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2019年11月14日00:54

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11月14日が誕生日である人々

1630年(寛永7年)、本草学者、儒学者の貝原益軒が生まれました。1657年(明暦3年)、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学びます。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深めました。1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂しました。70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270余巻に及びます。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』、『家道訓』。紀行文には『和州巡覧記』があります。思想書としては、1712年(正徳2年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがあります。1714年10月5日(正徳4年8月27日)に死去。
1765年、アメリカの技術者、発明家のロバート・フルトンが生まれました。世界初の潜水艦であるノーティラスを設計したり、ハドソン川で蒸気船の実験と実用化に成功したことでも有名です。1810年頃作成した機雷は最初の係維式触角機雷で、最初の近代的機雷といわれています。1815年2月24日に死去。
1797年、イギリスの地質学者、法律家のチャールズ・ライエルが生まれました。『地質学原理』の著者として知られ、近代的地質学の基礎となる斉一説を広めた人物。チャールズ・ダーウィンの友人でもあり、彼の自然淘汰説の着想にも影響を与えました。1875年2月22日に。月と火星にあるライエルクレーターの名は、チャールズ・ライエルへの尊敬の念を込めてつけられたものです。
1840年、フランスの画家、クロード・モネが生まれました。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になりました。1890年代になってようやく名声が確立。1900年までの『睡蓮』第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図でしたが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909年の『睡蓮』第2連作の個展に結実しました。最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面しましたが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭し、1926年12月5日、86歳で最期を迎えました。
1863年、ベルギー生まれのアメリカの化学者、発明家のレオ・ベークランドが生まれました。世界で初めて植物以外の原料より、人工的に合成されたプラスチック(合成樹脂)、「ベークライト」を発明、工業化に成功し、「プラスチックの父」とよばれます。1944年2月23日に死去。
1889年、インドの初代首相、ジャワハルラール・ネルーが生まれました。インド国民会議議長。インド独立運動の指導者。インド国民会議派の一員としてマハトマ・ガンディーとともにインド独立運動の最も著名な指導者となり、1947年に独立を達成したインドの初代首相に就任しました。国際政治では非同盟運動を提唱し、「第三世界」の中心的人物として注目されました。内政では民主主義体制を堅持して政教分離を唱え、国内の経済政策では社会主義を唱え計画経済を推進しましたが、成功を収めるには至らず、晩年に行き詰まりを見せる中、1964年5月27日、心臓発作により死亡しました。
1891年、カナダの医師、医学者のフレデリック・バンティングが生まれました。1921年にインスリンを発見し、糖尿病に対する有効な治療方法の開発に繋がりました。この業績により、1923年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。私も経験ありますが、インスリンは患者が自分で自分に注射するものです。1941年2月20日夜、イギリスに向かうために乗った飛行機(ロッキード ハドソン、T9449)がニューファンドランド自治領のニューファンドランド島で墜落して重傷を負い、翌日息を引き取りました。
1917年、韓国の政治家、軍人の朴正煕(パク・チョンヒ)が生まれました。職業軍人でしたが、1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)を務めました。彼の時代から約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現されて韓国は世界最貧国の層から脱したと評価されます。一方で1972年の改憲で大統領任期と重任制限を撤廃することで永久執権を図ろうとし、また民主化運動をスパイ操作・司法殺人などで弾圧したとして「独裁者」との批判的評価も受けています。 1979年に側近の金載圭によって暗殺されました。次女は第18代大統領の朴槿恵(パク・クネ)。
1924年、相撲からプロレスに転向し、日本に一大ブームを巻き起こした力道山光浩が生まれました。長崎県の警察官の息子ということにされていますが、実は北朝鮮の出身だというのは誰もが知るところです。アメリカからシャープ兄弟を招聘し、熱狂的なプロレスブームを巻き起こしました。他団体を壊滅させ、プロレス人気に陰りが出ると、一流外国人レスラーを大量に来日させ、「ワールドリーグ戦」という催しで再びプロレス人気を盛り上げました。マンション経営やゴルフ場への投資など、事業面にも欲を出しましたが、逝去した後にはたいした財産は残っていなかったそうです。赤坂のクラブ「ラテンクォーター」でヤクザに刺され、入院後の過ごし方にも問題があったらしく、1963年12月15日に死去しました。年齢をだいぶ若く偽っていたようです。
1927年、スペインのギター奏者、作曲家のナルシソ・イエペスが生まれました。1952年に、パリのカフェで映画監督のルネ・クレマンと偶然知り合い、「映画自体はすでに撮ってあるが、どんな音楽をつけたらよいか決めかねているので、映画のための音楽を担当してほしい」と監督から依頼を受けます。当初、アンドレス・セゴビアに音楽を担当してもらう予定でしたが、すでに映画制作の為の予算を使い果たしており、セゴビアとは制作費の折り合いがつかず、当時まだ新人であったイエペスに音楽担当の依頼をする事となりました。 そこで、24歳のイエペスは映画『禁じられた遊び』の音楽の編曲・構成、演奏を1本のギターだけで行いました。これがギター初心者の必須曲となりました。コード(和音)の概念のない音楽的にも貧しい団塊の世代は、コードストロークという奏法を知らず、あくまでもメロディーだけで音楽をとらえているので、このイエペスに代表される奏法は必須です。1997年5月3日に69歳で死去。
1932年、ジャズピアニスト、作曲家、編曲家の八木正生が生まれました。戦後、築地の「クラブ・リオ」、米軍立川基地などで演奏。武満徹・渡辺貞夫らとともに日本のジャズ創世記に活躍。1960年代から『網走番外地』シリーズなど、東映の映画音楽をメインに作曲を手がけていましたが、1976年の千葉真一主演映画『脱走遊戯』では、自らのベースであるジャズのみで映画音楽を制作しました。『あしたのジョー』の主題歌の作曲は有名です。他にデューク・エイセスの1970年代中盤から作・編曲 コンサートの音楽監督としても携わったことでも知られています。サザンオールスターズの楽曲にアレンジャーとして1980年から1985年の間に参加し、彼らの音楽観にも影響を与えました。ジャズピアニストとしては、ピアノソロはそう大して面白いものではありませんが、バックに回ってソロイストを鼓舞することでは定評があり、ジャムセッションなどでは真価を発揮していました。1991年3月4日、死去しました。
1939年、自動車評論家の徳大寺有恒(とくだいじ ありつね)が生まれています。免許を持たない私でも彼の名前はよく知っています。「NAVI」(二玄社)や「ベストカー」(三推社)、「ENGINE」(新潮社)などの自動車専門誌や「MEN'S EX」(世界文化社)などの男性ファッション誌、テレビ、新聞、各種講演などを中心に幅広いジャンルで活躍していたからです。主著は『間違いだらけのクルマ選び』。徳大寺有恒の名前は、「できるだけ偉そうにしよう」と決定したペンネームで、公家の徳大寺家とは関係ありません。若い頃はレーシングドライバーでもありました。2000年代に重度の糖尿病に罹患しました。2014年11月7日、急性硬膜下血腫のため死去。74歳。
1946年、俳優、タレントの阿藤快(あとう かい)が生まれています。旧芸名は「阿藤海」、本名は阿藤公一(あとう こういち)。劇団俳優座、舞プロモーションを経て、 ボニート合同会社 (Bonito LLC)に所属していました。悪役などのドラマ出演等の俳優活動に加え、グルメ番組でのリポーター役・旅番組での案内役を担当。特に「なんだかなー」の名ゼリフは頻繁にモノマネに起用されるなど、有名でした。2015年11月15日、仕事先に姿を見せなかったため、午後2時頃に所属事務所スタッフと家族が自宅を訪ねたところ、ベッドに横たわって亡くなっているのが発見されました。発見時より病死とみられ、その後、胸部大動脈瘤破裂が正式な死因とされました。69歳没。奇しくも69歳の誕生日を迎えた日に亡くなりました。
1948年、イギリスの王族、チャールズ皇太子(チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ)が生まれました。王位の法定推定相続人で、第21代ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)。なにせ母親のエリザベス女王が長命のため、この齢になっても皇太子のままです。後に妃となった故ダイアナに求婚したときは「冗談かと思った」と笑っていたそうです。
1952年、コメディアンのすわ親治(すわ しんじ)が生まれました。ザ・ドリフターズの付け人(ドリフ見習いとも)で「第六の男」とも言われ、ドリフが新宿コマ劇場でショウを開催したときは、歌を歌うなどのフィーチャーもされていました。リーダーのいかりや長介から「いよいよだ。身辺整理をしておけ」と何度も命じられましたが、とうとう正式メンバーになることはありませんでした。ドリフ脱退後は、しばらく水道会社に勤めていました。そのサラリーマン時代に工事用の手押し車(ネコ車)ダンスのギャグを密かに開発し、芸能界に復帰。復活後の芸名を「すわ親治」に変更します。コントグループ(正式には「劇団」)ザ・ニュースペーパーに参加。一時期はリーダー的存在でもありました。
1955年、元競輪選手で現在はタレントの中野浩一が生まれています。世界選手権個人スプリント10連覇、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している世界的スーパースター。私と同い年、同学年の昭和30年生まれで、芸能界、スポーツ界、梨園(歌舞伎界)に多い同年齢の筆頭的存在。現在は公益財団法人JKA特別顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、公益財団法人日本自転車競技連盟理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント(浅井企画所属)。TBSラジオで冠番組も持っています。
1963年、女優のあめくみちこが生まれています。夫は佐藤B作(2001年結婚。所属劇団主宰者)。『オレたちひょうきん族』に「薬師丸ひろ子のそっくりさん」として出演してブレイク(あまりにも似ていたため、本人と勘違いしていた視聴者もいたと言われています)。舞台では三谷幸喜作品の常連出演者(同劇団の佐渡稔も常連)。 角野卓三が月に一回くらいの頻度で主宰し、伊東四朗・佐藤B作・松金よね子・市川勇らが参加する飲み会「西荻の会」の常連メンバー。
1970年、アメリカ生まれの日本のお笑い芸人、パックンことパトリック・ハーランが生まれています。吉田眞と結成したお笑いコンビ「パックンマックン」のボケ役(ただし英語ではツッコミ役)。ハーバード大学卒業と言うたいへんなインテリ。ただし自身は比較宗教学部出身であることを「たいして役に立っていない」と言っています。株式投資をしていたり、知識も豊富で日本語が達者なので、ピンでコメンテーターとしても活躍しています。…って言うか、私、マックンって見たことも聞いたこともない(笑)。
1985年、TBS所属のアナウンサー、江藤愛が生まれました。「天領の町、町人の町」大分県日田市の出身。ゴマアザラシが好きなことから、ラジオで共演している爆笑問題の太田光から「ゴマちゃん」と呼び掛けられると、「キュー」と答えるのが定番。本当に人の好さそうな顔をしています。

野球に詳しくないので、小林繁を割愛したのはご勘弁を。
では忌日。

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