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2019年11月17日05:40

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11月17日が誕生日である人々

9年、第9代ローマ皇帝、ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスが生まれました。ユリウス・クラウディウス朝断絶後の四皇帝内乱の時代(68年6月 - 69年12月)に終止符を打ち、自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始しました。父はアシア属州の徴税請負人フラウィウス・サビヌス、母はウェスパシア・ポッラ。母は騎士階級(エクィテス)身分でしたが、父フラウィウス・サビヌスはそうではなく、結婚によりその身分となりました。軍務を経たのち、執政官となり、さらにユダヤ人の反乱勢力を鎮圧、波乱の人生を味わいつつも、60歳で皇帝に即位。財政の健全化のために様々な政策を実行しましたが、特に有名なのは74年に有料の公衆便所を設置したことです。しばしば誤解されますが、ウェスパシアヌスの設置した公衆便所は用を足した利用者から料金を徴収するのではなく、集めた尿を有料で販売したのです。10年の統治を経て、さすがに老いた彼は病気になり、死を覚悟した時「かわいそうな俺、神になるんだろうな...」とつぶやいたと言われます。当時のローマ皇帝は死後に神格化がなされたからです。そして最期の79年6月23日に「控えおろう! これから予は神になるぞ!」と叫んで自ら立ち、最後は側近らに抱えられてしかし立ったまま死んだと伝えられます。
1790年、ドイツの理論天文学者、数学者のアウグスト・フェルディナント・メビウスが生まれました。専門はトポロジー、整数論など。「メビウスの帯」(Möbius band、メビウスの輪ともいう)の発見で有名。また彼の名をとったメビウス関数は、数論の重要な関数のひとつです。彼の名をとった小惑星もあります(28516 Möbius)。
1868年9月26日に77歳で死去。
1897年、農芸化学者の坂口謹一郎が生まれました。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られています。東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長。日本学士院会員。愛称は「坂謹(さかきん)」。微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明した他、文化面では新春歌会始の召人も務め、歌人としても知られました。主著は『古酒新酒』(講談社、1974年)。1994年12月9日に87歳で死去。
1906年、実業家、技術者の本田宗一郎が生まれました。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。従業員からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていましたが、一方でともに仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べています。作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴ったりしていました。1991年(平成3年)8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没。
1911年、実業家の鹿内信隆(しかない のぶたか)が生まれました。早稲田大学を卒業した1936年には、当時早稲田大学教授で東京日日新聞の副主筆も務めていた阿部賢一の斡旋で倉敷絹織(現在のクラレ)に入社。兵役からの除隊後の1943年、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の経済同友会創設に参画。戦時中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが1948年4月の日本経営者団体連盟(日経連)設立に至ります。1954年のニッポン放送設立に加わり、1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビを開局させました。1961年、ニッポン放送社長に就任。1963年、同局社長。フジテレビ社長時代の1968年、産経新聞社社長に就任しました。1969年、箱根 彫刻の森美術館館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持ちました。1974年、郵政官僚出身の浅野賢澄に社長職を譲り、自らは会長に就任。また、ニッポン放送社長を同郷の後輩である石田達郎に譲りました。1990年10月28日、78歳でその生涯を閉じました。役員を務めていた会社には労働組合を作る事はおろか存在も認めず、作ろうとする者には解雇・配転という形で妨害行為を行っていました。1973年、サンケイ紙上に論評欄「正論」登場。右派・タカ派知識人を総動員して反共・国家主義を提唱しました。
1929年、作家・ルポライターの五島勉(ごとう べん)が生まれました。本名は後藤力(ごとう つとむ)。五島が祥伝社の伊賀弘三良に「10人の預言者を扱った企画」を持ち込んだところ、伊賀がノストラダムス1本に決定。これを受け、五島は1973年(昭和48年)に『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)を執筆。この本は、オイルショックや公害問題の顕在化による社会不安を背景に250万部の大ベストセラーとなり、映画化もされました。私は獣医大学を受験した際に、面接の待ち時間にこの本を興味深く読みましたが、「これはホラだろう」と確信しました。地下鉄サリン事件など一連のテロ事件を起こしたオウム真理教は、五島が紹介した形でノストラダムスの大予言を信じ込んでいて、それが彼らの終末観を促進したという見方もあります。後年同書にはフィクションも多数挿入されている事が判明して批判を受けることとなります。なお、五島は集英社社員の息子が社内でいじめを受け1988年(昭和63年)頃に退社したため、無職の息子を養う必要から延々と『大予言』シリーズを書き継いだと『噂の真相』では報じられました。「1999年人類滅亡」については、1999年(平成11年)7月1日付の朝日新聞(夕刊)の取材に対し、予言は警告であって人間の意志によって回避可能なものだったとした上で、心を痛めている読者がいる場合には謝罪したい旨コメントしています。しかし、2000年(平成12年)末の『週刊朝日』の取材に対しては、NATO軍がユーゴスラビアの中国大使館を誤爆したことを引き合いに出し、外れていないと主張。さらにアメリカ同時多発テロ事件が起こったあとは、恐怖の大王は2年ずれたが、あの事件の予言だったという主張で一貫させるようになりました。居直り猛々しい人であります。
1929年、俳優、声優の納谷悟朗が生まれています。代表作に『ルパン三世』シリーズ(銭形警部役)があります。洋画ではクラーク・ゲーブル、チャールトン・ヘストン、ジョン・ウェインの声の吹き替えを担当。1951年に劇団東童入団。役者デビューは舞台『宝島』。1955年劇団「稲の会」設立に参画。1957年劇団現代劇場。1959年、熊倉一雄に誘われてテアトル・エコーに所属。日曜洋画劇場で2012年5月28日に収録した『インセプション』の吹き替え収録後体調を崩し入退院を繰り返していましたが、2013年3月5日、慢性呼吸不全のため千葉市内の自宅で死去。83歳没。
1934年、劇作家、小説家の井上ひさしが生まれました。上智大学在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始めます。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一、関敬六、長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場でした。山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となります。お茶の間の人気者として台頭しつつあったてんぷくトリオのコント台本を数多く手がけてもいます(これらの作品は「コント台本」として出版されています)。1969年に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げました。1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げています。第1回は1984年4月5日の『頭痛肩こり樋口一葉』でした。妻へのDV(家庭内暴力)は有名。小説の代表作は『吉里吉里人』。戯曲も趣向を凝らしたものが多いのですが、「けっきょく井上ひさしの代表作は『ひょっこりひょうたん島』に尽きる」という声もあります。2010年4月9日に75歳で死去。
1936年、俳優の井川比佐志が生まれています。1955年に東京都立千歳丘高等学校を卒業後、俳優座養成所に第7期生として入所。後に行動をともにする田中邦衛とは同期。1958年、俳優座の座員に昇格。1962年、安部公房原作・脚本、勅使河原宏監督の『おとし穴』に主演して注目を浴びます。1973年に俳優座を退団、田中らと「安部公房スタジオ」の旗揚げに参加後、現在はフリー。1968年にはテレビドラマ版『男はつらいよ』で諏訪博士役を演じ、ドラマは人気となり一躍知名度を上げました。
同じく1936年、俳優、司会者の山口崇(やまぐち たかし)が生まれました。NHK俳優養成所、劇団三十人会、劇団俳優小劇場ののち、1974年に小沢昭一、加藤武、山谷初男らと芸能座を結成(1980年解散)。『天下御免』で主人公・平賀源内を演じ、「平賀源内 = 山口」といえるほどの当たり役となりました。1970年から、30年近くに渡って『大岡越前』では徳川吉宗役を演じました。俳優業の傍ら、『クイズタイムショック』で1978年に降板した田宮二郎と交代して2代目司会者となり、前任の田宮よりもさらに明るく親しみやすい語り口・ユーモアも交えた名司会ぶりで人気を集め、1986年3月27日放送まで同番組の司会を務めました。民話や邦楽にも造詣が深く、ドラマや舞台で三味線・琴・鼓などを披露をしています。近年は、長年のライフワークであった、民話研究家としての活動に比重をおいています。また、長唄では人間国宝七代目杵屋巳太郎に師事し、本人も名取で杵屋 巳楓として活動しています。
1939年、歌手、俳優の内田裕也が生まれました。1959年に日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー。以降、内田裕也とザ・フラワーズのヴォーカリスト、フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活動し映画出演や映画監督なども手掛けています。また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当しました。映画の代表作には他に『水のないプール』『十階のモスキート』『魚からダイオキシン』などがあります。口癖は「ロケンロール」。妻は俳優の樹木希林。娘は内田也哉子。内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当たります。後進のロックグループを売り出したオフィスに乗り込み、安岡力也(ホタテマン)を用心棒に付け、延々と演説をした後に金一封を受け取るのが、人生後半の主な収入源であったと推測されます。2019年3月17日に79歳で死去。
1942年、アメリカの映画監督、マーティン・スコセッシが生まれました。代表作品は『タクシードライバー』『レイジング・ブル』『キング・オブ・コメディ』『グッドフェローズ』『カジノ』『ギャング・オブ・ニューヨーク』『アビエイター』『ディパーテッド』『ヒューゴの不思議な発明』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』『沈黙 -サイレンス-』。ロックの最盛期に青春時代を過ごしたこともあり、ザ・バンド、ローリング・ストーンズ、ヴァン・モリソン、ボブ・ディラン、エリック・クラプトンなどの楽曲をしばしば作中に使用ています。
1944年、ミュージシャン、俳優のデイヴ平尾が生まれました。エディ藩、マモル・マヌー、ケネス伊東、ルイズルイス加部と「ザ・ゴールデン・カップス」を結成し、リーダーとなりました。このバンドはメンバー全員がハーフであるというのを売り物にしていましたが、それは詐称です。俳優としてテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年:TBS)に出演したこともあります。テレビの音楽番組出演やライブ活動を精力的にこなしていましたが、2008年11月10日、食道がんの療養中に心不全で急逝しました。63歳没。
1949年、ヴォーカルデュオ「じゅん&ネネ」のJun(旧名.千秋じゅん)が生まれています。このデュオは1968年に結成、1972年に解散。2003年12月再結成活動開始。『愛するってこわい』は80万枚の大ヒット曲に。現在でもソロ、そして「じゅん&ネネ」で活動中。
1950年、解散した漫才コンビ「星セント・ルイス」の星ルイスが生まれました。1980年代、漫才ブームをリードする存在として活躍し、「田園調布に家が建つ!!」などのギャグを取り入れて人気を集めました。しかし、セントの体調不良をきっかけとして2003年にコンビを解消。その後のルイスは俳優、司会などソロ活動を行っていました。2004年には、NHK大河ドラマ『新選組!』にも出演しています。2005年3月7日に体調不良を訴えて入院しましたが3日後の3月10日、肺癌により56歳で死去。相方のセントも前年(2004年)に同じ肺癌で逝去しており、セントの後を追うような形となりました。
1951年には漫画家、イラストレーターのひさうちみちおが生まれていますが、私は見かけたことがないのでコメント不能。俳優としても活動していたらしいですが。
1959年、女優の小野みゆきが生まれました。1979年、資生堂化粧品のキャンペーンガールとしてデビューし、その後は女優として映画(『トラック野郎・熱風5000キロ』『戦国自衛隊』など)、テレビ、舞台で活躍。1990年代後半以降は未入籍の母となり、日本国外で育児に専念しています。
1966年にはフランスの女優、ソフィー・マルソーが生まれました。『ラ・ブーム』の主役でデビューし、一躍トップ・アイドルとなりました。続編『ラ・ブーム2』でセザール賞最優秀新人女優賞を受賞。 1984年『フォート・サガン』でジェラール・ドパルデュー、カトリーヌ・ドヌーブと共演。 1985年『狂気の愛』は後にパートナーとなるアンジェイ・ズラウスキーとの初の作品。1986年『デサント・オ・ザンファー 地獄に堕ちて』で『ラ・ブーム』の父親役と歳の離れた夫婦を演じます。1988年に『ラ・ブーム』と同じ監督で『スチューデント』、また『ソフィー・マルソーの愛、革命に生きて』でカブールにおける国際ロマンチック映画祭最優秀ロマンチック女優賞を受賞。1991年にはEurydice で舞台に挑戦、モリエール賞の最優秀新人女優賞を受賞。娯楽性の強い1993年のコメディ映画『恋人たちのアパルトマン』や1994年の『ソフィー・マルソーの三銃士』はヨーロッパやそれ以外でも人気を博しました。同年、舞台にも復帰し『ピグマリオン』でイライザを演じました。後には英国に進出したり、監督業もつとめています。
1968年、漫才コンビ「ますだおかだ」の岡田圭右(おかだ けいすけ)が生まれています。「昭和の芸人」と呼ばれるように、「古い」(ツッコミが単語、大声、オーバーアクションなど)芸を使います。漫才ではツッコミ担当ですが、時々笑いを取ろうと一発ギャグをしますが、いつも空回りで滑ります(それを増田が放置して笑いを取るなどのパターンにつなげます)。ただし本人は、スベるのも芸風(すべり芸)だと言い、ボケの増田英彦もあえて滑るツッコミをさせるネタもあります。主なギャグは「パァ」「パカッ」「閉店ガラガラ」「出た!」「ウワオ!」「コラー」「バカー」「アータ」「アータネー」「チリンチリ〜ン(自転車のベルの音)」「卓球の音」「ハンドスコープ」「ピョン」。
1969年、俳優の木村一八(きむら かずや)が生まれました。漫才師の横山やすしの長男。テレビドラマの『毎度おさわがせします』(1985年、TBS)の主役に抜擢され、中山美穂と共演。一躍アイドルとして人気者となりました。1988年11月、俳優として順風満帆だった19歳の時、遊び仲間と飲酒後、タクシー運転手に対し一方的に暴行を加え続け、傷害容疑で逮捕されました。遊び仲間と飲酒後、六本木の路上でタクシーを停めようとしましたが、乗車を拒否されて立腹。直後に停車した別のタクシーに八つ当たりをし、車体を傷つけました。驚いて声をあげた運転手(先に乗車拒否した者とは別人)に因縁をつけ、路上に引き摺り出し暴行を加えます。仲間が嘲笑しながら煽った言葉に高揚し、執拗なまでの暴行を加え続け、運転手を脳挫傷に至らしめました。一八は勝ち誇った表情で「こいつが死んだら俺がムショ(刑務所)へ行ったらええんやろっ!大したことあらへん!」と叫び、仲間は歓喜の声を上げ、拍手までしていたとの目撃情報が多数あり、マスコミはそれを報じました。未成年者の一八が逮捕されたこの事件は父親・やすしや吉本興業をも巻き込むだけに留まらず、社会問題にまで発展しました。
父親のやすしは、暴行事件報道直後にマスコミの取材を受け「教育方針が間違っていたのではないか。しつけが甘かったのではないか」と質問したテレビ局の女性レポーターに対し、「ちょっと待てや姉ちゃん。俺は子供のしつけに厳しかったぞ」、「男は喧嘩するぐらいが丁度ええ」と開き直り、謝罪の姿勢は見られませんでした。まさにこの親にしてこの子ありです。その後ようやく喧嘩ではなく一方的な暴行であったと知り、父親として「いくらかわいい息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に合わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン」、「自分の教育が間違っていた」と謝罪しました。また、それまでも撮影所や繁華街で起こしていた問題(デビュー前からの飲酒・喫煙・喧嘩、加えて、デビュー後は現場に現れない・二日酔いのまま撮影に臨む・途中で勝手に帰る・女性スタッフへのセクハラなどがある)がありました。その後、やすしのほうも飲酒運転事件を起こし、親子ともども吉本から去るはめになります。一八はその後、吉本に復帰しますが、再び独立しました。
レスラー、プロボクサーなどまだ何人かいますが、今回は省略させてもらいました。

忌日のほうのアップはちょっと後になります。
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