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2019年11月20日00:48

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11月20日が誕生日である人々

今日は個人的に興味のある人々でいっぱいです。

1458年(長禄2年)、戦国時代の武将・大名、出雲守護代の尼子経久が生まれました。文明6年(1474年)、人質として出雲・飛騨・隠岐・近江守護を務める主君・京極政経の京都屋敷へ送られ、この後5年間、京都に滞在します。滞在中に元服し、京極政経の偏諱を賜り、経久と名乗りました。北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、大内義興と戦い、尼子氏の領地をひろげ、全盛時代を作ったことから、「謀聖(ぼうせい)」「謀将(ぼうしょう)」と称されました。経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と称されます。天文10年(1541年)11月13日、月山富田城内で死去しました。享年84(満82歳没)。
1696年(元禄9年10月26日)、第7代尾張藩主の徳川宗春が生まれました。尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比されますが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではありませんでした。とはいえ、宗春のもとで名古屋は歌舞音曲、遊郭などが大繁盛したのはたしかです。明和元年10月8日(1764年11月1日)に死去。
1792年、ロシアの数学者、ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーが生まれました。カザン大学に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていました。1835年から1837年にかけての論文「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」において、非ユークリッド幾何学の1つである双曲幾何学を築きました。双曲幾何学はロバチェフスキー幾何学とも呼ばれます。1856年2月12日に死去。
1858年、スウェーデンの女性作家、セルマ・ラーゲルレーヴが生まれました。『ニルスのふしぎな旅』(1906年・1907年)の著者であり、女性初・スウェーデン人初のノーベル文学賞受賞者でもあります。1894年に出版した第2作『見えざる絆』が商業的な成功を収めたため、ラーゲルレーヴは女学校をやめて専業作家となりました。それ以降、ラーゲルレーヴは『アンチ・キリストの奇跡』(1897年)、『クンガヘラの女王たち』(1899年)、『地主屋敷の物語』(1899年)と、人気作品を次々と刊行し、スウェーデン国内でも、国際的にも、不動の名声を獲得しました。1940年3月16日、ノーベル賞の賞金で買い戻した生家モールバッカで死去しました。
1858年、政治家の尾崎行雄が生まれました。戸籍上は1859年生まれとなっています。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれます。昭和29年(1954年)10月6日、直腸がんによる栄養障害と老衰のため入院先の慶應病院で死去。享年97(満95歳没)。
1886年、オーストリアの動物行動学者、カール・リッター・フォン・フリッシュが生まれました。ミュンヘン大学の動物学の教授としてミツバチの研究をし、彼らのコミュニケーション手段としての8の字ダンス、また紫外線に鋭敏な感覚を持ち合わせていることを発見しました。1973年、ニコ・ティンバーゲン、コンラート・ローレンツと共にノーベル生理学・医学賞を受賞。動物行動学という学問分野の創設に大きな功績を残しました。1982年6月12日に95歳で死去。
1889年、アメリカの天文学者、エドウィン・ハッブルが生まれました。我々の銀河系の外にも銀河が存在することや、それらの銀河からの光が宇宙膨張に伴って赤方偏移していることを発見しました。近代を代表する天文学者の一人であり、現代の宇宙論の基礎を築いた人物です。ハッブルは銀河の赤方偏移の発見者として一般に知られている。1929年、ハッブルとミルトン・ヒューメイソンは、銀河の中にあるセファイド変光星を観測し、セファイド変光星の明るさと変光周期の関係を使って、銀河の赤方偏移と距離の間の経験則を定式化しました。これは、赤方偏移を後退速度の尺度と考えれば、2つの銀河の間の距離が大きくなるほど、互いに離れる相対速度も距離に比例して大きくなるというもので、今日ハッブルの法則として知られているものです。ハッブルはまた、銀河をその組成や距離、形状、大きさ、光度などでグループ分けする分類法を考案しました。この銀河の形態分類はハッブル分類と呼ばれて現在でも使われています。1953年9月28日、ハッブルは心不全のためカリフォルニア州サンマリノで没しました。妻のグレースは葬儀を行わず、遺体の埋葬先についても決して明かしませんでした。これは、葬儀をせず、墓標のない墓に埋葬するようにというハッブルの希望によるものとみられています。現在でも、ハッブルの遺体の所在は不明となっています。
1899年、実業家の田嶋一雄が生まれました。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。1985年2月、世界初の本格的なオートフォーカス一眼レフカメラ「α-7000」を発売、世界中で爆発的な人気を呼び、史上空前の売れ行きとなりました。同年11月19日、86歳で死去。
1912年、ハプスブルク家当主、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子、オットー・フォン・ハプスブルクが生まれました。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、ナチス・ドイツのオーストリア侵略計画に対抗しました。オーストリア併合の最大の障壁とヒトラーに見なされ、そのオーストリア侵略計画は彼の名から「オットー作戦」と呼ばれました。第二次世界大戦中にはアメリカに亡命してルーズベルト米大統領やチャーチル英首相と接触し、弟らとともにオーストリア解放に尽力しました。第二次世界大戦の戦時中には「ドナウ連邦」樹立を、戦後は欧州統合を提唱しました。2011年7月4日、98歳で死去。
1914年、国語学者の見坊豪紀(けんぼう ひでとし)が生まれました。『三省堂国語辞典』の編纂者として辞書史に大きな業績を残しました。「ケンボー先生」と親しまれます。東京帝国大学大学院在学中、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に関わります。この辞書は、基本的な項目は当時の『小辞林』に基づいているものの、ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」の文句を冠して1943年に刊行されました。見坊が辞書を「かがみ」であると捉え、言葉の実態を映す「鏡」(記述文法)の性格と、言葉を正す「鑑」(規範文法)の性格を認識していた(第3版の序文)ことは有名です。1992年10月21日に77歳で死去。
1915年、中華人民共和国の政治家、胡耀邦(こ ようほう)が生まれました。国務院副総理、第3代中国共産党中央委員会主席・初代中国共産党中央委員会総書記。彼の死が後の六四(第二次)天安門事件の引き金となりました。顧問委員会が主催した民主生活会で胡耀邦は保守派、改革派を問わず延々と批判され、ついに1987年1月16日の政治局拡大会議で胡耀邦は総書記を解任されました。失脚後の胡耀邦は政治局委員に留まり、党内改革を呼びかけましたが、1987年11月の中共13期1中全会で政治局員に降格となりました。1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去しました。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していきました。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展しました。
1915年、映画監督の市川崑が出生。娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組みました。テレビ・ドラマの代表作に中村敦夫主演の『木枯し紋次郎』、ドキュメンタリー映画の代表作に『東京オリンピック』。映画の代表作に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『股旅』などがあります。2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。92歳没。
1929年、フランスの編曲家、指揮者、作曲家、ピアニスト、フルート奏者のレイモン・ルフェーブルが生まれました。イージーリスニング界の第一人者として有名。特に日本では、キングレコードを発売元としていた時期に、ポール・モーリアの「ラブ・サウンドの王様」に対して、「ラブ・サウンドのシャルマン」がキャッチフレーズとして使用されました。日本では1969年にシングル・カットされた『シバの女王』がロングヒットとなったことから知名度が一気に上昇、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、カラベリとともにイージー・リスニング全盛期を迎える立役者の一人となりました。2008年6月27日、パリ郊外で肝機能不全により半年強の入院生活を経て死去。78歳没。
1932年、イラストレーター、デザイナーの内藤ルネが生まれました。本名は内藤功(ないとう いさお)。 1950年代半ばから『ジュニアそれいゆ』など少女雑誌にイラストや人形作品を発表。童顔でファッショナブルな少女画で人気を博し口絵や付録、人形や雑貨のデザインなどで幅広く活躍しました。ルネの少女画はそれまでの美しく、憂いを含んだ少女画とは一線を画した頭身の低い、幼さのある、はっきりした色合いと線画の元気な少女画であり、以降の少女文化・イラストに大きな影響を与え、日本の「kawaii」文化の先駆けとなりました。ほか1971年には「ルネパンダ」「イチゴデザイン」「白いインテリア」などを発表、発信し一世を風靡しました。また、長年にわたり男性同性愛雑誌の『薔薇族』で表紙を描いたことでも知られます。2007年10月24日、急性心不全のため静岡県伊豆市の自宅で死去、74歳没。
1932年、俳優の萬屋錦之介が誕生。歌舞伎から映画に転じ一躍人気スターとなった時代劇俳優。前名中村錦之助。元々は満4歳で初舞台を踏んだ歌舞伎役者。一般の歌舞伎公演に出なくなっても、毎年12月の歌舞伎座で2代目大川橋蔵と舞踏や新作歌舞伎の一幕をつとめていました。映画俳優の道を選んだ錦之助は、美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、新東宝を経て東映に移籍。同社製作の映画『笛吹童子』に出演し、これの大ヒットにより一躍スターの座を手に入れました。『一心太助』シリーズと『宮本武蔵』シリーズは当たり役となり、特に武蔵役はライフワークとなりました。映画が斜陽化するとテレビの時代劇に進出。この頃の作品には『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等があります。私の知人が公園で自転車に乗った彼に遭遇したそうですが、とっくりセーターを着こみ、わき目も降らず、前方だけを凝視していたそうです。1997年3月10日午後2時41分、入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院で肺炎のため死去。64歳没。弟は中村賀津雄。
1942年、女優の三田和代が生まれました。実父は「コピーの三田」で知られる三田工業(後の京セラミタ、現・京セラドキュメントソリューションズ)の創業者であった三田繁雄。大学中退後、俳優座養成所(第15期生)へ入所(同期には前田吟・栗原小巻・原田芳雄・竜崎勝・小野武彦・秋野太作・地井武男・林隆三など)。 1966年、日生劇場『アンドロマック』で舞台デビュー。劇団四季に入団し、『なよたけ』『オンディーヌ』などに主演。テレビドラマでは『樅ノ木は残った』に出演。1984年、劇団を退団。『歌麿 夢と知りせば』で夫婦役を演じた岸田森とは、32歳から岸田が亡くなるまでの8年間、私生活の上での交際相手でもありました。岸田森が亡くなった際には、喪主を務めました。岸田の進言もあり、活動の中心は舞台に据えています。
1943年も女優。浜美枝が生まれました。中学卒業後、東京急行電鉄(東急)自動車部(現在の東急バス)に入社。1959年、東宝映画『侍とお姉ちゃん』のコンテストに応募したのがきっかけで東宝に入社します。1960年、16歳の時に映画『若い素肌』で女優デビューし、同年には同い年の星由里子、田村奈巳と共に「東宝スリーペット」(命名者は夏木陽介)として大々的に売り出されます。『クレージー映画』の常連マドンナとしても知られ、主に植木等の相手役を務めました。1967年公開の、007シリーズ『007は二度死ぬ』(共演:ショーン・コネリー、丹波哲郎)で、ボンドガール役を演じ、国際的名声を得ます。その他フランス制作のオムニバス映画『世界詐欺物語』の堀川弘通監督による「日本編」に出演しています。東宝が専属契約制を打ち切った1970年に退社。以後はテレビでの女優業のかたわら、『小川宏ショー』(フジテレビ)、『八木治郎ショー・いい朝8時』(毎日放送)、『日曜美術館』(NHK)などのテレビ番組の司会や、『脱線問答』(NHK)にレギュラー出演するなどで活躍。ライオンの洗濯用洗剤「トップ」のイメージキャラクターを長年務めていたことでもおなじみ。現在は箱根町に住みながら、ラジオ番組『浜美枝のいつかあなたと』(文化放送)のパーソナリティを務めています。
1946年、タレント、俳優、司会者の大石吾朗が出生。グループ・サウンズ「寺内タケシとバニーズ」のセカンドギタリストを経て、「ジ・エドワーズ」のヴォーカリストとなります。ニッポン放送と日本テレビの番組『コッキーポップ』では、今も語り継がれる伝説のパーソナリティでした。私には若者向け情報番組(ワイドショー番組)『ヤング720』(ヤングセブンツーオー)の司会者のイメージが強いです。俳優としては、数多くの大映テレビドラマに出演しています。
1946年、ノンフィクション作家、元政治家の猪瀬直樹が生まれました。『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。道路公団民営化推進委委員、地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長、大阪市特別顧問、大阪府特別顧問。東京都知事(第18代、1期)、東京工業大学世界文明センター特任教授、東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、国際日本文化研究センター客員教授などを歴任。学生時代は中核派の指導者。著名な愛煙家で禁煙運動をヒステリックな禁煙ファシズムとして批判しました。
1950年、元女優の渥美マリが生まれています。大東学園高等学校の2年生だった1967年に、大映東京撮影所演技研究所19期生に合格。高校を中退し、1968年に大映専属女優となりました。1968年『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』に、同期の八代順子、八重垣路子とともにカブスカウト指導員役でデビュー。1969年、自身の代名詞ともなる、“軟体動物シリーズ”と呼ばれる初主演映画シリーズの第一作『いそぎんちゃく』が公開されます。「大映ハレンチ五人娘」の一人として人気を得て、経営的に困窮する大映の救世主になりました。“和製ブリジット・バルドー”と称賛されながら、元祖セクシー女優の一人として活躍を続け、妖艶な演技と魅惑的な肉体で一世を風靡しました。しかし次第に「裸はイヤ」とゴネ出し、その代役が新人にまわり、その一本が松坂慶子の初主演映画『夜の診察室』でした。脱がないため仕事を干されましたが、1971年に大映倒産後も他社から声がかかり、「渥美まり恵」と改名して、1972年4月、松竹の『喜劇 新婚大混線』に出ました。1978年5月、大量の睡眠薬を飲んで自殺未遂を起こし、女優業を引退しました。
1950年、上方の噺家、笑福亭松枝(しょうふくてい しょうし)が生まれました。師匠の6代目笑福亭松鶴の元で修業していた時代の苦労話を「ためいき坂くちぶえ坂」という書物にしたためています。松竹芸能所属となっていますが、私は吉本興業の総本山、「なんばグランド花月(NGK)」で彼の高座を見た記憶があります。なんでだろう?
1955年、5代目中村雀右衛門が生まれています。前名は中村芝雀(しばじゃく)。父は4代目雀右衛門。実兄は主に立役をつとめる八代目大谷友右衛門(明石屋)。さる寿司屋の親父は客に話題で勝たないと気が済まない性分でしたが、「この間みえた中村芝雀(当時)ねえ」と自慢しだしたので、「お兄さんの友右衛門さんだけ宗教が違うんですよねえ」と私が切り返すと、自分の知らないことを聞かされ、狼狽した親父は思わず包丁を床に落とし、洗いもせずに魚をさばいていました。女形役者としては清楚で上品な芸風で、時代物では赤姫を得意とし、世話物では町娘や女房と、さまざまな役をこなします。私と同い年で芸能界、スポーツ界、梨園に多い昭和30年組。
1960年生まれの歌手、坪田まり子(倉田まり子)は割愛します。
1969年、歌手、女優、80年代後期のアイドル、八木さおりが誕生。小学館の青年向け雑誌「GORO」で頻繁に水着姿を披露していました。八木小緒里や八木小織と名乗っていたこともありました。歌も出していましたが、残念ながら聴けるレベルではありませんでした。出かけた人気が失速したのは映画「パンダ物語」で監督が交代させられ、その原因が彼女にもあるという噂が立ったこともあるでしょう。後年、ヌード写真集『春花秋冬』も出しましたが、ファンだった私は期待外れでちょっとがっかりしました。現在は都内の小劇団『丸福ボンバーズ』に属し、年下の一種パン男性と結婚したことをネットで発表しました。
1970年、女優、タレントの原久美子が生まれました。キリンビールのキャンペーンガールなどを経て、女優としてVシネマ・テレビドラマなどに出演しています。ヌード写真集の出版でも話題となりました。最近は、テレビの旅番組などにも出演しています。
1980年、タレント、女優、元グラビアアイドルの小池栄子が生まれました。元イエローキャブ所属。イエローキャブの系列会社であったサンズ(後のサンズエンタテインメント)に所属していましたが、2004年11月に両社の社長であった野田義治がイエローキャブを辞任したことをきっかけとして、親会社のイエローキャブへ移籍。2015年2月、所属していたイエローキャブの倒産に伴い、個人事務所を設立し、独立。この人、容姿がいかつくて今一つですが、女優としては天才的な閃きを見せることがあります。当たり役に恵まれれば、大きく飛翔するでしょう。夫はいまや「コイケのダンナ」としてしか認知されなくなった元格闘家、元プロレスラーの坂田亘。

今日もタレントなどを中心として何人か割愛したことを申し上げます。
この後は忌日。

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