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2019年08月11日06:47

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関ヶ原の合戦での島津義弘

関ヶ原の戦いで西軍の石田三成方が勝利しても、安定した世の中にはならなかったと思います。石田三成は、豊臣家のために立ち上がりました。二代目の秀頼はまだ子供であり、官僚主義の石田三成を嫌っていた武将も多く、不安定要素はたくさんありました。恐らく三成の技量では、戦国時代はまだまだ終わらなかったでしょう。

現在の世界も、同じ事がいえるのではないでしょうか。アメリカ幕府による、安定した平和、強大な軍事力に抑えられた、不自由な平和ではありますが、戦乱よりはマシでしょう。関ヶ原合戦の後、大阪冬・夏の陣のように、いま少し戦争が起きるかも知れませんが、その後は平和になるのでしょうか。

関ヶ原では、裏切りがあり、西軍の負けが色濃くなってきた時、島津軍の陣は一歩も動きませんでした。島津が西軍についたのは豊臣家への忠義です。石田三成の官僚的支配には我慢がならなかったのです。歴史にifという言葉はないのですが、島津義弘が西軍を率いていたら負けなかったでしょう。

島津義弘は西軍全滅の後、ついに東軍がいっきに押し寄せる中、後退するのではなく、自分の陣に襲い掛かる東軍に向けて中央突破を試みたのです。何とその勢いは東軍の大将・徳川家康の本陣をかすめました。徳川家康は本陣に迫った時には死を覚悟したと言います。

家臣は島津義久を守りながらシンガリを務めて、堺から船に乗り薩摩まで戻りました。城に辿り着いた時は、30人足らずだったそうです。島津義久は時世の句で関ヶ原の合戦を思い出しています。

春秋の花も紅葉もとどまらず
人もむなしき関路なりけり

これは、島津義弘の辞世の句です。

春の桜や秋の紅葉が散ってしまうように人の一生もはかないものです。関路という言葉には関ヶ原からの道のりという意味が込められています。自分ひとりを戦場から逃すために命を落としていった家臣たち。死の間際、義弘の心に去来したのは彼等忠義の家臣たちへの思いだったのかも知れません。生き様とはこうありたい。

島津義弘死後260年経ち、何の因果か徳川幕府を倒すのは薩摩・島津家なのです。

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