過去に栃木県を水源に群馬県、埼玉県、茨城県を流れる渡良瀬川で、何万匹というアユが死んでいるのが発見されました。コイやウナギなどもたくさんとれる川だったのですが、魚が急に減りました。また、川の水がかかった土地では作物が枯れ、稲や麦などが取れなくなってしまいました。
調べた結果、これは上流にある足尾銅山から出る「鉱毒」が原因だとわかりました。鉱物から純粋な銅を探り出した後の、鉱石のくずには、植物や動物に害のある物質が含まれていたのです。銅をつくる精錬所から出る大量の煙も、環境を汚染してきました。魚や作物が取れないばかりか、鉱毒のために病気になる人もたくさんいました。
これを知った正造は、渡良瀬川沿いの土地を見に行きました。農家の人たちの訴えを、じかに聞きました。「このままでは、ここは人が住めない土地になってしまう。」正造は、議会でこの事件について演説を行い、政府の力で鉱山の営業を辞めさせるように求めました。
しかし、政府の返事は、「原因がはっきりしない」「鉱毒が川に流れださないような設備を用意すればよい」など、煮え切らないものでした。正造は粘り強く、議会でこの問題について質問書を出し続けましたが政府の態度は変わりません。国は工業発展に力を入れており、銅は海外への輸出品として国に利益をもたらしていました。
だから鉱山の営業を辞めさせることはできなかったのです。「被害に苦しむ国民を守ることができないで、いったい何のための議会だ。議会は国民を殺すつもりなのか。」衆議院議員を務めて10年目となる1901年の秋、正造は辞表を提出して、議員を辞めました。しかし、正造は諦めたわけではありませんでした。人知れず、ある決意を固めていたのです。
その年の12月。明治天皇が乗った馬車が議会の議事堂から出てくると、正造は馬車に向かって駆け出しました。「お願いでございます」高くかざした一通の手紙は、天皇にあてた直訴状でした。鉱毒事件をじかに天皇に訴えようとしたのです。正造はたちまち警官に取り押さえられ、手紙を渡すことは、かないませんでした。
当時、天皇は普通の人々からすれば、雲の上の存在でした。正造が元議員だといっても、天皇に直接話しかけることは、考えられないことでした。しかし、正造の捨て身の行動を、新聞はこぞって取り上げました。おかげで、世の中の人々を応援する声が高まり、政府で鉱毒問題を取り上げることになりました。
だが、政府の出した結論は、今度もまたその場しのぎのものでした。渡良瀬川では、度々洪水が起こっていました。水が沢山運ばれるほど、鉱毒も沢山運ばれるわけです。ですから、鉱毒をなくすのではなく、「洪水さえ防げば毒が広くたくさん運ばれなくなる、つまり川があふれないための遊水地をつくればよい」というのが、政府の出した具体案でした。
政府は、遊水地を栃木県の谷中村に作ることを決めました。「谷中村を毒のたまり場にするなんて、許せない。銅山の営業を続けるために、一つの村をつぶすというのか。」正造は、谷中村の住人の先頭に立ち、反対運動を始めました。
ところが、被害のない土地に住む多くの人たちは、遊水地をつくることで解決したとおもうようになってしまいました。日に日に鉱毒問題が忘れられていくのが、正造はくやしくてたまりません。「あきらめずに、続けていくことが大切なのだ。わたしは、谷中村の人たちとともに最後までやり抜くぞ。」
正造は64歳の時、谷中村に移り住み、ともに運動をする人たちの家を転々として暮らしました。しかし、10年ほど経つうちに、村の人たちも戦うことに疲れ果ててきました。国からわずかなお金を貰い、よその土地へ引っ越していく人がだんだん増えていきました。
それでも、正造は老いて病気がちな体を励ましながら、わずかに残った住民を訪ね歩くことを辞めませんでした。そして、1913年。正造は河川調査の途中で倒れ、一カ月後には帰らぬ人となりました。73歳でした。正造の死後、わすかに谷中村に残った人々も、遊水地の完成を前に村を出ていきました。
足尾銅山は、銅を取りつくすまで営業が続けられ、そのために一つの村がなくなり、多くの人々が犠牲となりました。足尾鉱毒事件は、日本で環境汚染による公害問題でしょう。その後、日本では1960年頃から、公害問題が注目されるようになりました。正造は、日本の環境問題にいち早く取り組んだ人なのです。
残念ながら、正造は村を守り抜くことができませんでした。けれども、「だれもが。暮らしやすい世の中をつくりたい」という強い思いから、立場の弱い人たちのそばに立って、粘り強く続けた正造の姿は、のちの人々に多くの影響を与えたのです。
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