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2019年10月29日21:57

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このサイトに嵌まってますPart0043

 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生894日目、「極東戦域核戦争」開戦848日目、「人民の天皇論」宣撫開始183日目(怒)。〔再掲〕日本法制通史概論その13。「気合」はコレくらいにして続いてこの7日後に書いたのが「法の君主論」第4弾「チャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)編 」。〔2018年02月19日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0078


 さてと、「人民の天皇論」に対する「対抗プロパガンダ」の構築急ぎますか。しかーーし!「絶海(鎖国)時代編」超絶難航中<(T^T)>。某博士と違って元々頭が悪いオタッキーが「無理を承知」をやってるんでダッチロールの連続(ToT)。だーーーー、少しは「仕事」しろよ東京大学史料編纂所(怒)!、自称公共放送を名乗る国賊放送局で「デマ宣伝」ばっかりしてないで、し・ご・と・し・ろーーーーーーー(激怒)!大体、なんで本来お前らがやるべき仕事をゴミ箱部屋のオタッキーがやってると思ってんのよ(怒)?


本郷和人やら、山本博文やら、酒井信彦やら、うんざり(-_-;)。うんざりだよ(ToT)!


莫大な国費つかって「国難」知らんぷりか?税金ドロボーーーーー(怒)!司法が正常なら「お巡りさんこいつです」ってよっぼと言いてえや(ToT)。ぐぞーーーーーー(ToT)(ToT)(ToT)。ふーーー、嘆いてないで話を進めよう(怒)。超絶難航中の「絶海(鎖国)時代編」まず判ってることを確認するところから始めよう。まず、最初は


1、10世紀半ば日本は韓半島からの撤退政策を完了し、遣唐使を廃止してチャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)上の「絶海」に自国を置いた(鎖国した)


ってこと。わかってない人が多いと思うから少しチャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)について解説しておこう。これ判らないと古代日本人がどれほど之で「苦悩」したかが分らなくなっちまうからな(-_-;)。迫りくるチャイナ独裁政権との「対決」でも絶対必要な「知識」だ。まず、みんなビックリするかも知れないけど書いておく


チャイナ諸王朝は本質的に「属人組織」である


ってことを。だから、あの強大な唐王朝が突然「周王朝」になってこれまたすぐ唐王朝に戻るなんてあっけ( ゚o゚)にとられる「珍事」がしょちゅうおこるわけだ(笑)。忘れてはいけない日本においてはまず「日本国」という「場」があってその中に「天皇」が君臨するという「法」があるわけだが、


チャイナにおいてはまず「皇帝」が君臨し、その「支配領域」をチャイナと「定義」する


のさ。これが「チャイナ帝国」というものなの(-_-;)。文字道理どんな「出鱈目」でもやったもん勝ちだわな(怒)。外人が「皇帝」としてチャイナに君臨することも、外国を占領してその国をチャイナと「定義」することも「自由自在」さ。世界が絶句するユーズー無碍な「チャイニーズ・ロジック」というのは之に由来する。まさに「君子豹変」するってわけだ(黒笑)。なぜそうなったのかについてはロシア東欧史で少し触れた「文明の乗っ取り」や繰り返された「民族大移動」などの複雑な要素を文化史を主体に時系列的に丹念に追わないといけないのでここでは割愛する。ま、時間があったら後で少し書くよ。結果、


文化人類学的な地理的呼称としての「チャイナ」とチャイナ諸王朝の「支配領域」は常に乖離する


ようになった。ほぼ、一致していたのは「北宋」王朝時代くらい?軍事的情勢の変化によって呼吸する肺みたいに拡大と縮小を繰り返した挙句にチャイナ諸王朝はその支配領域を実に複雑な


「階層的秩序」によって統治する手法を編み出したこれがチャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)だ。


時期的にかなり相違がありチャイナ官僚制の形式とも相まって主として4つの時期に分類できるのだがそれは置いといて、最終バージョンの「清」帝国時代の形式を元に説明しよう。「清」帝国はチャイニーズの国家・王朝ではない、あくまで満州・蒙古二重帝国がチャイナ全土を「植民地化」して出来た国家だ。それだけに逆に「制度」がよく分る。「階層的秩序」の分類は以下のとおり


1、天領  満州全土を指し「皇帝」個人の私有地。旗本に当たる旗人(満州人)に「皇帝」が土地を封建し「祖廟」を守らせる事実上の無人地帯。

2、藩部  蒙古、ウイグル、チベット等、満州「皇帝」を自国の君主と頂く「同君連合」諸国。内政自主権を持ち、外交権を帝国政府に委任し有事には徴兵動員され従軍する義務を負う。

3、省部  チャイナ本土。満州帝国の植民地。満州「皇帝」が兼務するチャイナ皇帝として官僚を使って直轄統治する。

4、藩王国 植民地の一部を功臣に分与して建国させる封建国家。ほぼ全て後に取り潰される。

5、土司  難治の地方の豪族を官位・金品で懐柔して創る部族国家。土司をおく事を羈縻政策という。

6、冊封国 いわゆる臣従した属国。定期的に朝貢する義務を負う。待遇は千差万別。

7、入蕃国 いわゆる朝貢国。交易目的で不定期に朝貢する国々。

8、絶海国 チャイナ式朝貢秩序を認めない無関係国。


後もう一つ。チャイナ諸王朝を武力で屈服させた国々があるのだが、これには「名称」が無い。チャイナ国内では屈服の事実を「隠蔽」して5、土司の一種として取り扱うのが通例だ(苦笑)。法制通史概論で記述したファースト・チャイナ帝国を滅ぼした南フン族は上記の分類では2、藩部にあたる。古代の日本の対チャイナ外交は


1、紀元前60年に絶海国としていや絶海国になるために建国され
         ↓
2、238年に卑弥呼か朝貢して入蕃国になってみたらあまりに内政干渉が酷いので
         ↓
3、266年に対魏断交して絶海国に戻ったが
         ↓
4、413年に半島戦線の休戦斡旋のために渋々南朝に臣従し冊封国となったが
         ↓
5、513年にあまりにも南朝が役立たずなんで断交して絶海国に戻り
         ↓
6、600年にチャイナ・高句麗戦争の勃発を契機に対チャイナ対等外交を挑むも
         ↓
7、894年に高句麗の半島制圧を契機に対等外交を諦め対唐断交して絶海国に戻った


ってわけ。日本が建国以来ずーーーーーーとチャイナと「対等外交」を求め、ずーーーーーーと失敗し続けてきたのがよく分るだろう(怒)。ちなみに建国の夢「対チャイナ対等外交」を勝ち取ったのは対唐断交の977年後の1871年の日清修好条規で、「対チャイナ対等関係」を勝ち取ったのは1001年後の1895年の下関条約(日清戦争講和条約)だ。


リアルにちょーーーーど1000年かかったわけだ(笑)。


冗談のような「ホントの話」。少し話が斜め45度ほどズレたので修正修正。日本の建国の原義が「対チャイナ対等外交」にあったことが判って貰えただろうか?父祖たちはこれを熱烈に求めた。そして「失敗」し続けた。悲しい話だが当時、政治・軍事・経済・文化・技術の全ての分野で俺たちは圧倒的に「絶対劣位」にあった(ToT)。だが、父祖たちは決して諦めなかった。実に1000年の時間をかけてひとつ、またひとつとしらみつぶしにすべての条件をクリアしていった。


この「緊張感」が理解できなければ「国史」は決して理解できない(怒)。


いうなればこれは我等が父祖たちが「祖国」の「真の意味」での「独立」を求めてそれを勝ち取っていく「物語」なのさ。それでは父祖たちがそれをどうやって勝ち取っていったのかについてはまた次回語ろう。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。はーーー、ゼロかい、ゼロなのかい(ToT)。

「対等外交」

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現代チャイナは「コレ」↑を極東区域を中心に再建しようとしている。なのに分かってる奴少なすぎ(-_-#)。今の日本で「対抗策」練ってるの俺だけだもんなーーホント泣けてくるわ<(T^T)>。具体策は中共批判分析「〔緊急連載〕大陸共匪(チャイナ共産党)「解体・真書」」に譲る(怒)。次いでこの5日後に書いたのが「法の君主論」第5弾「承平天慶(平将門・藤原純友)の乱編 」。〔2018年02月24日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0080


 さてと、本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生282日目、「極東戦域核戦争」開戦236日目(怒)。「人民の天皇論」撲滅のための対抗プロパガンダ「法の君主(立憲君主)論」始めますか。前回、チャイナの野蛮な「中華思想」とチャイナ帝国の基本構造を語った。そして、建国以来それに苦しめられ続けた父祖たちの足取りを追った。今回はどう「対等外交」を勝ち取ったのかの「始めの一歩」を語ろう。まず、この年表を見てほしい。


922年   後百済王国が日本に救援を要請して拒否される。

926年10月 後百済王国が新羅の首都・金城を攻略。高麗王・王建を大破する。

926年   後百済王国が再び日本に救援を要請して拒否される。

930年   後百済王国が古昌郡の戦いで高麗王・王建に大敗する。

935年   後百済王・甄萱が太子・甄神剣の廃嫡に失敗して王位を奪われる。

935年 6月 前後百済王・甄萱が新羅王と共に高麗王・王建に降伏。

936年 6月 後百済王・甄神剣が父・甄萱の手引きした高麗王・王建に滅ぼされる。

936年頃  藤原純友が海賊を組織する。

938年 5月 出羽天慶の乱、俘囚が反乱す。

939年 2月 平将門が叛乱を起こす。

939年12月 藤原純友が播磨・備前の受領を襲撃する。

940年 1月 駿河国にて「群盗」騒擾する。

940年 2月 平将門が戦死する。

940年 2月 藤原純友が本拠を捨て大宰府を占拠。

940年 5月 藤原純友が官軍の攻撃を受け博多湾にて大敗逃亡する。

941年 6月 藤原純友が逮捕され獄死。


これは偶然だろうか?サムライ勃興の端緒となった「承平天慶の乱」の「すべて」は後百済王国滅亡の「5年以内」に起こっているのだ。ちなみに半島の「後三国時代」は日本が「鎖国(遣唐使の廃止)」する2年前に叛乱が始まり6年後に次々と建国された。之が偶然か?はっきり書こう。



「承平天慶の乱」とは秘密裏に支援していた後百済王国を潰された「帝国派」の「王国派」に対する叛乱劇


だったのだと(-_-;)。そう考えなければ「承平天慶の乱」は決して理解できない。大体、みんな奈良時代・聖武天皇の御世に日本が半島に出兵していた「事実」をどう考えているんだ?韓国側の資料には明記されていることだぜ。「軍船300隻」との記載からほぼ兵力は1万5000程だっただろう。「帝国派」と「王国派」の対立葛藤の視点なくしては「壬申の変」をはじめあの複雑怪奇な


「天智朝」VS「天武朝」


の対立なんか説明できるわけが無い(怒)!はっきり書けば「天智朝」は親新羅の「王国派」、「天武朝」は親百済の「帝国派」だ。藤原純友が滅ぼされたとき「帝国派」が壊滅し、「王国派」が最終的な勝利を手にしたのさ。仁徳朝の滅亡と継体朝の勃興にもこの視点が不可欠だ。「継体朝」は親新羅の「王国派」、「仁徳朝」は親百済の「帝国派」。そう考えると見えてくるんだよね。サムライの勃興とは実は二つの「古代種族」の復興劇であることが(黒笑)。その種族の名を


「もののふ」と「つわもの」


と呼ぶ。それを理解するには少し時間を遡って仁徳朝に始まる二種族の興亡とその復興劇「サムライ勃興」に対する歴史学的・法学的な意味合いを解説しなければならない。その話はまた次回語ろう。


PS、ふーーーーー、今回、我ながら「酷い悪文」になってしまった(-_-;)。読みにくくて御免なさいm(_ _)m。古代編は「法制通史概論」でかなり時間をかけて検討していたんで一気に書けたが。中世編は「アイディア」が先走って、うまく纏まってないので本当はも少し「分析」と「検討」の時間がほしいのだが、現況、立ち止まっている時間はほぼ無い(ToT)ので悪文承知で今後も進め、順次まとまったところから「清書」がわりに「チャート」していくことにします。ほんとーーに、御免なさいm(_ _)m。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。

「勃興」

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みんな歴史学びたいなら「年表」ぐらい読もう(-_-;)。日本の「承平天慶(平将門・藤原純友)の乱 」と韓国の「後三国時代」はピッタリ計ったように上記「同時代」(怒)。これの「因果関係」を論考できないなら「歴史」論考するのは「無理」(-_-#)。日本人の「自称・歴史学者」は「因果律」ガン無視して、「ドグマ」による「捏造」と「隠蔽」に精出す「腐れ儒者」もどきの「共産党系プロパガンテイスト」ばっかり(怒)。いずれ小室直樹批判でその


「予定調和論(運命概定説)」に基づいた「プロパガンダ手法」を徹底的に暴く(黒笑)。


話がずれた元に戻す。「歴史」という「文化」は「時系列」に置ける「因果関係」を主として「文献学」的に追う「学問」(-_-;)。コレが分からない人は「エンタメ」行ってくれ(-_-#)。そんでこの4日後に書いたのが「法の君主論」第6弾「桓武封建編 」。〔2018年02月28日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0081


 さてと、本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生286日目、「極東戦域核戦争」開戦240日目(怒)。「人民の天皇論」撲滅のための対抗プロパガンダ「法の君主(立憲君主)論」構築中だが、絶海(鎖国)時代史だーーーーーこんなん分るか(怒)!


ただいま、絶賛悶絶中<(T^T)>。


時間があれば、なんとか「まとめ」られそうだが、絶望的に時間が無い(ToT)。新帝即位時に必ず宣撫される「人民の天皇論」に対抗するのにあと14ヶ月ってドンだけ過酷なスケジュールなんだよ(-_-#)。敵は莫大な国家予算使って実に100年の時間をかけて準備してきてるのに、こっちは兼業・単独ぜーーーんぶ持ち出し、それよりなによりチェック項目多すぎてホント泣きたい(ToT)。


「ウィキ」のデーターを整合させるだけで手一杯(ToT)。


ぐぞーーーーーー、胃が痛いーーーーーーー、時間が無い(怒)。これじゃ、俺の大嫌いな日本共産党ご用達の自称歴史家の網野善彦ばりの荒っぽさだが、中世史の枠組みに関する「仮説」を先行的に公表する。ちなみに網野善彦たしかに才在る男だとは思うが、調べれば調べるほどその壮絶な「悪影響」が底なしだわ(ToT)。命と時間があったら徹底的な「批判的論理分析」を施行してその「トンデモ史観」を根底から「解体」してやりたいが今はやってる暇が無い(怒)。話を元に戻す。はっきり書くね。


物部氏≒もののふ≒桓武平氏≒「帝国派」

大伴氏≒つわもの≒清和源氏≒「王国派」


だ。物部氏が中央政界の歴史記述から消えるのが804年の石上家成の死によってであり、その6年前の798年に元服した桓武平氏の祖・葛原親王が中央政界のみならず関東・九州に跨って異例の昇進を遂げたのは偶然か?同じく大伴氏が中央政界の歴史記述から消えるのが954年の伴保平の死によってだが、その6年後に多田満仲こと清和源氏の祖・源満仲が颯爽と歴史に登場し、古代大伴氏の根拠地にある摂津・住吉大社の神託により、摂津・多田盆地に入植して武士団を形成したのは本当に偶然なのか?


そうではあるまい。


タイミングまさにぴったり。これに現在「公地公民制」もしくは「均田制」とよばれている律令体制の土地制度が本質的に唐王朝が配下の「鮮卑族」兵士に対する「屯田政策」であったことを考えあわせればこれは明らかだ。それは


大和朝廷が配下の帰還氏族に行った「封建」だったのだと(-_-;)。


おれ、昔から不思議だったんだよね(苦笑)。国史に「封建」の記載が無いのに「封建時代」が始まり、「封建領主」がサムライとして台頭してくるのが(-_-;)。実はあったんだよ(怒)。インチキ歴史家が「デマ用語」で隠蔽していただけで(怒)。ちなみに封建制度は質的向上より量的向上をもたらす土地制度だが条理制の研究などから推定すると10世紀から11世紀にかけて頭打ちとなったらしい始まったのが大化の改新だから7世紀〜11世紀までが日本における「初期封建時代」と定義できると思う。日本独特の「法の表裏」問題も含めて続きはまた次回語ろう。


PS、ハプロ遺伝子解析から明らかなのに「弥生人≒朝鮮人」とする「二重構造モデル」のデマ宣伝が21世紀になっても止まらない(激怒)!東大医学部は「アホウの集団」か?データー整合的に取れてるのになぜ結論部で「全て」をひっくり返す?ほんとーーーーにアホウな連中だ(怒)。ちゃんとデーター読めばD遺伝子の分布状況から


日本人=40パーセント縄文人(古シベリア族)+60パーセント弥生人(マレーポリネシア族)


であることはすぐ分るはずだ(怒)。つまり、海幸彦(弥生人)と山幸彦(縄文人)さ。カイカイ通信で「日本人は88パーセント朝鮮人ニダーーーー」と意味不明に盛り上がってる韓国のアホ共と完全に同レベルじゃねーーーーーか(激怒)!民族集団が混血するとき遺伝形質の「密度」は必ず低下する。両国の遺伝配分見れは日本人が韓国に移民したのであって朝鮮人が日本に移住したのでは絶対にない!ちなみに韓国人は


韓国人=15パーセント渡来人(日系韓国人)+25パーセント満州・蒙古人+60パーセント扶余族(呉王国系満州人)


だ。古シベリア族は4〜5万年前にアルタイ山脈から拡大する氷河におわれて二つのエスニックグループに分断された。海岸に逃げたのが我らが父祖たる縄文人であり、15000年前北上する黒潮に乗ってやってきた弥生人と混血して倭人つまり日本人になった。西へ行ったグループは河西回廊でプロト・チャイニーズの一部と混血しながら争いから逃れるように南下してチベット人になった。そういうこと。他に読み様無いぜあれ(-_-#)。扶余族が呉王国系満州人という結論にはまだ戸惑いがあるが、呉人と古代日本人の風習の類似性を考慮し、マレーポリネシア系海洋民と考えれば突飛な話ではないと思う。ふーーーー、検討すべきことおお過ぎ。とほほ。


PSのPS、帰化人は日本国史の用語だが、渡来人は韓国史の用語。渡来人と言われたら「おれらコリアンじゃないよ」と返してやろうぜ(黒笑)。


おまけにみくしー検索かけてみました。

「封建」

新着日記検索結果一覧 (13件)


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さーてーとー、ようやく日本の「中世」たる、「絶海(鎖国)時代」のキー概念「封建」きました(笑)。コレ語らずに「サムライ」語るべからず(-_-;)。みんな、チャイナ史学とヨーロッパ史学の「カンニング」ばっかしてっからこの程度のこと判んなくなっちまうんだよ(怒)。「国史」はあくまで我らが「父祖」の「苦闘の歴史」(-_-#)。


チャイナもヨーロッパもついでにアメリカもクソ食らえだ!


ちなみにロシアは「論外」(怒)、徹頭徹尾ロシアの影響を「国史」から排除すべし!歴史「捏造・検閲」団体「歴史学研究会(歴研)」はその象徴だよ(-_-#)。「その13」はデーター量の関係から今日はここまで。まだまだ続きます。その話はまた次回語ろう。



おまけにみくしー検索かけてみました。

「朝貢」

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「もののふ」

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「つわもの」

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