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2019年08月16日11:57

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8月歌舞伎座/納涼歌舞伎(1部)・七之助の「政岡」玉三郎の指導

19年8月歌舞伎座(1部/「伽羅先代萩」「闇梅百物語」)


「伽羅先代萩」は、名作だけに、バリエーションの演目がある。例えば、「裏表先代萩」。「裏表先代萩」を私は、07年8月の歌舞伎座「納涼歌舞伎」で観ている。主役の政岡を演じたのは、勘三郎。もう一回は、去年4月の歌舞伎座。この時は、政岡を時蔵が演じている。

「伽羅先代萩」は、今回で15回目。「裏表先代萩」の2回を含めると、私は、17回の「先代萩」を観たことになる。玉三郎自身は、5回、政岡を演じている。最近では、4年前、15年9月歌舞伎座・秀山祭の舞台だった。その上で、玉三郎は、後進の政岡役者を積極的に指導している。今回の「伽羅先代萩」は、「玉三郎監修」とある。2年前の、17年5月、歌舞伎座。指導を受けたのは、菊之助。そして、今回、指導を受けたのは、七之助。二人とも、「御殿」「床下」という演目の「御殿」の場面で、玉三郎の指導を受けている。若手中堅の真女形候補の指導としては、順当な人選だと思う。今回の七之助の指導の成果はどうであったかを見る前に、玉三郎の舞台。先の菊之助の指導成果の舞台をそれぞれ思い出しておこう。

女形役者が、政岡を演じるということは、二つにケースがある。1)立女形として定評のある限られた役者が力量を見せるために演じる、2)女形として精進を重ねてきた真女形役者が、立女形への道を目指して、登龍門として挑戦するために演じる。今回、ここで取り上げるのは、2)のケース。玉三郎を軸に、菊之助と七之助を論じることになる。

私が観た政岡役者でいちばん印象に残るのは、やはり、真女形のふたり。ひとりは1回しか舞台を観ていない雀右衛門だ。雀右衛門は、全体を通じて、母親の情愛の表出が巧い。次いで、もうひとりは4回の玉三郎(玉三郎の5回のうち、私は4回観たことになる)。特に、芝居の半ばからの切り替え、母親の激情の迸(ほとばし)りの場面が巧い。

玉三郎の政岡が、我が子千松の亡がらの周りをおろおろと二度も三度も逡巡し手を出せずにいる様を描くのは、母性のなせる業だ。回数ばかりが、重要とは言えないのが、歌舞伎のおもしろさだ。雀右衛門亡き後、玉三郎の政岡を堪能するのが、この演目への敬意であろうとさえ、私は感じる。

まず、軸となる玉三郎の舞台。「御殿」での政岡は、前半では、幼君を守る「官僚」(乳人は、警護を含めた御守役、養育担当、帝王学の師匠などの役割)としての一面を強調し、後半は、千松の「実母」としての一面を強調する。政岡は、冷静で有能な官僚ぶりと抑制の果てに母親として迸る情愛の「切り替え」をどれだけ印象的に演じるかが大事だろうと思う。

玉三郎は、95年の政岡初演以来、六代目歌右衛門の指導を受けて演じて来たし、歌右衛門が亡くなってからは、工夫魂胆で、さらに、精進を重ねて来た。

「御殿」。女たちの対決。玉三郎の特徴は、歌右衛門演出と違って、人形浄瑠璃という「本行」の演出を尊重して、松島が登場しない、ということだ。政岡と八汐の対決をクローズアップし、客観的にふたりの「対決」を見ていて、八汐側に与する「女医」の小槙を「落とした」沖の井が、八汐の不正義を認めて、政岡に味方する、という構図になる。その分、ドラマチックになる、というわけだ。

玉三郎は、有能な「官僚」(乳人)としての政岡を重視する。「大切なのは乳人というものをしっかりとお見せすること。若君である鶴千代のことを思い、どれだけ生きてきたか……。そこが大事なのです」と言う。このところが、亡き雀右衛門の母性の政岡とは、印象が違うのだろう。

玉三郎は、「御殿」の前半では、子役たちを相手に、母情をベースに暖かみと規律を重んじながら、丁寧に演じる。若君にも実子・千松(若君の警護補佐官のような役回りで「飯炊き」では、毒味役に徹している)にも、「ひたすら早くご飯を炊いてやりたい」という思いを全面に押し出す。歌右衛門の演出から離れて初めて歌舞伎座で松島なき「御殿」を演じたことで、官僚の役を終えて母親に戻った後の真情吐露の演出を強めたように思われる。

「御殿」では、若君暗殺派のトップ、栄御前が消えると、玉三郎の政岡は、途端に表情が崩れ、我が子・千松を殺された母の激情が迸る。母は、腰が抜けて、なかなか,立てない。やっと立ち上がって、舞台中央に移動する。誰もいなくなった奥殿(御殿)には、千松の遺体が横たわっている。堪えに堪えていた母の愛情が、政岡を突き動かす名場面である。何をして良いか判らずにうろうろしている。いつものようにすぐには、脱いだ打ち掛けを千松の遺体に掛けにはいかない政岡。打ち掛けを脱いだ後の、真っ赤な衣装は、我が子を救えなかった母親の血の叫びを現しているのだろう。

涙とともに、迸る母情と科白。「三千世界に子を持った親の心は皆ひとつ」という「くどき」の名台詞に、「胴欲非道な母親がまたと一人あるものか」と竹本が、追い掛け、畳み掛け、観客の涙を搾り取る。政岡の、迸る母の愛情は、「熊谷陣屋」の、熊谷直実の、抑制的な父の愛情とともに、歌舞伎や人形浄瑠璃の、親の愛情の表出の場面としては、双璧だろう、と私は思っている。

菊之助は、前半は有能な女性官僚、乳人(母)に徹していて、我が子が目の前で殺されるのを見ても表情を変えず、ほとんど無表情で演じていた。栄御前が騙されたように。玉三郎のそれに比べると、後半の母親・政岡の演技が、まだ弱いのではないか、と思った。

さて、今回は、七之助の政岡初役である。七之助の演技は、玉三郎の教えを守って、とにかく、きちんと真似る、というところに徹しているように見受けられた。それはそれで良し。二人の政岡が、玉三郎をお手本に切磋琢磨して、役を磨いてほしい。菊之助、七之助の「政岡」磨きは、今後の楽しみ。


「闇梅百物語」は、初見。江戸時代に流行した怪談話の「百物語」形式の、リレー舞踊劇。一話を終える度に100本のロウソクの燈芯を消すように、場面を繋いで行く。1900(明治33)年、歌舞伎座初演。原作は、三代目河竹新七。

場面構成と主な配役は、次の通り。
第一場「大名邸広間の場」(軸となる小姓・小梅は、新悟ほか)、第二場「葛西領源兵衛堀の場」(狸は、彌十郎。河童は、種之助、傘・一本足は、歌昇)、第三場「廓裏田圃の場」(雪女郎は、扇雀。新造は、虎之介)、第四場「枯野原の場」(骸骨は、幸四郎)、第五場「庭中花盛りの場」(読売幸吉、実は白狐。籬姫は、鶴松ほか)。暗い場面の果てに、明るい花盛りで閉幕。
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