバリエーションルートで倉岳山を目指すのでこの先で岐れる事になる。
桂川に架かる梁川大橋には一眼レフを構えて白い山波を撮影する男性が一人。
桂川の渓谷と鬱蒼とした渓畔林の向こうに雪をかぶった山波が連なる景観は一幅の絵になる。
橋を渡って円通寺の脇の坂に差し掛かると、擁壁の上に馬頭観音などの石造物群がずらりと並んでいた。
内訳は馬頭観音の文字碑が10余り、像塔が5つ、丸石や石棒5つ、双体道祖神、坐像の石仏、小さな石仏が納められた石祠がそれぞれ1つだ。
3年前の2016年12月末にここを歩いた時には全く目に入らなかったのだが、昔、 道路整備や宅地開発の際にまとめてここに移されたものだろう。
早速一つ一つ見て回ると、馬頭観音で元号が読み取れるのは「嘉永」「文久」「慶應」といずれも江戸時代末期のものであり、風化が著しいものはさらに時代を遡ると思われる。丸石に太字で彫られたものなど、それぞれに特徴があって面白い。
しかし何より印象深いのは、馬頭観音の文字碑の前に美味しそうな人参が二本供えられていた事だ。
碑のうち 一つだけに供えられているのは、遠い先祖が飼っていた馬の供養を今も続ける方がいらっしゃるという事だろうか。
あるいは、かつて集落の暮らしに貢献した昔の馬たち皆を弔う意味で供えられたものだろうか。
いずれにせよ、山里に今もなお連綿と続く素朴な信仰心が色鮮やかな人参に表れて、馬が嬉しそうに人参を頬張る姿を思い浮かべると真冬の冷気の中にも優しい温もりを感じるのだった。
また、特に目を引く石造物は 際立って白っぽい石に彫られた双体道祖神だ。
道祖神は村の入り口や集落の辻に置かれ、疫病や災禍の侵入を防ぐ神としての役割を担っていたが、これに豊作祈願や子孫繁栄の願いが加わって双体道祖神が造られるようになった。
この道祖神の御二人は実に仲睦まじく、頬を寄せ合って互いに手を握り合い、もう片方の手でお互いの肩をしっかりと抱いている。なんとも熱々な御二人なのだが、石材が白いので清楚な雰囲気が感じられて素敵だ。
(後で調べると江戸時代中期 宝暦二年(1752年)造立との事。)
双体道祖神の左隣には 貫禄のある体格の坐像の石仏、その隣には中に小さな石仏が納められた苔蒸した立派な石祠があり興味深い。
1、倉岳山北東尾根 撤退
先般の台風禍の影響か、登山口付近の斜面は大きく崩れ、登山口の石碑は当時もろに土砂をかぶったのだろう、道路の反対側に倒れ伏していた。この石碑には確か倉岳山を礼讃する短歌か詩が彫られていたように記憶している。
暑くなったのでアウターを脱いでザックに押し込めたが、この時 チェーンアイゼン・スパッツ・防水グローブの三種の神器をすべて忘れてきた事に気づいた。
しかし積雪はほんの数センチ、凍結も無いだろうとまずは山に入ってみる事にした。
山路に入ってすぐに月屋根沢沿いを辿る立野峠への登山道を外れて、倉岳山に北から直接詰め上げる尾根を目指す。
木々には昨夜にかけて降り続いた雪が付いて新雪の輝きを未だ失わず、うっすらと雪化粧した山路に足跡は見当たらない。
貯水槽を見て尾根に取り付く入口に鉄板の屋根を乗せた立派な木祠があった。中を覗くと御神体は長い石棒と丸石で、山神として祀られたものらしい。
参拝してから尾根に取り付き、明瞭な径を辿るとすぐに自然林となって気分が良い。
この尾根は「倉岳山北東尾根」と呼ばれ、「北西尾根」と共に比較的よく歩かれているバリエーションルートとの事。地図によると途中に岩場と急斜面があるが、問題になるほどではなさそうだ。
ところが、序盤の何でもない斜面でいきなりズルッと滑り、前のめりに派手に倒れてしまった。
靴先でめくった雪の下の泥が身体の前面にべっとりと付いて、ここで戦意を半分ほど喪失した。
積雪はほんの僅かだが、気温が高いのか雪と泥の境目が緩んでとにかく滑りやすい。
100均の布の手袋も既に泥と雪だらけで、木に掴まりながら進むが枝や幹を掴むたびにバサバサと雪が落ちてきて冷たくて仕方ない。
それでも引き返す気になれなかったのは、新雪を纏った冬木の輝きと梢越しに望む扇山や権現山稜の展望の素晴らしさゆえだ。
立ち止まって一息ついていると、後ろから颯爽と現れたのは全身隙の無いスタイリッシュな装備の50代男性。
ぶざまに転んだ形跡やヨレヨレの足跡も見られてしまったと思うと情けない。確かな足取りで去る男性を見送りながら、残り半分のもう半分の意欲も失いかけてしまった。
気を取り直して足を進め、地図に岩場表記のある岩尾根を登る。距離は大して長くもなく足掛かりもしっかりとした岩場で、危なげなく抜ける事ができた。
やがて緩やかで広い尾根となると開放感が気持ち良い。
新雪に覆われた疎林の緩斜面を漫ろ歩く気分は格別で、山に来て本当に良かったと思えるのはこんな時だ。
ゆったりと導かれるように590P圏に立つと、正面には倉岳山の山体が堂々と聳えて、標高は1000mに満たないながら さすが前道志の主稜たる重厚な風格が漂う。
一般登山道を使う場合、西の穴路峠または東の立野峠を経由するので倉岳山の山体を正面に望む機会は無く、登山というよりも峠路の延長で立ち寄るピークのように感じられる。
しかしこの北東尾根はまさに倉岳山の正攻法とでも言うべきルートで、自然林が主体で岩場もあって変化に富み、さらに展望も良いという三拍子揃った思いがけない素晴らしさにすっかり感動してしまった。
この先はいったん少し下り、やがてロープもある急斜面となって愈々本格的な登りが控えているはずだが、装備に問題があるので今回はここで撤退と決めた。
次回は秋の紅葉の頃に訪ねてみたいものだ。
慎重に往路を戻るが、朝から降り注ぐ陽射しで気温が上がってくる時間帯であり、雪融け水が木々から盛んに滴り落ちてまるで天気雨のようだ。
しかし 融雪の水が山肌を潤して木々が春の芽吹きへの力を蓄えるのだから、優しい雨を浴びて全身濡れてしまう事も幸せに感じられる。
関東南部周辺の低山では木々に積もった雪は忽ち融けてしまうので、まるで時が止まったかのような静謐に煌めく美しい雪化粧は 早朝の光の中でしか見られない短く儚いものであり、ほんの1時間前の幻想的な景色が はや幻のようにさえ思えるのだった。
2、貴船神社で初詣
登山口に戻って少し下り、月屋根沢キャンプ場との分岐で着替えて一息つく。
時刻は11時。単独男性が下山してきて「新雪の倉岳山をサクッと歩いてきました」とでも言いたげな涼しい顔で傍らを通り抜け、一方あえなく挫折したこちらは「まあこんな日もあるさ」と呟いて自分を慰めるしかない。
のんびりと林道を下っていくと70代くらいの地元の男性と擦れ違った。
朝見た石造物群をあらためて仔細に調べていると 先程の男性が戻ってきて、傍らにある坂道を指差して「この上にもあるよ。あの電柱のところ。」と声をかけてくださった。
礼を述べて急坂を登ると、右手に長い石段がありその先に鳥居が見える。神社にはあとで参拝する事にして、坂道をさらに先まで歩いてみたが路傍に石造物は見当たらなかった。
どうやら先程の男性がおっしゃっていたのは神社の事のようだ。
石段の前に戻ると、ここから望む東側の展望が素晴らしい。
一歩一歩上っていくと、左右の石柱の上には狛犬の代わりなのか小さな石像が立っていた。
さらに上って鳥居をくぐると「貴船神社」の境内に至る。
社殿の中には精巧にして精緻を極めた総欅造りらしい古色蒼然たる本殿が鎮座していた。
山梨県神社庁の資料によれば、この神社は鎌倉時代 天福年間1234年、立野左馬之祐忠望による創建と伝えられ、御祭神は「天水分之命」、明治６年に村社となり現在は氏子戸数35戸、崇敬者は1000人とある。
はからずも私の令和二年の初詣は、この大月市 立野地区の氏神社「貴船神社」となったのだった。
貴船神社に祀られた天之水分神（あめのみくまりのかみ）は古事記に登場する神で、伊邪那岐神と伊邪那美神の子で河口や港を司る神「速秋津日子命」と「速秋津比売命」の間に産まれたとの事。
この｢天之水分神｣は山の水の分配を司る農業用水の神だそうだ。
鳥居の前からの展望をあらためて確認すると、桂川と秋山山稜に挟まれた平地の大部分は畑だ。まさに、「天之水分神」を祀るに相応しい土地柄で、この貴船神社が昔から立野地区の人々の信仰の中心にあった事がはっきりとわかる。
地元の男性に教わらなければ、自分はこの先 何度この地を訪ねても下道の林道を歩いていただろうから、坂の上の神社には気付かないままだっただろう。
貴重な出会いに感謝すると共に、引き返して山から下りた事が結果として吉と出た事を嬉しく思った。
3、穂高書房 店主の訃報
時刻は11時半、さてこれからどうしようかと考える。
先程からちらちらと頭に浮かんでいたのは阿佐ヶ谷の山岳古書店「穂高書房」だ。
10代の頃から｢日本山書の会｣に所属していたという店主 和久井正明さんは山岳雑誌から稀観本までありとあらゆる山岳古書に精通しており、いつも面白い話を聞かせてくださるし、行けば必ず何かしら掘り出し物に出会える。
山を断念した代わりに「古本ハイキング」に出かけようというこの考えは名案に思えた。
店には数ヶ月に1回くらいのペースで通っていたのだが、昨年は愛猫の闘病と看取りがあり、一度も行く事ができず すっかり御無沙汰していた。
丸一年ぶりにお店にお邪魔しよう。
山帰りにザックを背負って行くのは初めてだから、ついでに今日の雪山失敗談も話して笑ってもらおう。そう考えると何だか楽しくなってきた。
梁川駅に戻り、穂高書房に電話をかける。
店主の「はいはい！開いてますよ。何時頃になりますか？」といういつもの明朗なお声を期待して…。
ところが、呼び出し音は鳴らずに「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。」との機械音声が流れた。
慌ててもう一度かけ直したが、同じだった。
…まさか、店を畳んでしまったのだろうか。すぐにネットで検索してみると…常連さんや地元の方のブログやツイートが幾つか見つかり、そこには「店主の和久井さんが昨年 夏に急逝」とあった。
亡くなった………私は強い衝撃を受けてただ茫然と、 眩しいほどの陽射しの中に黙然と聳える倉岳山の稜線を見つめていた。
店主からはガンを患っていた事、免疫療法薬「オプジーボ」の注射の為 に定期的に病院に通っていらっしゃる事を聞いていた。
しかし登山で鍛えた身体の頑健さは感じられたし、声には張りがあってお元気そうだった。
｢注射が効いてるかどうかはわからないなぁ｣とおっしゃっていたが、最後に訪ねた日から9ヶ月目に亡くなられたのは俄には信じがたい思いだ。
寄る場所を失い、かといってこのまま帰る気にもなれず、山を見つめているうちにふと先月 歩いた川合峠の行方知れずの馬頭観音の事を思い出した。
そうだ、あの馬頭観音を探そう。まずは隣りの四方津駅まで電車で移動する事にした。
4、川合峠 新たな馬頭観音を発見
四方津駅からもうすっかり通い慣れた道を辿り、桂川に架かる川合橋を渡って川合地区に差し掛かると、眼下の家の庭で柴犬が私に尻尾を振りながら吠えているのが見えた。
廿三夜塔(享和二年 1802年)がある分岐を左に折れて山路に入るとすぐに｢聖徳太子｣と彫られた楕円形の石碑と「馬頭大士」の小さな文字碑を見る。
優れた工藝技術の才能でも知られた聖徳太子を職能の守護神として崇める「太子講」はさまざまな職種の職工の人々によって組織され、中世から近世にかけて盛んであった。
石仏に関する幾つもの著書の他にブログにも探訪記録を載せている石仏研究者の偏平足さんによれば、この碑は江戸時代最後の年である慶應四年(1868年)のもので｢大工 久嶋｣との刻字があるという。
隣りの「馬頭大士」の文字碑はおそらく形状から見て明治か大正のもので、大士は菩薩の尊称であるから馬頭観世音菩薩を意味する。
脇道に逸れた先には、質素な「八幡神社」があった。ここからは川合地区と桂川の向こうに広がる山波の展望が良い。
山路に戻って登るとすぐに川合峠に至る。
ここは川合地区と南の谷の小集落 千足とを結ぶ小さな峠で、以前は馬頭観音の文字碑が二つあったのだが、先月歩いた時には一つは場所が変わり、もう一つはどこにも見当たらなくなっていた。
寛政八年(1796年)十二月の文字碑は同じところにある。しかし、もう一つの享和二年の文字碑がやはり無い。
峠を見回し、辺りの斜面に目を走らせ、最後にふと見上げると斜面の上方に石造物らしいものが見えた。しかも一つではない。
斜面を登って尾根上から回り込んで確認すると、なんと馬頭観音が三つあり、中央には像塔が、その左右には文字碑が置かれていた。
苔のついた像塔は寛政元年(1789年)のもので、観音様が頭に乗せた馬の顔は風化しているが欠けてはいない。文字碑はそれぞれ享和二年(1802年)四月と六月のもので、「南無馬頭観世音菩薩」と刻字されていた。うち片方は前回 行方不明だったものだ。
この三つはいずれも小さな露岩を背にして峠を見下ろしているのだが、峠路を行くハイカーは誰も気付かないのではないだろうか。
斜面から下りて位置関係を見ると、峠路の文字碑と尾根上の三つの馬頭観音はちょうど向かい合わせの直線上にあり、しかもその直線は峠路と直交していた。
意図的にそのように置かれたのであれば、いまだに素朴な信仰を守り続ける地元の方の手によるものと考えられ、ここにも山村の人たちが馬に寄せる思いをしみじみと感じるのだった。
新雪の倉岳山歩きは挫折したが、代わりに山麓では石造物めぐりと神社の参拝、そして川合峠では新たな馬頭観音を見つける事ができて実に有意義な旅となった。
5、【穂高書房の思い出】
中央線 阿佐ヶ谷駅近くのこの店を初めて訪ねたのは2017年の、確か春だったように記憶している。
書店の存在はその少し前から知っていた。何か調べ物をしていた時に古書マニアのブログに行き当たり、そこには大量の「収穫」が掲載されていた。
古いガイドブックや雑誌などを手当たり次第に買い漁り、同じものを二度買いしているその様子を見てある意味 羨ましく、そして同時に腹立たしくもなったが、おそらく私が欲しいものはもう売れてしまっているだろうとの諦めもあって足が向かなかったのだ。
それがなぜ行く気になったのかは覚えていない。
拾い物でもあれば、という気持ちからだろうか。
阿佐ヶ谷駅から徒歩5分、「山岳書高価買入 穂高書房」と白い文字で書かれた色褪せた青看板が目印のこの店に足を踏み入れてみて驚いた。
店舗そのものが縦長で狭いのだが、客が二人入ればもう窮屈になってしまうような細い通路の両側に、山岳本と山雑誌が文字通り山の如く天井近くまで堆く積まれているのだ。
普通の古書店ならパラフィン紙で保護されて恭しく棚に収まっているような本が、むきだしのまま無造作に積まれていた。
左右の本棚に収まりきらないものはすべて床から平積みで、本来は接客のカウンターだったと思われる場所にも本が山と積まれているので、山と山の間の30cmほどの隙間だけが接客用の空間となっている。
私がガラガラと引き戸を開けて入ったので 客が来たのはわかっているはずだし奥からごそごそと音はするのだが、隙間から店主の顔は見えない。
本の扱いからみてかなりの偏屈者かもしれず、一見の客が挨拶も無しに入ったのはマズかったかとやや緊張しながら辺りを見回す。すると、ひょいと店主が隙間から顔を出して、眼鏡の奥の鋭い眼が私を値踏みするように見つめた。
すかさず「こんにちは！」と挨拶したが、最初のほうのやり取りはほとんど覚えていない。
店主が饒舌になったのは、私が大正時代から昭和戦前期にかけて活躍した社会人山岳団体「霧の旅会」について触れた時だったように思う。
私は客としては若い部類に属し、昔の山岳雑誌やガイドブック、山と峠の歴史などに並々ならぬ興味を持っていると知った店主は、「今はそういう人はなかなか居ないよ。本自体、読まないからね今の人は。」と嬉しそうに語ってくれて、私も自分の嗜好が認められたようですっかり嬉しくなった。
70代らしい店主の記憶力や知識は深く正確且つ明瞭で、批判精神も旺盛だった。
その後 数ヵ月ごとに通うにつけ、店主が展開した「百名山信仰批判」「近年 流行りの登山スタイル批判」などは実に愉快痛快で、同じ事を思っていた私は強く頼もしい味方を得たような気持ちだった。
mixi上の友達で、何度か山歩きを共にしたマスケンさんが以前からこの店の客だと知って驚いたが、店主から｢彼は、いいのが入荷したら電話ください、って名刺置いていったよ。｣と聞いて、彼のちゃっかりした振る舞いに苦笑いしてしまった。
｢自分は足で探しに来ますよ！｣と宣言し、数ヵ月おきに通う事となった。
どこかに同志は居ないか、と毎回｢僕と似たような趣味の方は来ませんか？｣と訊くのだが、店主は決まって｢居ないなぁ。前にそういうお客さん居たんだけど、最近ぱったり来なくなったな。｣と遠い眼をするのだった。
エアコンが壊れて蒸し風呂のような暑さの中、汗を滴らせながら本の山を掻き分けた夏の日。
山積みの本の下のほうから目当ての雑誌を抜こうとして危うく雪崩を起こしかけた日。
夕立ちが来てバラバラと降る雨の中、店頭の本箱の避難を手伝おうとして｢やり方があるから！手伝わなくていいよ｣と制止された日。
店主との印象深い思い出を二つ三つ。
初めて店にお伺いした日の事だった。束の間の緊張を経て挨拶、会話が一段落し、私はもう一度 棚を隅から隅まで見た。すると、一度目には気づかなかった本を見つけたのだった。
【山を行く】(�眸�棟材・朋文堂 昭和5年)である。以前から欲しかった本の一つだ。感動してその事を伝えると店主はニヤリと笑い、「本は不思議なものでね、最初は無いと思っても後から見つかる事がある。」とおっしゃった。単に私の注意力の問題なのだが、この店主に既に尊敬の念を抱いていた私は含蓄に富んだ御言葉に深く納得したのだった。
何度か通ううちに、店主が自ら本を持ってきてくださる事があった。
「これはなかなか面白いよ」と言いながら手渡してくれたのが【日本山岳伝承の謎 山名にさぐる朝鮮ルーツと金属文化】(谷 有二 ・未来社)、【回想の秩父多摩 離れ猿の山ある記】(河野寿夫・白山書房)だ。
いずれも私の興味関心をよく把握してくださった上での選択であり、私はそれに感激して当然二冊とも購入した。
また、戦前の山雑誌【山と高原】(朋文堂)のバックナンバーを探していた時、すでに所蔵している号数をメモした手帳と首っ引きで雑誌を手に取る私の熱心さを見かねた(？)店主がわざわざ在庫を外に運び出し、パイプイスまで出してきて｢ここに座ってゆっくりやりなよ｣と笑って言ってくださった。
戦前の山雑誌には他にも5種類ほどあるが、店主は【ハイキング】(ハイキング社)が一番 内容が良いとおっしゃっていた。
徒歩行雑誌・徒歩旅行雑誌・健歩雑誌など時代によって冠詞は変わるが、【ハイキング】は私のような低山党にとってはまさにバイブルのような雑誌だ。
「創刊号から120号まで揃いで入荷した事があったけど、ほとんど売れちゃったよ。今はもう揃いで手に入れるのは無理だろうなぁ。」と言う店主に「池袋の古書店が揃いで80万円で売ってましたよ」と伝えると「ぼったくりだよ。私なら揃いで10万円くらいを付ける。」とおっしゃっていた。
確かに、店頭にあるハイキング誌は1冊800円の値で売っていて、仮に全号揃いなら約10万円だ。
古書店の店主の中には、入手困難とみるや本来の価値に見合う相場を無視して不当に高い値段をつける者も少なくない。
昔ながらの古書店はともかく、Amazonに出品しているような新興の業者は法外な値段で出している場合もある。
そのような者たちを穂高書房の店主 和久井さんは一刀両断、とても怒っていらした。
私の見たところ、どの本にもその価値にふさわしい値段が付けられており、とても良心的な方だった。
私がここで買わせていただいた本や雑誌は計20冊ほどだろうか。
中には現在入手困難なものも含まれている。
特に東京近傍の、私が行くような山に関する戦前の本や雑誌は、戦災による焼失や戦後の混乱の中での散佚、あるいはその後の廃棄で 現在は愛蔵家の手元にあるもの以外に市場に出回る事は少ないという。
私が行くと店主は決まって｢何にも(変わって)ないよ。(めぼしいものは)入ってない。｣とおっしゃったが、それはいわば客の熱量を試す言葉であり、｢ああそうですか｣と帰ってしまうような客はその程度の情熱という事なのだろう。
実際、本棚にさりげなく私好みの本が新しく入っていて、私が嬉々として会計に持っていくと｢これはそうそう出回ってない本だよ。｣とニヤリと笑うのだった。
店主からは来店前には必ず電話してくれと言われており、それは臨時休業の場合があるからだとの事だったが、実際には客の声や好みのジャンルを覚えていて、予め奥から出してきた秘蔵の本を棚に忍ばせる、そういう もてなしの心、遊び心を持っていたように私には思えるのだ。
2018年11月18日の訪問時に｢また近々参ります。｣と告げたまま その後 来なかった私を、店主はふと思い出したかもしれない。
｢そういえば、ここのところ来ねぇなあ｣と。
そうだとしたら、大変申し訳ない事をしてしまった。
2019年正月に発覚した愛猫の乳腺ガンの手術と治療の為 私が自由に使える僅かな資金は忽ち払底し、春以降は特に看病に専念していた為に店を訪ねることはできなかった。
愛猫は6月末に転移性肺ガンで余命1ヶ月以内との宣告を受け、8月15日に息を引き取った。
一方、店主は全身に転移したガンにより7月初旬に余命2ヶ月の宣告を受け、8月12日に逝去なさったという。
2018年 晩秋のあの日が店主との最後の交流になるとは当時は思いもよらない事だったが、生きとし生ける者 誰しも明日の事など知る由も無くただ神のみぞ知る運命に従うだけである。
店主からいただいた御言葉で最も印象深いのは、
｢探し続けていればいつかきっとその本に出逢える。だから気長に探しなさいよ。｣
その御言葉を胸に、私はこれからも本への愛を追求していきたい。
ありがとう和久井さん。
さようなら穂高書房。
mixi
「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)
ユーザーネーム
YAMAP
☆S∞MЯK★エリゴンズ
ヤマレコ
smrktoraerigon
Twitter
☆S∞MЯK★丹沢Λ@moyanotabikai
(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。山ツイッターは始めたばかりです。
moyanotabikai(靄の旅会)は｢霧の旅会｣へのオマージュです。)
上記アプリやSNSに登録している方、よろしくお願い致します。
YAMAP記録
新雪の倉岳山へ･石造物めぐり･｢さよなら穂高書房｣
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(写真60枚)
0、大月市 立野地区の石造物
午前7時過ぎ、中央線 梁川駅で降りるとホームに人影は無い。
ホームから南に望む「前道志」秋山山稜の山々は満遍なく砂糖をまぶしたような雪化粧だ。
西の山の端は朝陽に照らされて黄金色に輝く。
駅の改札を出ると、老夫婦ハイカーが先行していた。いきなり先を越されてしまったがおそらく御二人は月屋根沢沿いの登山道で立野峠に登るのだろう。
自分はバリエーションルートで倉岳山を目指すのでこの先で岐れる事になる。
桂川に架かる梁川大橋には一眼レフを構えて白い山波を撮影する男性が一人。
桂川の渓谷と鬱蒼とした渓畔林の向こうに雪をかぶった山波が連なる景観は一幅の絵になる。
橋を渡って円通寺の脇の坂に差し掛かると、擁壁の上に馬頭観音などの石造物群がずらりと並んでいた。
内訳は馬頭観音の文字碑が10余り、像塔が5つ、丸石や石棒5つ、双体道祖神、坐像の石仏、小さな石仏が納められた石祠がそれぞれ1つだ。
3年前の2016年12月末にここを歩いた時には全く目に入らなかったのだが、昔、 道路整備や宅地開発の際にまとめてここに移されたものだろう。
早速一つ一つ見て回ると、馬頭観音で元号が読み取れるのは「嘉永」「文久」「慶應」といずれも江戸時代末期のものであり、風化が著しいものはさらに時代を遡ると思われる。丸石に太字で彫られたものなど、それぞれに特徴があって面白い。
しかし何より印象深いのは、馬頭観音の文字碑の前に美味しそうな人参が二本供えられていた事だ。
碑のうち 一つだけに供えられているのは、遠い先祖が飼っていた馬の供養を今も続ける方がいらっしゃるという事だろうか。
あるいは、かつて集落の暮らしに貢献した昔の馬たち皆を弔う意味で供えられたものだろうか。
いずれにせよ、山里に今もなお連綿と続く素朴な信仰心が色鮮やかな人参に表れて、馬が嬉しそうに人参を頬張る姿を思い浮かべると真冬の冷気の中にも優しい温もりを感じるのだった。
また、特に目を引く石造物は 際立って白っぽい石に彫られた双体道祖神だ。
道祖神は村の入り口や集落の辻に置かれ、疫病や災禍の侵入を防ぐ神としての役割を担っていたが、これに豊作祈願や子孫繁栄の願いが加わって双体道祖神が造られるようになった。
この道祖神の御二人は実に仲睦まじく、頬を寄せ合って互いに手を握り合い、もう片方の手でお互いの肩をしっかりと抱いている。なんとも熱々な御二人なのだが、石材が白いので清楚な雰囲気が感じられて素敵だ。
(後で調べると江戸時代中期 宝暦二年(1752年)造立との事。)
双体道祖神の左隣には 貫禄のある体格の坐像の石仏、その隣には中に小さな石仏が納められた苔蒸した立派な石祠があり興味深い。
1、倉岳山北東尾根 撤退
先般の台風禍の影響か、登山口付近の斜面は大きく崩れ、登山口の石碑は当時もろに土砂をかぶったのだろう、道路の反対側に倒れ伏していた。この石碑には確か倉岳山を礼讃する短歌か詩が彫られていたように記憶している。
暑くなったのでアウターを脱いでザックに押し込めたが、この時 チェーンアイゼン・スパッツ・防水グローブの三種の神器をすべて忘れてきた事に気づいた。
しかし積雪はほんの数センチ、凍結も無いだろうとまずは山に入ってみる事にした。
山路に入ってすぐに月屋根沢沿いを辿る立野峠への登山道を外れて、倉岳山に北から直接詰め上げる尾根を目指す。
木々には昨夜にかけて降り続いた雪が付いて新雪の輝きを未だ失わず、うっすらと雪化粧した山路に足跡は見当たらない。
貯水槽を見て尾根に取り付く入口に鉄板の屋根を乗せた立派な木祠があった。中を覗くと御神体は長い石棒と丸石で、山神として祀られたものらしい。
参拝してから尾根に取り付き、明瞭な径を辿るとすぐに自然林となって気分が良い。
この尾根は「倉岳山北東尾根」と呼ばれ、「北西尾根」と共に比較的よく歩かれているバリエーションルートとの事。地図によると途中に岩場と急斜面があるが、問題になるほどではなさそうだ。
ところが、序盤の何でもない斜面でいきなりズルッと滑り、前のめりに派手に倒れてしまった。
靴先でめくった雪の下の泥が身体の前面にべっとりと付いて、ここで戦意を半分ほど喪失した。
積雪はほんの僅かだが、気温が高いのか雪と泥の境目が緩んでとにかく滑りやすい。
100均の布の手袋も既に泥と雪だらけで、木に掴まりながら進むが枝や幹を掴むたびにバサバサと雪が落ちてきて冷たくて仕方ない。
それでも引き返す気になれなかったのは、新雪を纏った冬木の輝きと梢越しに望む扇山や権現山稜の展望の素晴らしさゆえだ。
立ち止まって一息ついていると、後ろから颯爽と現れたのは全身隙の無いスタイリッシュな装備の50代男性。
ぶざまに転んだ形跡やヨレヨレの足跡も見られてしまったと思うと情けない。確かな足取りで去る男性を見送りながら、残り半分のもう半分の意欲も失いかけてしまった。
気を取り直して足を進め、地図に岩場表記のある岩尾根を登る。距離は大して長くもなく足掛かりもしっかりとした岩場で、危なげなく抜ける事ができた。
やがて緩やかで広い尾根となると開放感が気持ち良い。
新雪に覆われた疎林の緩斜面を漫ろ歩く気分は格別で、山に来て本当に良かったと思えるのはこんな時だ。
ゆったりと導かれるように590P圏に立つと、正面には倉岳山の山体が堂々と聳えて、標高は1000mに満たないながら さすが前道志の主稜たる重厚な風格が漂う。
一般登山道を使う場合、西の穴路峠または東の立野峠を経由するので倉岳山の山体を正面に望む機会は無く、登山というよりも峠路の延長で立ち寄るピークのように感じられる。
しかしこの北東尾根はまさに倉岳山の正攻法とでも言うべきルートで、自然林が主体で岩場もあって変化に富み、さらに展望も良いという三拍子揃った思いがけない素晴らしさにすっかり感動してしまった。
この先はいったん少し下り、やがてロープもある急斜面となって愈々本格的な登りが控えているはずだが、装備に問題があるので今回はここで撤退と決めた。
次回は秋の紅葉の頃に訪ねてみたいものだ。
慎重に往路を戻るが、朝から降り注ぐ陽射しで気温が上がってくる時間帯であり、雪融け水が木々から盛んに滴り落ちてまるで天気雨のようだ。
しかし 融雪の水が山肌を潤して木々が春の芽吹きへの力を蓄えるのだから、優しい雨を浴びて全身濡れてしまう事も幸せに感じられる。
関東南部周辺の低山では木々に積もった雪は忽ち融けてしまうので、まるで時が止まったかのような静謐に煌めく美しい雪化粧は 早朝の光の中でしか見られない短く儚いものであり、ほんの1時間前の幻想的な景色が はや幻のようにさえ思えるのだった。
2、貴船神社で初詣
登山口に戻って少し下り、月屋根沢キャンプ場との分岐で着替えて一息つく。
時刻は11時。単独男性が下山してきて「新雪の倉岳山をサクッと歩いてきました」とでも言いたげな涼しい顔で傍らを通り抜け、一方あえなく挫折したこちらは「まあこんな日もあるさ」と呟いて自分を慰めるしかない。
のんびりと林道を下っていくと70代くらいの地元の男性と擦れ違った。
朝見た石造物群をあらためて仔細に調べていると 先程の男性が戻ってきて、傍らにある坂道を指差して「この上にもあるよ。あの電柱のところ。」と声をかけてくださった。
礼を述べて急坂を登ると、右手に長い石段がありその先に鳥居が見える。神社にはあとで参拝する事にして、坂道をさらに先まで歩いてみたが路傍に石造物は見当たらなかった。
どうやら先程の男性がおっしゃっていたのは神社の事のようだ。
石段の前に戻ると、ここから望む東側の展望が素晴らしい。
一歩一歩上っていくと、左右の石柱の上には狛犬の代わりなのか小さな石像が立っていた。
さらに上って鳥居をくぐると「貴船神社」の境内に至る。
社殿の中には精巧にして精緻を極めた総欅造りらしい古色蒼然たる本殿が鎮座していた。
山梨県神社庁の資料によれば、この神社は鎌倉時代 天福年間1234年、立野左馬之祐忠望による創建と伝えられ、御祭神は「天水分之命」、明治６年に村社となり現在は氏子戸数35戸、崇敬者は1000人とある。
はからずも私の令和二年の初詣は、この大月市 立野地区の氏神社「貴船神社」となったのだった。
貴船神社に祀られた天之水分神（あめのみくまりのかみ）は古事記に登場する神で、伊邪那岐神と伊邪那美神の子で河口や港を司る神「速秋津日子命」と「速秋津比売命」の間に産まれたとの事。
この｢天之水分神｣は山の水の分配を司る農業用水の神だそうだ。
鳥居の前からの展望をあらためて確認すると、桂川と秋山山稜に挟まれた平地の大部分は畑だ。まさに、「天之水分神」を祀るに相応しい土地柄で、この貴船神社が昔から立野地区の人々の信仰の中心にあった事がはっきりとわかる。
地元の男性に教わらなければ、自分はこの先 何度この地を訪ねても下道の林道を歩いていただろうから、坂の上の神社には気付かないままだっただろう。
貴重な出会いに感謝すると共に、引き返して山から下りた事が結果として吉と出た事を嬉しく思った。
3、穂高書房 店主の訃報
時刻は11時半、さてこれからどうしようかと考える。
先程からちらちらと頭に浮かんでいたのは阿佐ヶ谷の山岳古書店「穂高書房」だ。
10代の頃から｢日本山書の会｣に所属していたという店主 和久井正明さんは山岳雑誌から稀観本までありとあらゆる山岳古書に精通しており、いつも面白い話を聞かせてくださるし、行けば必ず何かしら掘り出し物に出会える。
山を断念した代わりに「古本ハイキング」に出かけようというこの考えは名案に思えた。
店には数ヶ月に1回くらいのペースで通っていたのだが、昨年は愛猫の闘病と看取りがあり、一度も行く事ができず すっかり御無沙汰していた。
丸一年ぶりにお店にお邪魔しよう。
山帰りにザックを背負って行くのは初めてだから、ついでに今日の雪山失敗談も話して笑ってもらおう。そう考えると何だか楽しくなってきた。
梁川駅に戻り、穂高書房に電話をかける。
店主の「はいはい！開いてますよ。何時頃になりますか？」といういつもの明朗なお声を期待して…。
ところが、呼び出し音は鳴らずに「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。」との機械音声が流れた。
慌ててもう一度かけ直したが、同じだった。
…まさか、店を畳んでしまったのだろうか。すぐにネットで検索してみると…常連さんや地元の方のブログやツイートが幾つか見つかり、そこには「店主の和久井さんが昨年 夏に急逝」とあった。
亡くなった………私は強い衝撃を受けてただ茫然と、 眩しいほどの陽射しの中に黙然と聳える倉岳山の稜線を見つめていた。
店主からはガンを患っていた事、免疫療法薬「オプジーボ」の注射の為 に定期的に病院に通っていらっしゃる事を聞いていた。
しかし登山で鍛えた身体の頑健さは感じられたし、声には張りがあってお元気そうだった。
｢注射が効いてるかどうかはわからないなぁ｣とおっしゃっていたが、最後に訪ねた日から9ヶ月目に亡くなられたのは俄には信じがたい思いだ。
寄る場所を失い、かといってこのまま帰る気にもなれず、山を見つめているうちにふと先月 歩いた川合峠の行方知れずの馬頭観音の事を思い出した。
そうだ、あの馬頭観音を探そう。まずは隣りの四方津駅まで電車で移動する事にした。
4、川合峠 新たな馬頭観音を発見
四方津駅からもうすっかり通い慣れた道を辿り、桂川に架かる川合橋を渡って川合地区に差し掛かると、眼下の家の庭で柴犬が私に尻尾を振りながら吠えているのが見えた。
廿三夜塔(享和二年 1802年)がある分岐を左に折れて山路に入るとすぐに｢聖徳太子｣と彫られた楕円形の石碑と「馬頭大士」の小さな文字碑を見る。
優れた工藝技術の才能でも知られた聖徳太子を職能の守護神として崇める「太子講」はさまざまな職種の職工の人々によって組織され、中世から近世にかけて盛んであった。
石仏に関する幾つもの著書の他にブログにも探訪記録を載せている石仏研究者の偏平足さんによれば、この碑は江戸時代最後の年である慶應四年(1868年)のもので｢大工 久嶋｣との刻字があるという。
隣りの「馬頭大士」の文字碑はおそらく形状から見て明治か大正のもので、大士は菩薩の尊称であるから馬頭観世音菩薩を意味する。
脇道に逸れた先には、質素な「八幡神社」があった。ここからは川合地区と桂川の向こうに広がる山波の展望が良い。
山路に戻って登るとすぐに川合峠に至る。
ここは川合地区と南の谷の小集落 千足とを結ぶ小さな峠で、以前は馬頭観音の文字碑が二つあったのだが、先月歩いた時には一つは場所が変わり、もう一つはどこにも見当たらなくなっていた。
寛政八年(1796年)十二月の文字碑は同じところにある。しかし、もう一つの享和二年の文字碑がやはり無い。
峠を見回し、辺りの斜面に目を走らせ、最後にふと見上げると斜面の上方に石造物らしいものが見えた。しかも一つではない。
斜面を登って尾根上から回り込んで確認すると、なんと馬頭観音が三つあり、中央には像塔が、その左右には文字碑が置かれていた。
苔のついた像塔は寛政元年(1789年)のもので、観音様が頭に乗せた馬の顔は風化しているが欠けてはいない。文字碑はそれぞれ享和二年(1802年)四月と六月のもので、「南無馬頭観世音菩薩」と刻字されていた。うち片方は前回 行方不明だったものだ。
この三つはいずれも小さな露岩を背にして峠を見下ろしているのだが、峠路を行くハイカーは誰も気付かないのではないだろうか。
斜面から下りて位置関係を見ると、峠路の文字碑と尾根上の三つの馬頭観音はちょうど向かい合わせの直線上にあり、しかもその直線は峠路と直交していた。
意図的にそのように置かれたのであれば、いまだに素朴な信仰を守り続ける地元の方の手によるものと考えられ、ここにも山村の人たちが馬に寄せる思いをしみじみと感じるのだった。
新雪の倉岳山歩きは挫折したが、代わりに山麓では石造物めぐりと神社の参拝、そして川合峠では新たな馬頭観音を見つける事ができて実に有意義な旅となった。
5、【穂高書房の思い出】
中央線 阿佐ヶ谷駅近くのこの店を初めて訪ねたのは2017年の、確か春だったように記憶している。
書店の存在はその少し前から知っていた。何か調べ物をしていた時に古書マニアのブログに行き当たり、そこには大量の「収穫」が掲載されていた。
古いガイドブックや雑誌などを手当たり次第に買い漁り、同じものを二度買いしているその様子を見てある意味 羨ましく、そして同時に腹立たしくもなったが、おそらく私が欲しいものはもう売れてしまっているだろうとの諦めもあって足が向かなかったのだ。
それがなぜ行く気になったのかは覚えていない。
拾い物でもあれば、という気持ちからだろうか。
阿佐ヶ谷駅から徒歩5分、「山岳書高価買入 穂高書房」と白い文字で書かれた色褪せた青看板が目印のこの店に足を踏み入れてみて驚いた。
店舗そのものが縦長で狭いのだが、客が二人入ればもう窮屈になってしまうような細い通路の両側に、山岳本と山雑誌が文字通り山の如く天井近くまで堆く積まれているのだ。
普通の古書店ならパラフィン紙で保護されて恭しく棚に収まっているような本が、むきだしのまま無造作に積まれていた。
左右の本棚に収まりきらないものはすべて床から平積みで、本来は接客のカウンターだったと思われる場所にも本が山と積まれているので、山と山の間の30cmほどの隙間だけが接客用の空間となっている。
私がガラガラと引き戸を開けて入ったので 客が来たのはわかっているはずだし奥からごそごそと音はするのだが、隙間から店主の顔は見えない。
本の扱いからみてかなりの偏屈者かもしれず、一見の客が挨拶も無しに入ったのはマズかったかとやや緊張しながら辺りを見回す。すると、ひょいと店主が隙間から顔を出して、眼鏡の奥の鋭い眼が私を値踏みするように見つめた。
すかさず「こんにちは！」と挨拶したが、最初のほうのやり取りはほとんど覚えていない。
店主が饒舌になったのは、私が大正時代から昭和戦前期にかけて活躍した社会人山岳団体「霧の旅会」について触れた時だったように思う。
私は客としては若い部類に属し、昔の山岳雑誌やガイドブック、山と峠の歴史などに並々ならぬ興味を持っていると知った店主は、「今はそういう人はなかなか居ないよ。本自体、読まないからね今の人は。」と嬉しそうに語ってくれて、私も自分の嗜好が認められたようですっかり嬉しくなった。
70代らしい店主の記憶力や知識は深く正確且つ明瞭で、批判精神も旺盛だった。
その後 数ヵ月ごとに通うにつけ、店主が展開した「百名山信仰批判」「近年 流行りの登山スタイル批判」などは実に愉快痛快で、同じ事を思っていた私は強く頼もしい味方を得たような気持ちだった。
mixi上の友達で、何度か山歩きを共にしたマスケンさんが以前からこの店の客だと知って驚いたが、店主から｢彼は、いいのが入荷したら電話ください、って名刺置いていったよ。｣と聞いて、彼のちゃっかりした振る舞いに苦笑いしてしまった。
｢自分は足で探しに来ますよ！｣と宣言し、数ヵ月おきに通う事となった。
どこかに同志は居ないか、と毎回｢僕と似たような趣味の方は来ませんか？｣と訊くのだが、店主は決まって｢居ないなぁ。前にそういうお客さん居たんだけど、最近ぱったり来なくなったな。｣と遠い眼をするのだった。
エアコンが壊れて蒸し風呂のような暑さの中、汗を滴らせながら本の山を掻き分けた夏の日。
山積みの本の下のほうから目当ての雑誌を抜こうとして危うく雪崩を起こしかけた日。
夕立ちが来てバラバラと降る雨の中、店頭の本箱の避難を手伝おうとして｢やり方があるから！手伝わなくていいよ｣と制止された日。
店主との印象深い思い出を二つ三つ。
初めて店にお伺いした日の事だった。束の間の緊張を経て挨拶、会話が一段落し、私はもう一度 棚を隅から隅まで見た。すると、一度目には気づかなかった本を見つけたのだった。
【山を行く】(�眸�棟材・朋文堂 昭和5年)である。以前から欲しかった本の一つだ。感動してその事を伝えると店主はニヤリと笑い、「本は不思議なものでね、最初は無いと思っても後から見つかる事がある。」とおっしゃった。単に私の注意力の問題なのだが、この店主に既に尊敬の念を抱いていた私は含蓄に富んだ御言葉に深く納得したのだった。
何度か通ううちに、店主が自ら本を持ってきてくださる事があった。
「これはなかなか面白いよ」と言いながら手渡してくれたのが【日本山岳伝承の謎 山名にさぐる朝鮮ルーツと金属文化】(谷 有二 ・未来社)、【回想の秩父多摩 離れ猿の山ある記】(河野寿夫・白山書房)だ。
いずれも私の興味関心をよく把握してくださった上での選択であり、私はそれに感激して当然二冊とも購入した。
また、戦前の山雑誌【山と高原】(朋文堂)のバックナンバーを探していた時、すでに所蔵している号数をメモした手帳と首っ引きで雑誌を手に取る私の熱心さを見かねた(？)店主がわざわざ在庫を外に運び出し、パイプイスまで出してきて｢ここに座ってゆっくりやりなよ｣と笑って言ってくださった。
戦前の山雑誌には他にも5種類ほどあるが、店主は【ハイキング】(ハイキング社)が一番 内容が良いとおっしゃっていた。
徒歩行雑誌・徒歩旅行雑誌・健歩雑誌など時代によって冠詞は変わるが、【ハイキング】は私のような低山党にとってはまさにバイブルのような雑誌だ。
「創刊号から120号まで揃いで入荷した事があったけど、ほとんど売れちゃったよ。今はもう揃いで手に入れるのは無理だろうなぁ。」と言う店主に「池袋の古書店が揃いで80万円で売ってましたよ」と伝えると「ぼったくりだよ。私なら揃いで10万円くらいを付ける。」とおっしゃっていた。
確かに、店頭にあるハイキング誌は1冊800円の値で売っていて、仮に全号揃いなら約10万円だ。
古書店の店主の中には、入手困難とみるや本来の価値に見合う相場を無視して不当に高い値段をつける者も少なくない。
昔ながらの古書店はともかく、Amazonに出品しているような新興の業者は法外な値段で出している場合もある。
そのような者たちを穂高書房の店主 和久井さんは一刀両断、とても怒っていらした。
私の見たところ、どの本にもその価値にふさわしい値段が付けられており、とても良心的な方だった。
私がここで買わせていただいた本や雑誌は計20冊ほどだろうか。
中には現在入手困難なものも含まれている。
特に東京近傍の、私が行くような山に関する戦前の本や雑誌は、戦災による焼失や戦後の混乱の中での散佚、あるいはその後の廃棄で 現在は愛蔵家の手元にあるもの以外に市場に出回る事は少ないという。
私が行くと店主は決まって｢何にも(変わって)ないよ。(めぼしいものは)入ってない。｣とおっしゃったが、それはいわば客の熱量を試す言葉であり、｢ああそうですか｣と帰ってしまうような客はその程度の情熱という事なのだろう。
実際、本棚にさりげなく私好みの本が新しく入っていて、私が嬉々として会計に持っていくと｢これはそうそう出回ってない本だよ。｣とニヤリと笑うのだった。
店主からは来店前には必ず電話してくれと言われており、それは臨時休業の場合があるからだとの事だったが、実際には客の声や好みのジャンルを覚えていて、予め奥から出してきた秘蔵の本を棚に忍ばせる、そういう もてなしの心、遊び心を持っていたように私には思えるのだ。
2018年11月18日の訪問時に｢また近々参ります。｣と告げたまま その後 来なかった私を、店主はふと思い出したかもしれない。
｢そういえば、ここのところ来ねぇなあ｣と。
そうだとしたら、大変申し訳ない事をしてしまった。
2019年正月に発覚した愛猫の乳腺ガンの手術と治療の為 私が自由に使える僅かな資金は忽ち払底し、春以降は特に看病に専念していた為に店を訪ねることはできなかった。
愛猫は6月末に転移性肺ガンで余命1ヶ月以内との宣告を受け、8月15日に息を引き取った。
一方、店主は全身に転移したガンにより7月初旬に余命2ヶ月の宣告を受け、8月12日に逝去なさったという。
2018年 晩秋のあの日が店主との最後の交流になるとは当時は思いもよらない事だったが、生きとし生ける者 誰しも明日の事など知る由も無くただ神のみぞ知る運命に従うだけである。
店主からいただいた御言葉で最も印象深いのは、
｢探し続けていればいつかきっとその本に出逢える。だから気長に探しなさいよ。｣
その御言葉を胸に、私はこれからも本への愛を追求していきたい。
ありがとう和久井さん。
さようなら穂高書房。
mixi
「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)
ユーザーネーム
YAMAP
☆S∞MЯK★エリゴンズ
ヤマレコ
smrktoraerigon
☆S∞MЯK★丹沢Λ@moyanotabikai
(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。山ツイッターは始めたばかりです。
moyanotabikai(靄の旅会)は｢霧の旅会｣へのオマージュです。)
上記アプリやSNSに登録している方、よろしくお願い致します。
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